クロアチア滞在レポート
「シェルター(避難所)としてのアート」
2009年6月12日から22日までの10日間、クロアチアに滞在した。目的は、首都ザグレブのクロアチア美術協会でのレクチャーを行うことと、シュタグリネツ(Staglinec)という村で行われるパフォーマンスアートフェスティバルに参加すること。このうち、12日から15日までは、アドリア海に面した古都ロヴィンジ(Rovinj)に滞在し、クロアチアの田舎町を体験した。13日は船でベネチアへ行き、ベネチアビエンナーレを5時間だけ見た。
6月11日 成田発 6月12日 クロアチア、ザグレブ着
6月12日〜16日 ロヴィンジ(Rovinj)滞在 13日はベネチア日帰り
6月16日〜18日 ザグレブ滞在 17日レクチャー
6月18日〜21日 シュタグリネツ滞在 フェスティバル参加、20日パフォーマンス
6月22日 ザグレブ発 6月23日 成田着
因みに、国名のCroatiaをクロアチアと読むのはちょっとおかしいらしい。何度も「は?」と聞き返された。英語では、クレィシアと発音するらしい。国内では、Republike Hrvatska(ヘルバツカ共和国)という。このHrvatskaという国名は、1991年のユーゴスラビアからの独立以降のもの。第二次世界大戦前にも一時期、その名前であったこともあるそうだ。左写真は、地元のアーティスト、アントニオ・グレギッチ(Antonio Gregič)がシュタグリネツの会場の小屋に展示した作品。1860〜1914年のオーストリアハンガリー時代から数えて、この国が、計5つの国名に変遷してきたことを、ストリートネーム(ULICAはストリートのこと)の看板に見立てて表した作品。字体が、その時代の文化のカラーを表している。左端は、オーストリア=ハンガリー王国。右端の2Bは実際の番地。拡大してみてください。
オーガナイザーのヴラスタ・デリマー(Vlasta Delimar)とは、2005年頃に東京で会った。彼女が日本のあるアートイベントに参加していた時、わたしはお客としてそのイベントを見に行き、知り合った。その時、わたしは、挨拶代わりに私の作品紹介のプリントを渡していた。彼女は帰国するとすぐにメールをくれて、私の作品の写真と、そのテキストがとても気に入ったので、他の資料も見せて欲しいと。確か私のwebsiteを知らせたのではなかったかと思う。その後、会うことはなかったが、昨年の夏頃、今回のための招待を送ってくれた。彼女のフェスティバルは、今年で8回。国内のアーティストが中心で、若干のヨーロッパ内のアーティストが参加する。たぶん、アジアからは今回が初めてだろう。写真はヴラスタ。ちょっと若い頃だ。
わたし自身、ヨーロッパのフェスティバルはかなりたくさん参加した方だと思う。しかし、今回は、招待アーティストの立場から見て、正直を言っていろいろと疑問なことがあった。できるだけ、プロフェッショナルに行いたくてもそうはいかないことが多々あった。だが、その疑問を日々集め、日々考え、アーティストたちと話し、観客と接し、最終的には、ヴラスタたちのアートの考え方、フェスティバルで行おうとしていることがだんだんわかってきた。
戦争、トラブル、厳格な制度、抑圧は、世界のどこにでもあることだが、このクロアチアでは特別に厳しい経験がある。経験のみならず、今も残る抑圧とその痕跡、そして、未来への不安。今の「クロアチア共和国」になってまだ、たったの18年。いつ別の体制に変わるかわからないと言う。もうさっさと次のもの変わってもらいたいくらいだと皮肉を言う人もいる。制度に対して、個人の力の小ささを心底味わって来た人々。だが、そんな中でもアーティストたちは、活動の場所を確保し続けてきた。人々は他の仕事を持っていても、たとえ軍人や役人として働いていても、アーティストとして集まる時、アートという言語で話をする時だけは、アーティストも観客も平和で自由で友達でいられる。それが一時的なことはわかっている。それでも、その時を充分に楽しみ、人間の可能性に希望を持っていたい。そういうことだと思う。若いクロアチアのアーティストは、チャンスの多いスイスやドイツなどに出て行く。フェスティバルの時は、戻ってくる。国際的なアーティストは、その場所を刺激してくれる存在として、招待している。アートによる自由な表現と交流の場所をつくり、確保するということ。
戦争、トラブル、厳格な制度、抑圧は、世界のどこにでもあることだが、このクロアチアでは特別に厳しい経験がある。経験のみならず、今も残る抑圧とその痕跡、そして、未来への不安。今の「クロアチア共和国」になってまだ、たったの18年。いつ別の体制に変わるかわからないと言う。もうさっさと次のもの変わってもらいたいくらいだと皮肉を言う人もいる。制度に対して、個人の力の小ささを心底味わって来た人々。だが、そんな中でもアーティストたちは、活動の場所を確保し続けてきた。人々は他の仕事を持っていても、たとえ軍人や役人として働いていても、アーティストとして集まる時、アートという言語で話をする時だけは、アーティストも観客も平和で自由で友達でいられる。それが一時的なことはわかっている。それでも、その時を充分に楽しみ、人間の可能性に希望を持っていたい。そういうことだと思う。若いクロアチアのアーティストは、チャンスの多いスイスやドイツなどに出て行く。フェスティバルの時は、戻ってくる。国際的なアーティストは、その場所を刺激してくれる存在として、招待している。アートによる自由な表現と交流の場所をつくり、確保するということ。
それは、今、わたしが住む場所のアートが求められていることとは違うかもしれない。また、わたしが割と頻繁にでかけてきたドイツやイギリスのアートの場所とは違うかもしれない。だが、基本のスピリッツは同じではないか?アートの可能性について考えるのにとても参考になる。わたしは、それを避難所=シェルターと呼んでみたい。逃避ではない。厳しい生存競争の社会、政治闘争や危機の生活、想像力が抑圧されている中で、人間がその可能性や希望、愛、知性などを失わないでいるため、取り戻すための場所「シェルター」。隣にいる人に親しみを感じ、協力しあい、何事かを創造し、共感を語るための場所。このことは、ベネチアビエンナーレであろうと、日本で行われている様々なスタイルのアートイベントでも同じだと感じた。
おしゃべりの時間がかなり多かったので、主にクロアチアのアーティスト、その友人、家族などと話がたくさんでき、彼らの状況などが理解でき、良かったと思う。日本に興味のある人は少なくなく、年配者は小津安二郎、クロサワ映画、禅や空手、また、アニメ(ナルトと遊戯王)にかなりはまっている子供にも出会った。特に、宗教について語ったのは有意義だった。カトリックと共産主義は、両極端だけど、とても似たところがある、という考え方など、大変、興味深い。一神教以外はどうしても、受け入れられないという人とも話した。そうしたことがざっくばらんに話せることはいいことだ。
このレポートは、時系列で書くつもりなので、不満や疑問も正直に書いて行ってみようと思う。そして、経験、会話などを通して、わたしがそれらを理解していく過程が記録できればいいと思う。
おしゃべりの時間がかなり多かったので、主にクロアチアのアーティスト、その友人、家族などと話がたくさんでき、彼らの状況などが理解でき、良かったと思う。日本に興味のある人は少なくなく、年配者は小津安二郎、クロサワ映画、禅や空手、また、アニメ(ナルトと遊戯王)にかなりはまっている子供にも出会った。特に、宗教について語ったのは有意義だった。カトリックと共産主義は、両極端だけど、とても似たところがある、という考え方など、大変、興味深い。一神教以外はどうしても、受け入れられないという人とも話した。そうしたことがざっくばらんに話せることはいいことだ。
このレポートは、時系列で書くつもりなので、不満や疑問も正直に書いて行ってみようと思う。そして、経験、会話などを通して、わたしがそれらを理解していく過程が記録できればいいと思う。