31.12.09

静かな時間をあなたへ。

きのうのブログで書いた作品です。より詳細なデータもありました。アーティストは、Walter Schels。ドイツ人。

Wish on Art

きのうは、どうしても東京に行かなくてはならなかったので(東京に住んでいないことがこっそりバレる)、ついでに「医学と芸術」展を見た。博物館のノリで、面白いと言えば、面白いし、別にこじつけたな〜、という気持ちもおこりながら、見た。総体としては、面白かった。ロンドンのサイエンスミュージアムと、ウエルカム財団(国際市場で第2位の製薬会社)のコレクションからの出品が中心的。サイエンスミュージアムからは、わりと正当派な身体にまつわる医学資料が来ていて、ウエルカム財団(まったくなんて名だ!)からは、ちょっと変質的な資料があったという印象。現代美術の作品も、森美さんだから、ありました。どちらかというと、ギャグみたいなのが、多かった中、忘れがたい印象を残した作品は、が、4人程の人の、生前と死後の顔のアップのモノクロの大写し写真。アーティストの名前を忘れてしまいました。たぶん、生前の写真は、亡くなる数ヶ月以内、亡くなる宣告を受けた人だと思います。きわどいけれど、大変、まじめで、かつ美しい作品で深く深く印象に残りました。発想としては、特にユニークなわけではないが、いろいろな意味で、丁寧な作品でした。ヨーロッパのアーティストだと思う。一緒に見た人がメモしていたので、名前がわかったらのせます。他にどんな作品を作っているのか、知りたいもんね。写真のモデルは、初老の男性、赤ちゃん、アジア系の女性、年配の女性だったと思います。それから、久しぶりに見たブラザー・クエイの作品も楽しかった。

個人的に、できすぎてると思う「出来事」は、私が、展覧会を見ている間に、ありました。保険会社から携帯電話にコールが入り、後で、かけ直したけど、......つまり、父の「高度障害保険」が、入金されたというお知らせが、入ったのです。高度障害保険とは、死亡保険を生前に払うという保険です。身体が相当ガタ来ていて、回復の見込みがないと判断された場合に、払われます。これをもらうと、もうその保険会社との契約は切れます。独特の、明るく響く声の担当者で、とても親切でした。たぶん、そのような声であるのが、正しいのだと思います。

わたしが、医学と芸術を関連づけて作品を作るとしたら、保険に関することになると思います。とても、興味深い、残酷で、役に立つ(こともあるし、捨てているに等しい)システムですね。社員は結構良い給料です。21世紀に発展する業界は、保険とセキュリティ関係でしょう。Drillで、少し、触れています。YouTubeには、出してない部分。もっと早く興味を持ちたかった。

頭の中で、何度もすでに行っているパフォーマンスは、保険会社のカウンターに、棺をかついで入り、そこで、しんみりと(あるいは陽気に)お葬式の儀式をするというものです。歌などを歌います。棺を担いで、丸の内あたりを歩きたいけれど、棺をどう用意するのかしらと思う。オノヨーコじゃないからさ、たった1つだって、用意に困るのだ。頭の中でやってみるパフォーマンス。

「Wish on Art」は、スイスの若いアーティスト、ミロスラブがさっき送ってきたメール。彼のプロジェクト。よくわからないけど、いろんな写真に、スタンプを押しているみたいです。お願いの、お守りみたいな感じに見えて来る。スタンプにあるメルアドに何か、書き送ってくれっていうわけなんだと思います。送ってみます?
Have a nice year-end.


27.12.09

年の瀬川柳

2つ作りました。川柳の先生である父に見せたら、以下の方を誉めてくれました。実は、借金は(まだ)ありませんが、印象として。昔は、借金は年末に整理するものでした。工面に間に合わず、あきらめ果てているうちに、除夜の鐘が鳴ってしまった、という情景です。




借金も仲良く除夜の鐘を聞く





写真は、今年知り合ったハンガリー人のイメラからのGreeting。

26.12.09

Greeting Card 2010

年末になるとあちこちから、様々なGreeting Cardが、メールで届けられて来ます。それに、Thank you で返事するより、カードで書いた方がよいかと思い、きのう夜中にがんばってつくりました。なんだか、品よくできて、パフォーマンスの途中だとは、思わない人もいるかも。

けさ母が、父の入院している病院から帰って来て「ついに、あの人、しゃべらなくなった」と、肩を落としていました。それで、今日、午後に行ってみると、ぐうぐう寝ていて、看護士さんが「きのう遅くまで興奮してましてね、夜中ほとんど寝てないみたいでした」と。「でも、今、また寝ていると今晩も眠れなくなるので、起きていてもらってください」。きのう夕方わたしが行った時「もうやすらかに死なせて欲しいよ。......こんなこと、言うからって、悲しまないでね。」と言ってしまったからかもしれません。それで、思いついて、父の最大の趣味であった(仕事でもある)川柳の本を取りに帰り、持って行き、読んであげることにしました。なかなか面白い本で、戦後の復興から現代までの間の時事川柳を集めたもの。聞いている?と聞くと、うなづくけど、どうしても、目が開かない。手を握って「面白いときは、きゅって指を動かしてね」と言いました。そうしたら、時々、ちょっと動かす。何か聞くと「しっている」くらいは答える。昭和30年頃はやった歌「バナナボート」の話があったので、どんな歌だっけと聞くと、歌い出した。「デ〜オ〜デ〜〜オ〜」まあ、つまり、おっくうで動きたくない、という状態です。あしたも行って読もうと思います。小説なんかと違って、ひとつひとつが短いから、ずっと聞いていなくても大丈夫なのです。

ブログって、日記形式だけど、日記でない、ということに今日はじっくり気がついた。これらをプリントアウトするのも、ばかばかしいし、つまりは消えてしまうもの。つまりは、読んでいる少数の人にむけたエッセイのようなものだね。

時々、殴り書きのように、思いのたけを書いてしまうことあるけど、あまり良くないなと思いました。特に、わたしのブログは、若い人たちも読んでいて、書いていることをあまり理解できないまま、不安な気持ちになったりするかもしれない。気をつけて書こうと思うのであります。
.......でも、昨日の、燃えちゃってるツリーは、いいでしょう? キリスト教の人はあまりいないだろうから、道徳的な不快はないとおもうのよね。

24.12.09

have a hot Christmas

Enjoy hot Christmas

所有権

ちょっとだけ知り合いの人が企画したライブイベントに行った。少し遅れて行ったということもあって、席がない。友達は少し先に来ていて、やはり、もう場所がなくて、どうしようということになった。飲み物の注文だって15分くらいかかるし、食べ物などを注文したら、大変なことになりそうだった。知り合いのパフォーマンスをひとつだけ、見て帰ることにした。その知り合いのパフォーマンスは、なかなか生かしていたので、それで、けっこう、満足だね、と友達と言い、調布駅の前のホルモン屋で、食事をして帰った。できたら、予約制にして欲しかったなと思ったけど、おもいがけず、たくさん、来てしまったのだろう。恨みはないけど、途中から抜けた、後ろめたさはあります。ごめんね。でも、お腹すいていたし、騒音は、耐えられん。でも、ウイリアムさんのパフォーマンスをついに、見られてよかった。
今月中はもうひとつ(別の)行くかどうか、思案中。自分の人生が大変すぎて、抜け出せるか、あやしい。
ライブって、本当に、厚い層があるんだってわかったが、たぶん、日本ではパフォーマーって地位が低い。美術家とたいして変わらないと思うが、そうなる。どうしてなんだか。

今日の動画は、わたしの承諾なく勝手にiTuneなどの広告が付け加えられているのにも、かかわらず、わたしのアカウントには、「他人が所有権を持つコンテンツが含まれている可能性があります」と警告されている動画。なんか、図々しいと思う。googleさんとYoutubeさんよ。

23.12.09

さようなら0S9

ということで、OS9のアップルの君、ついに、呼吸が止まってしまいました。スーツケースを押し入れにしまうために、少し、動かしたら、その後から、息が絶えてしまいました。近頃、息絶え絶えでしたが。それで、プリンター君も、スキャナー君も、OS9対応なので、古墳に埋葬される埴輪のように、ともに、生きながら、役目を終えます。新しい王OSX様は、皇太子として、すでに実際の実務のほとんどは、執り行っていましたから、今後の国政に影響はありません。彼専用の配下として、プリンター+スキャナー君が、新たに入閣しました。


それととも、へやが模様替えされます。ホームページもしばらく、アップできません。あれも、OS9の君のお仕事でしたからね。HTMLをやっぱりやんなくてはならん。できるかな、できるかな。


本日の映像は、Sun Raにします。アフリカ系アメリカ人ジャズではなくて、アフリカ人ジャズ。最近知ったばかりだけど。

20.12.09

作品が他人の作品に混ざる時

こんなのあった、そういえば。ほんとに、ワルシャワ大学に忍び込んで、ロケした。ここではあまりわたしの作品はまざってない。一応、アクトレスとして、行った。


以下は、アクトレスとして、名前を出すのは、やめて欲しいと、パベルに言ったので、名前がないです、こっちでは。わたしの作品だもん。剽窃じゃん。コラボレーターとなら、名前をのせてもいいけど。



パベルのサイト。さなぎの家も映っているんだ。

こっちは、わたし。

19.12.09

誕生日だったので

なぜだか、今年は、Facebookがらみで、たくさんの「おめでとう!」メールが来た。Facebookの「奨励」によるものだと思うけど、楽しいもんだ。

昨日の午前中父が退院して、昨日の夜の11時すぎに、また、病院へ戻った。一旦、あきらめた(危険だから)手術をやはり受けることになる。「もうご自宅に帰れないことになるかもしれませんが、ご承知下さい。もちろん、ベストを尽します。」と先生は言い、私たちは書類にサインした。夜中12時過ぎに、わたしの誕生日だからと、母と安ワインをあける。ほとんど、わたしが飲んだかも。今日は、完全に爆死したまま過ごした一日だった。安いお酒は、本当に身体に悪い。

添付は、ポーランドのダリウスが送ってきた季節のごあいさつ。

18.12.09

ICCと世界銀行情報センター

今日は、ICCと世界銀行の情報センターというところへ行った。
なかなかイカした組み合わせ。

ICCでは、コープヒルメンブラウの展示とオープンスペースの一部に作品をみる。
コープは、建築の話。都市計画は、雲のようであり、建築は身体の神経系統ようなものだという理念にもとずく建築を作っているらしい。
ところで、展示作品がインタラクティブと言ったって、それほど、知覚に特別な経験があるわけではない。心臓音が、変換されて映像になって、バルーンに照らされたり、など。まあ、建築家の話だ。妄想も、常識の範囲。
それから、オープンスペースの『メトロノームと無響室のための作品』は、楽しかった。音を楽しんだ。エンターテイメントだね。何か、なぞがあるわけではない。『ミッションG』は、ちょっとあたしの頭には、むづかしい。だいたいの説明は、以前、四方さんが話しておられたので、まったくわからないというわけではないが、私の能力の限界。残念。
『続基礎情報学』という本を買った。読めるかな(笑)。

世界銀行情報センターは、富国生命ビルにある。なるほど面白い。でも、センターといっても、携帯売り場のショップみたいなかわいらしい場所なのは、意外だった。そこでは「アフリカの開発とアート」展でという小さな展示があり、今日は「現代アートを通して見る東アフリカ社会」よいう吉田栄一さんのトーク(レクチャー)を聞く。世界銀行という場所で、どういうスタンスなのかな、と思った。なかなか微妙で面白かった。興味深い視線を持った人だなと思った。アフリカのアーティストの多くは、外国人に売れるから、作品を描いている。人気があるのは、動物の絵、色鮮やかな絵、政治・社会問題を扱ったもの。でも、売れなくても、自分の描きたいと思うものを描こうという人も出てきている。アフリカにある画廊は、ほぼすべて、ヨーロッパ人の作ったものだそうだ。美術館でも売っている。ポストカルチュラル、と言ってしまえば、それまでだけど。

アートって、ウイルスだなと思う。文化とイコールではない、もちろん。なら、なくてもいいものなのかも、と思ったが、もう知ってしまった以上、その感染した身体で、生きて行くよりないし、それが、まあ、アートなんだな。ねじねじにねじれている。今日来ていた人の中には、それらを(売って)ひと稼ごうかしらという人もいたみたいだ。描く方の気持ちはあんまり考えてない感じ。そういう金脈があるんだったらって感じだ。開発には、セットとして、教育ってのもあって、それって、おしつけがましい(笑)わけなんだけど、良いことだと信じている人は、良い仕事をしていると思っているし、たぶん、そうなんだろうと思う。その辺をとやかく言うのが、わたしの仕事ではなくて、そのことによって、できたねじれで、どういうアートが作られるんだろう、ということに興味がある。つまり、自分も、そういう場所にいるので。指は指差せないから、目だけでも遠くへ。

17.12.09

デイブ・ブルーベックたち

こういうところでは、ただの人に見えてしまう。デニーロも、ブルース・プリングスティンもね。大統領のかざり。どことなく、しょうがなさそうにしているのは、照れなのかな。
ケネディ賞受賞。なんか、とっても、政治利用。そういうものですね。




.......そんなこと気にしている場合でもない。
台湾レポートをまだ書いている私。近いうちに、アップしますね。

15.12.09

健全な(その定義もむずかしいけど)思考力、分析力、理解力、想像力、創造力を維持、あるいは発展させるために、必要なセルフエデュケーション、テストする場所は、常に必要だ。ヒエラルキーに対するセンスなども。

また、闇の中を歩いている人が、目を頼りに歩こうとしている、そのフラストレーションに、何ができるか? ということを考える。目で見るのは、やめた方がいいと言って伝わるかしら。

以下は、今年のベネチアビエンナーレで見たロシアの作家の作品。ブラックライトで照らされていた、壁に描かれた作品。うっかりフラッシュをたいて写真をとると真っ白の壁しか写らないかった。

13.12.09

定番

ジェイソン・リムがメールをくれて、以下の写真を貼付して、「君を思い出したよ」と書いてくれた。それはうれしい。カクテルパーティが始まるたびに、思い出してくれる人もいるかもしれない。
わたしは、むしろ、その下のロイ・ファーラを思い出す。
ジェイソンだって、グラスをよく使う。
まあ、パフォーマンスアートの定番の素材でもあるんだ。どう潰すかが、アーティストのパーソナリティやコンセプトによるので、それが、味わいの決定的な違いになる。


12.12.09

Drill

2006年のヘルシンキでの”Drill” アップしました。携帯電話機で有名なエレクトロニックカンパニーであるNOKIAの工場だった場所が、「ケーブルファクトリー」という名のアートスペースになっている、そういうところで行いました。レポートあります。

パフォーマンスとしては、ちょっと納得してない所もあったのだけど、今見ると、自分でわからなかった所の意味がつかめた。
..........とにかく、このビデオは8分くらいですが、実際は50分くらいであり、いかに、しつこく、「ドリル」していて、お客がどれほど、あきれ果てたかは、想像していただくしかないのかな。
あきれて果てる、というのが、大事なのかな〜

近代日本が、身体的に近代人になる過程を、ちょっと皮肉をこめて紹介しました。日本人だけでなく、20世紀はセカイ中で、拳をあげていた。ロックンロールも20世紀的な4拍子のマーチのひとつ。高いところで、手を降り、投げキスをする私は、ロックンローラーなのか? 

金属をリンゴという身体に埋めていくのは、鍛錬と錬金術をかけた。無理矢理、近代化させられる身体が悲鳴をあげている、というイメージ。実のところ、にせものなんではないの?というわけ。

というテーマなんだけど、楽しんでいただけるかどうか。

11.12.09

触れられる音

いたよね、ウィル・スミス、オスロに。ニュースでちらっと見たけど、説明もなかったので、自分で探した。(ヒマなんだ、わたしは)

ところで、C&Mは、東京でも新しいメンバーが入ったし、台湾のメンバーも入った。どう進化するか、楽しみ。よくあるスタイルの交換イベントだけはやりたくない。花火のように終わってしまうからね。 来年は、大学を卒業するメンバーも多くて、これから必ずしも、学生対象にはならなくなるでしょう。それでも、「自主研究」である柱をすてずにいたい。イベントなら、世の中たくさんある。それに、芸術家になるだけが、人生の選択ではない、という方向でいたいとも思っています。わたしは、もう方向転換できないけど、若い人たちは、様々な方向があるべきだと思う。それに.......一番、大事なことは「アートはアーティストのためだけではない」ということかもしれない。なんてね。

父の病気のこともあるので、今年から来年にかけては、じっくりした日々を送りたいとも、思っています。

写真は、スティービー・ワンダーの指。たぶん、まだ彼が20代のころ。後ろにある白っぽいのは、誰の指か知らない。ビデオからとったので、次の映像と混ざっているけど。見えない人が、音を「触れられるもの」のように感じているかのような、感じに、関心があります。辻井君にもちょっと注目。

9.12.09

それは冷やしてはいけない

きのうは、午後に、ひさしぶりに、LeeWenに会い、喫茶店でお茶を飲みながら、近況を話しあう。もう、10年のつきあいだと、「古い」友達の領域だ。ありがたいものだ。
それから、ICCに行こうとしたけど、もう時間が遅かったので、あきらめて、渋谷で、御飯をひとりで、食べて、Kと待ち合わせ。彼女は、この夏からの友達。ここでも近況を話しあって、それから、いっしょにイメージフォーラムに行き、イトウタカシ氏のフィルムをいくつか見る。やはり、Spacyのインパクトがすごい。Spacyの面白さは、どんなセンチメンタルもないところなんだ。すっぽり抜けている。ばかばかしいようなセットが良い。Ghostもいいけど、中味や風味がありすぎかも。

あ、わたしのDrillもアップしょう。

以下は、イトウさんのDVDの宣伝用。これでは知らない人には、わからないかも。DVD用の効果と間違われるかも。この宣伝用動画の中では、倉庫みたいなところを、行ったり来たりするとことが好きだな。わたしみたいだから(すまない)。

ところで、見に来ている人々は、そろってむさ苦しいにいさん、おじさんばかりであった。やはり、カップルでは見ないタイプのものらしい。

Kさんと、近くのワンコインバーで、赤ワインを一杯だけ飲んで、いろいろ話して帰る。赤ワインが、冷えていたので、苦くなっていた。渋谷も田舎なんかな。赤ワインは、決して冷やしてはいけん。
Kさんには、オセロの作品(Ceiling Painting)の話をしたら、大変、おもしろがってくれた。京都の寺院でやって欲しいと言っていた。陰陽道にはまっていくのか、わたしらは。

7.12.09

C&M 少し進行

多摩美でのサウンドミーティングの後、休眠していたC&Mは、新たな展開をはじめています。まだ、言えないけど。
毎日、ジミにメールを書き合って、相談です。 テルアビブのプレムは、本当にいいコーワーカーです。
彼が、今年キブツでのセミナーで書いた論文が送られてきました。戦争とアート、というそのものずばりのテーマです。20世紀に、戦争のイメージがアートの中でどう表現されてきたか、という内容ではないかと思います。面白そうです。
別件だけど、ワンダララ計画で、呼ぶ予定だった、マリリンが、台湾でしたレクチャーの原稿も送ってもらいました。こちらは、パフォーマンスアートのイントロダクション。まるで、知らない人向けの紹介ですが、「観客の役割」というチャプターもあってよさそうです。
わたしの頭の中でも、論文を書いています。
芸術におけるウエスタンスタンダードを受け入れながら、スタンダードの中にいない者の劣等意識でなく、スタンダードの外にいるからこそ、総じた立場で見ることができる、という強みについて。文化は政治なのであります。政治を動かすのではなくて、すでに政治の一部。

6.12.09

こんなことも、あった

写真は、ジェレミー・コールマンによる。忘れた頃に送ってくれるナイスな写真家。最初の3枚は、去年だっけ、桜木町で、寝たやつ。わたしは、律儀に、白いところに寝ているのに、他の人は、適当なのが、気になる。どうして、話を聞いてないのか、と思ってしまうが、まあ、こういうこともある。
後半は、2006年の12月。トキアートスペースで、いろはにほへとを、歌った。最後のは、トキアートスペースの近くのそば屋でイルマと飲みながら、話している。イルマは、いろはにほへとの歌が、なぜか、とても気に入って、教えてくれと言うのである。エンドレスで歌い続けてしまう歌。このころから、わたしの声が通るようになったと思う。けっこう、こっそり、練習したもん。狂言風に。だれも狂言風だとは、気がつかなかったみたいだけど。
この作品は、楽しんだ人も多かったが、いやがった人もちょっといた。 

さっき、友達が携帯メールで、わたしが、阿部寛に似ているのではないかと書いてきた。そうかな。





5.12.09

誰かな〜

このブログを書いている人。わたしのこと、少し、知っている感じ。そんな風に、読むこともできるのか〜、と感心する。

地球の歩き方、銀座編
これはどういうこと? オートマチックに組み込まれたのではないでしょう? ビデオを撮った木村さんの投稿かもしれない。

4.12.09

手術、のことなど

父がまた手術をすることになった。でも、今度、手術すると、死ぬ可能性もあるとのこと。でも、父は、すっきりしたいので、死ぬ覚悟で、手術したいとのこと。一日一日、一時間一時間、一分一分が、貴重に感じられる。
時間が重くなると、今度は、どうしたらいいのか、わからないくて、時間が流れるのを、眺めてしまうことになる。
どのみち、人生とはそうなのかもしれない。

人は、自分に心地よいことで動くという生き物だ。お金がもらえる、異性と(あるいは同性と)仲良くできるといった基本的な欲望の次に、名誉を感じられる、自慢できる、良い人に見られる、何かを得る為に学べる、チャンスを得られる、かっっこいい気分を味わえる、人の上に立てる、自分のセンスを磨ける、自分独自のモノの見方をためすことができる、共犯者になる、などの他、「面白い」にはいろいろなニュアンスがあるが、どちらにせよ、とんがりたい気分とつながっている。誰もが楽しめる、といったことに、あまり興味がないのが、本当のアート好きだと確信している私。味わうには、集中力や経験、想像力のたくましさを求められるようなものに、ぴんと来る、喜び。スノッブさが必要だと思っている。ミーハーよりスノッブ。簡単に見えてしまうものでは、満足しない。


自分の作品。台湾で行ったもの。
目で見ずに、指の感覚だけで、駒を返してゆく。
最後には、すべてYesにしたが、本当は、どちらでも良い。ゆっくり混ざって行く過程が大事だと思う。床には、陰陽のマークが描かれている。白い脚立は、オノヨーコの「Ceiling Painting」の主なツール。わたしは、登って、虫眼鏡ではなくて、双眼鏡を使う。yesだろうが、黒だろうが、どちらでも良いというのが、わたしの方法。21世紀的だと思っている。






3.12.09

共犯感覚

皆さん、お元気ですか。わたしは元気です。身体は、あちこち痛くて、がたがたですが、気力はばっちりです。(年寄りみたいだ)

いろいろなことがありました。「ぴちぴち行動展」のパフォ『Wind from Sky 2』。まあまあです。喜んでくれた人が何人かいたので、それで、良いと思います。銀座でのが、私的にはベストなんだけど、場所が広くなると、いろいろ条件が変わるし、わたし自身の欲も出てきます。ラストは、今回の「ターナーギャラリーバージョン」固有の展開があって、良かった。固有の展開が、大事。課題は、同じテーブルクロスでも、滑りの悪いテーブルというのがあって、グラスがテーブルから落ちる前に、テーブルの上で倒れてしまうことを、どう扱うかです。前できたことを同じことをしようとしても、それは無理だ。台湾の時も、そう。テーブルが大きいという問題もあります。どちらにせよ、楽しくやれれば、何でも良いのだ。


もうひとつ意外だったのは、床が、危険+汚れまみれになること、若い人たちは「面白い」と感じていること。やっているわたしですら、「汚くなった、やばい」と思っているのに、彼らは、そのまま、残したいと思うらしい。なので、当日は、掃除をしないで、その後ずっと、ガラスをジャリジャリ踏みながら、イベントを続けました。酔っぱらいがでると危ないなと思ったけど、最近の若者は、泥酔しないみたいです。飲み物より、食べ物の方が、あっという間になくなります。彼らが、健全であるゆえ、ドロドロが、かっこ良く見えるのかな。もしや「やばい」の意味が、世代で違っているのと、同じような理由かもしれない。


台湾でも聞かれたけど、「発想はどういうところからですか」「コンセプトは?」という質問には、「すべて何もかもをのものを、めちゃくちゃに壊し尽してみたいという欲望って、誰にもあるでしょう?」と私は、まず、言います。すると、聞いた若者は、私の目をじっと見て、用心深そうにうなずきます。決して、勢い込んで、うんうんとは言わない。わたしは、それを見ると、胸がきゅんとなる。おおっぴらに認めては行けないことだと思っている、のか? たぶん、開き直ってはいけないことなんだね。その、やさしさ、臆病さが、好きです。それから、その瞬間、私たちは、共犯者の心になる。それも胸きゅんだ。

銀座で、みんなで寝るパフォーマンスも、共犯感覚だった。わたしのパフォーマンスは見ている人と場所を共有して、欲望や興味を共有することになりがちである。それって、ちょっと、共犯なのかなと思う。反社会的なことを、疑似体験するってカンジ。あくまで、アートの文脈で、それを行うというのが、わたしのスタンス。なので、銀座であれをしても「格差社会」に、問題提起できたとは思わない、通行人にインパクトを与えたいとも思わない。ほんとに、社会の中で、暴れたい、あるいはメッセージをしたい人とは、別だ。


今日は、別のネタを書くつもりだった。今日、書く予定だったことは「類は類を呼ぶ」ということと、人間関係の話ばっかりする人々について、文句をたれようと思っていたけど、まあ、いいや。あしたにしようっと。


腕については、整形外科で、何枚もレントゲンをとって、骨の異常がないということで、痛み止めだけもらう。異常がないって? 骨盤が「ダンス中」みたいに、右上がりなのは、お医者には、「問題ない」らしい。しょうがないから、今度は、整体師だ。ダンスは、ダンスのときだけで良いのであります。ダンスを休もう。

28.11.09

渋滞学とぴちぴち行動

今日は、「渋滞学」の話を、立教大学に聞きに行った
きちんと急ぎたいなら、ゆっくりゆけ、ということを数学で証明した西成さん。国のお金で研究している超エリートだけど、変人きどりで、妙に楽しそうなやつだった。まあ、それはいい。
自分だけ助かろうとすると、もしかして、自分だけは助かるかもしれないが、あるいは、自分も含めて多くの人が助からないかもしれない。ゆっくりすれば、より多くが助かる。自分は、自分ひとりではないのだ。ひとりで、無人島にたどり着いたってつまらないじゃん。とまでは言わなかったけど。数学が実学に応用されるとも言えるし、実学の真理に、数学がある、とも言える。
21世紀を生きる為の、知恵を、収集する為に、こういう授業も受けておきたいと思った。

明日は、C&M tokyoの最も若いメンバー、阪中君の企画している「ぴちぴち行動展」のオープニングに、パフォーマンスをしにゆく。明日からだってのに、ホームページに、スケジュールが出てない。明日は、その阪中君の誕生日で、20歳になるんだそうだ。そのパーティに、パフォーマンスを頼まれた。作品も、例の、グラスを、落して行くやつをやって欲しいというので、今日は、数千円分のグラスを買った。西武線東長崎駅から10分のターナーギャラリーで、19時からです。まあ、19歳にしては、すごくしっかり、アーティストである、阪中君をお祝いしてあげよう。テーブルの上に渋滞を作る。解消は、平和的ではない。

右腕が痛すぎるのが直らないので、来週は、整形外科に行きます。右足の親指の爪も割れているみたいなので、それももてもらおうっと。壊れているのは、わたしの方なのだ。

22.11.09

帰国しました。

おととい帰国しました。最後の晩に、風邪を引いたらしく、飛行機の中で、吐きながらかえってきました(笑)。検疫はめんどくさそうなので、無視して、家に帰り、熱いオフロに入り、おかゆを食べ、2日ひたすら寝、なんとか、直ったみたい。インフルエンザじゃな〜いと祈りつつ。大丈夫、高熱は出てない。

台湾。わたしが参加したイベントで、わたしがもっとも成功したもののうちのひとつとなりました。

昨年からやっているパーティのように優雅にセットされたグラスたちをターミネート(皆殺し)していゆくパフォーマンス『Wind from Sky』、台東大学の100人以上の学生に囲まれて、ほんものの風がびゅんびゅんふく屋外の石造りのステージで、日も暮れ始めた約一時間、ねっちりと、闘牛のようなしつこさで、ねじふせました。ちょっと中だるみしたものの(つまり、風が強いので、紙やプラスティックのものが置けず、全体の質感が似てきてしまったのでね)、屋外であることを良いことに、暴力性がましてきて、力士のようになってきた。すいかや、シャンパンボトルという大物も、がしゃぐしゃ。面白かったのが、ものが落ちるたびに、学生さんがキャーと声をあげ、しまいには、5人ぐらいの学生さんが出てきて、シャンパンやグラスを、救済してゆきました。
準備に少々お金がかかる作品ですが、やるたびに、状況が変わって、自分でも、ハラハラします。買い物にも、神経使ったよ、だって、100円ショップがないんだもん。でも、お店で、ねぎらせていただきました。

新しい作品『Ceiling Painting』は2時間のデュレーションパフォ。台北と台東の両方で行いました。これは、参加アーティストすべてが、同じ時間に別々の場所で、別々の作品を2時間行うというもの。観客は地図を持って、見てまわります。(ちょっとサファリパークみたいなもんだ)
台北では、公園の中の、子供がよくのぼるような木造3階建ての展望台の、てっぺんの狭いスペースで行いました。覗き込まなくてはならないので、あまり、よく見られなかったかもしれないけれど。ただ、アイデアはわりと、判りやすかったと思います。陰陽の印、太極の図を描きました。その上に、白い面にyesというシールを貼ったオセロのコマを、120個ほど置き、直接、見ずに、目を背けたまま、指の感覚だけで、コマを裏返します。はじめは、ばらばらに置いて、それから、それらをずべて、黒にする。yesの側は、シールが貼ってあるので、ざらざらします。時々、脚立に登って、その上から双眼鏡で、それらを確認する。双眼鏡は、近くを見るための道具ではないですから、大変見にくい。すべて黒にしたら、今度は、すべて白のyesにする。およそ、2時間かかります。双眼鏡で、脚立の上に立つときは回りの風景も見て回る。それは、公園内のいろんな人から見えたでしょう。面白かったのが、原住民であるワタンというアーティストが、展望台の私に、原住民の姿で、弓矢を射るアクションをしたこと。150年近く前の、台湾の状況を、表したみたいです。

台東市では、元砂糖工場跡地が、私たちのデュレーションパフォーマンスに与えられたスペースでした。わたしは、元事務所棟で今はカフェになっている建物の中庭で、行いました。ここには、黒犬2匹と猫がいつもたむろっています。白黒のオセロのコマを使うので、いい感じになると思いました。ここでも、学生さんの自由参加があって、終わるとともに、そのまま、ミニトークタイムになっていったのは、良かった。うれしかったのは、カフェのオーナーのナイスなおにいさんが、いたく喜んでくれたことかな。指で、ゆっくり、yesを探すというアクションは、理解しやすかったと思います。ヨコハマのカフェのオジサンもこうだったら、良かったのに..........。
残念なのは、このイベントの方法だと、他の人の作品がほとんど、見られないことですね。
なので、自分の話ばっかりになる。


トークイベントもしました。予定にはなかったので、ホームページからテキストをダウンロードして、持っていたDVDをネタに、1時間ほど。通訳が入るから、実質45分くらいだったかな。5月のザグレブ行きの時に作ったものが、ここでは、カットされずに、最後まで、見てもらうことができました。


今回学んだことは、イチローに同じく、パフォーマンスに立つまでのプロセスが大事ということ。集中力を高めてゆく流れの中に、無駄をはぶいて、まっすぐ、目的に向かうということ。わかっていても、いつもできるわけではないですね。
今回は、オーガナイザーのイエーツーチーの、イベントの目的がはっきり、わかり、それがぶれていないことを知って、リラックスできたこと。ウソや駆け引き、パワーゲームがないこと。これは、わたしのような生き物には、ありがたい。
この実績を、どう日本での活動に生かしたら、いいか、考えると頭が痛い。単に、台湾の空にギフトとして、撒いてきただけのことになるのか?
まずは、今後は、知り合った学生さんたちを、C&Mに巻き込むかどうか、考えている。


写真は後日。

11.11.09

イカした写真

では、
12日から19日まで台湾へ行ってきます。
2回のデュレーションパフォーマンスと、台東大学でのソロパフォーマンス。台東大学でのソロは、他の人はやらないので、責任重大です。
イベントは、もう一週間長く続きますが、わたしは、父の病状のこともあり、半分で帰ってきます。

デュレーションパフォーマンスの内容が、まだ、はっきり決まらないんだ。苦しんでおります。

みなさん、ごきげんよう。


以下は、今年4月の例のあたしのパフォ。この写真もいかしています。芝田文乃さん。現在個展中。 この写真はないと思うけど。


10.11.09

無事に生き延びられるか

実のところの最大の問題はこれ。
事故や病気で死ぬのは、案外怖くない。もうあしただっていいくらいだ。
だけど、生活できなくなり、餓死するとか、施設に送られて生きながら死んでいるというようなことになる可能性は、可能性の問題ではなくて、三分の一くらいの確率で私に、起きる。

20年くらい前に、「40歳寿命説」という本があって、たしか西丸震哉という農水省にいた食糧学者が書いた。1960年代前後以降の生まれの人は、長く生きられないというのだ。食事の内容から、書いていたと思う。わたしは、40歳を過ぎた頃、あれ、案外大丈夫じゃんと思った。
ところが、ここに来て、50歳前後の人が、突然死する話を聞くようになった。主に、過労死なんだけど。
そうすると、将来、老人人口が増えていくという問題は、妙なことで、緩和されるかもしれない。つまり、多くは長生きしなくなる、ということ。

なので、上手に病気で早死にしたいって書いているわけではないけれど、言っているのかな。


とにかく、生き延びられるか、それは実は切実。だからって、職種換えすることもままならず、いつか........憤死するのかもね。

昨年から今年にかけて、亡くなった私の知り合いは、ふたりともアートプロジェクトを、手弁当で走り回っていて、途上で、倒れている。どちらも、とても、まっすぐな人だった。あきれるくらい。たぶん、ひとりで引き受けていたんだろう。「良い人から逝ってしまった」と書いたのは、アウシュビッツを生き延びた精神科医のフランクル氏。
良い人は、本格的な修羅場の来る前に、行ってしまえる、ということかな。アートプロジェクトはやめたがいい、ってことかな。大きなのはやらない。


金持ちたちは、策をねっているよ。どうやって、人口が増えて行くのを止めようかって。日本は増えてないけどね。


椅子トリゲームは始まっている。

9.11.09

虚栄心

左手でやってます、あいかわらず。右手は、拷問され続けてる。

虚栄心は、はずかしいことでもなんでもない。だが、自分のそれと、他人のそれを、どう扱うか、だね。
わたしは、かなり、もう冷静になってしまって、後をひくようなことはないみたい。なくしたわけではなくて、飼いならしている。でも、他人のはどうしようかな。

作品、整理がまだつかず。すげ〜目立ちたいし、ロジカルな美しさも欲しい。やはり考えるのは、未来の人間なのだ。

MLでシモダ氏が、パフォーマンスアートの弁明みたいなこと書いていたけど、じゃ、何が面白いんだ? ということになる。問題はジャンルでかこってしまっていることだと思う。だって、なぜ、他人の作品まで引き受けなくてはならないの? 
もはや「運動」のスタイルは、生かされない。匿名性みたいなことって、わたしには興味がないもん。虚栄心があるからね。

今日も家事とデザイン仕事に追われるけど、時間をみつけて、妄想を広げたい。

8.11.09

うそはばれてしまう

右腕右肩が、痛くていたくて、整体に行ったけど、だめ。もう、マウスを持つことができなくて、左手で行う。これは本当の話。



通じないことはとても、多いのに、嘘だけは伝わってしまう。


前回、ボストンに行った時、喧嘩したジュリー・アンドレに台湾で会う。Facebookで友達申請してみた。2週間音沙汰なかったけど、やっと、承認。まあ、同じようなことを考えているのだろう。

セカイは、リバイヤサンの状態だと思う? わたしは思う。そのために、社会や法律がある。わたしは決して、アナーキストにならない。
アートが社会を救うなんて思わない。いかなる階級に人にも、潜む、人間以外のセカイに、またがっている人々との、組織なしの共同意識の確認なのだ。そのネットワークを、こっそり、広めてゆく。どこに仲間がいるか、知らない。ジュリー・アンドレも仲間かもしれないが、くだらない社会のために、分断されているだけの話。わたしたちの存在が、世界の試金石になる。(嘘)

石坂浩二とケビン・スペーシーの嘘は、好き。うれしくなる。
スティーブ・ライヒの嘘はどうしようか? フィリップ・グラスの嘘は、世間に許されてないらしいね。う〜ん。
なんか別の話になってきた。

気持ちのよい嘘をつこう。

7.11.09

目をあけているが

目をあけているが、焦点をさだめない。空の方だけ、見る。まるで、盲目のような動きだが、見てはいる。

地面にオセロの駒を、鳩にえさをやるようにほおる。自分が鳩のようになってその中を歩きながら、駒を拾う。杯を持つ手つきで、駒をささえ、脚立をのぼる。空とともに杯を乾杯する手つきで、駒を高く上げる。そして、一瞬だけ、目を駒にフォーカスする。そこには、Yesと書いてある白い方か、何も書いていない黒い方かが見える。笑顔を絶やさない。その駒は、また放る。
脚立で前へ前へと移動する。通行人も皆参加できる。
時間4〜5時間。

”Ceiling Painting 2009" at Taipei (15th Nov) and Taitong (19th Nov)


オノヨーコの1969年の作品、"Ceiling Painting"への挑戦。あるいは、コントリビューション


まだ、甘い。これを長時間行う意味や、モティベションが不明。
台北で行い、駒を多く失ってしまうかもしれない。減る可能性は高い。そうすると、台東ではどうするか? オセロをもっと買って、駒を多く用意するか? ..... 

脚立をどう動かす?


このフォーカスしない、という態度はとても気に入っている。家の中で連続していると、自分の居場所がずれて行くのを感じる。もっと、いろいろなことを楽しめる。指が指差せないということのためのアクションを、想念だけでなく、身体が引き受け始めている。

6.11.09

未来の人間像

C&M Tのミッションを考える。

未来の人間像を抱く。

たとえば
「.......超民主主義の実現に向けて最前線で活動する人々のことを、<トランスヒューマン>と呼ぶが、彼らはすでに、収益にとらわれない、そして収益が最終目的ではない<調和重視企業>で活躍している。トランスヒューマンとは、愛他主義者であり、世界市民である。彼らは<ノマド>であると同時に定住民であり、法に対して平等なそんざいであり、隣人に対する義務に関しても同様である。また、彼らは世界に対して慈愛と尊厳の念を抱いている。彼らの活動により、地球規模の制度・機構が誕生し、産業は軌道修正されて行く。こうして、産業は各人のゆとりのある暮らしのために必要となる財(もっとも重要なのは心地よい時間)や、人類全員にとって、ゆとりのある暮らしのために必要となる共同資本(共同体のインテリジェンス「知性・情報」が重要となる)を発展させてゆく。...........」
これは、ジャック・アタリからの引用。

どうかな??
ノマドはわたしの理想として、ずっと心に思っていた。


5.11.09

サウンドミーティングレポート:メンバーへの手紙


C&M Tokyo メンバーへの手紙

終了して、2日経とうとしています。参加した方は、おつかれさまでした。

思えば、なんて、興奮した3日間だったでしょうか(1日目はリハーサルとテクニカルテスト、2〜3日がパフォーマンス)。テクニカルがうまくいかなくて、苦しみましたね。特に音声が届かなかったり、とぎれとぎれであったり、爆音になってしまったり。確かに、Skypeだけで行った方が、うまくつながって「音楽的な」サウンドミーティングらしきことができたかもしれません。
だけど、あの3日間ほどに、緊張した時間を過ごせることができただろうか???
ルンルンに、安易な音遊びで、テクノロジーの問題を(うまく使えるかとか、そういうユーザーレベルのことではなくて)考えることもなく、携帯電話ですぐ話せるみたいな、簡単な、安楽さの中での、「遊び」に終わったかもしれません。

Justin TVによって、外部の人間も見ることができる(世界中のPCから見ることができる)ツールを使う、というハードルを高くしたことにより、技術的に、大変でした。でも、そのことにより、これほど遠くの人と安易につながることは、実際は難しく、そしてそれは、とても、もどかしい。会いたくて、会いたくて、会えたときの喜び。これは、簡単につながっていては、味わえなかったと思うのです。

かつて、電話も、電車も車も、手紙もなかった時代、会いたい人には、歩いて会いに行きました。そして、どこで会えるかの保障がなく、辻に立って、何日も待っていたでしょう。あの時代の人と人のつながりを、取り戻すことはできないにしても、想像する力を持っていたいと思います。

テクニカルの後藤君と丸山君は、準備の時間から2時間(準備の時間のうち最初の40分くらいは音声テスト)、緊張を止めることなく、集中していました。残りのスタッフたちは、はらはらと、わくわくを交互に思いながら、待ちの緊張。一日目は、なんとか通じたので、だんだん、はっきりしていく先方の様子。時間のラグがあるから、どうこちらのメッセージを伝えるか、トライし続けました。結局、音のやり取りもできたし、話もできた。音声も映像も相当、荒かったけれど、それが「遠さ」を感じさせてくれて、映っている人たちが、とても「なつかし」かった。サウンドの出し方が芸術のレベルまで行っていなかったけど、まるで、慣れないトーキングドラムで、隣の村の人々へ「お〜い、聞いてるかい?」と合図している感じ。
また、2日目は、サウンドも映像もつながらないまま、お客さんがどんどん入ったので、彼らと、どう過ごしたらいいのか、真剣に工夫をしましたね。丹下さんがアナウンスして、皆さんを飽きさせないようにしたり。先方とは、映像ではつながっていたけど、音で向こうに通じているかわからないし、PCでのチャットができなかったので、スケッチブックのカンペで、先方の「サウンドの音量が高すぎる」旨伝えようとしたら、先方はなぜか楽しそうにスケッチブックで返事をしてきた。見たら、ヘブライで書いたありました。
そのずれが、面白い。

カバコフとファーブルの会話を思い出しました。カバコフは、ハエの格好をしてロシア語で話し、ファーブルはコガネムシの格好でオランダ語で話す。わからないけど、わかる範囲で、反応しあい、カバコフのスタジオである建物を案内する、という内容だったと思う。友情だけは確かめていた?と言った感じ。通じ合えるのは、言語の問題でも、種の問題でもないんだという、作品だったと思いました。

2日目の後半。メンバーの沢田君が、音楽好きのお客さん(学生さん?)を呼び集めてくれて、おかげで、スペースは音楽で盛り上がってくれて、まるで、天の岩戸の前みたいだった。お〜い、出てきてくれよ〜。みんな待っているし、たとえ、あなたが今、出て来なかったとして、あなたがこの世にいてくれるのが、ありがたい。まってるよ〜。というやつ。

コミュニケーションとは、本来、こうなのです。通じないけど、通じるレベルで努力する、誠実さと希望を止めないこと。

たしかに、テクノロジーをうまく使えなかった悔しさが残ったけれど、なんだか、妙に、充実感があったので、それを、よく考えたら、以上のようなことを、発見しました。

「事故の博物館」という言葉があるけど、まさに。ヴィリリオだったけ。藤幡さんの本でも読みました。クライシスの時こそ、何ができるか、人々は真剣になり、何が大事か、選び取る時なのです。


もうひとつ、思ったのは、デジタルでは音は「大きい」と「小さい」だけです。でも、PAのない時代は、かつては、音は「遠い」と「近い」だけだった。アナログのステレオでは、音をしぼると、機材に負担がかかっていたと聞きます。

もちろん、それとは構造が違うけど、「遠い」音の体験でした。
経験しようと思ってできることではありません。

次回のこういう時には、段取りやチームワークなどをスキルアップしていると思うけど、また、ハードルの高いことを目指しましょう。わたしたちは、芸人ではなくて、アーティストです。しかも、セルフエデュケーションという場所なのだから、トライすることが、一番大事だと思います。

わたしも、物事の、基本の大事なことを忘れて、あやうく、足をすくわれそうになっていました。気がつかせてくれてありがとう。



4.11.09

Different Trains

C&M のイベントは終了。人間3人集まると、何かが起きる。あまり、こだわらないこと。仕事人が一番良いのだ。しっかり人であるためには、人ではない世界のセンスを獲得することが肝要。ものを作るということは、そのひとつの方法。

このところ、自分が、自分らしくない、という気持ちにおそわれる。家の中も、外も変わってしまって、気がついたら、ひたすら、人や場所をしきっている。声が、きーきーしている気がする。落ち着いた声を出すように、かなり意識して気をつけよう。ここでも「人間外世界」に通じることを意識する。

来週から、台湾。作品の用意。

友達と話していて、思い出したSteve Reichの、昨年、日本で紹介された2つの作品、「Daniel Variations」と「Different Trains」(どちらもNHKの芸術劇場でやっていた)の録画を出して来てみる(聞く)。なんとなく、釈然としない。前者は、イラク戦争で亡くなったひとりのアメリカ人の若者について、後者はアウシュビッツに送られたユダヤ人の話がテーマになっているけど、音に、どう関係があるのか、わからない。いかにも、アメリカ人として成功しているユダヤ人の社会サービスに感じられる。それに、ライヒがライヒの作品を、反復している。よくあることだけど。こういう疑問って、青臭いのかもしれないけど、どうも、おさまりが悪いままなのであります。

3.11.09

テルアビブからのリアクション

けさ目覚めて、メールを見ると、テルアビブから、大変、ポジティブな感想。きのうのオンラインライブのことである。テルアビブの会場は、Musraraという放送関係のニューメディアの大学。きのうのパフォーマンスは、会場側もとても喜んで、Musraraがこれまで彼らのやったプロジェクトの中でも、意味深くて、楽しいもののひとつだったと言っていると、書いてきた。良かった! 

今日は、セットアップを成功させることと、音を重ねすぎると、雑音でしかなくなる可能性が強いので、そこを相談すること。

ゆるりときちんのはざま

今日は、ハードな一日あった。...........あ、12時過ぎているから、きのうですね。

多摩美での、サウンドパフォーマンスは、インターネットが安定するのに時間がかかり、後藤君が苦労した。丸山君の手伝いは、大きな意味があった。ありがとう。
でも、まだ、むずかしい方法なのかもしれない。
............精神的にも、皆、やられたと思う。

コーディネートしているたちばというものがあると思う。やりたいこと、というのは、学生さんが決めたことだけど、わたしに、何ができるか?

パフォーマンスは、案外良かったと思っている。手は抜いていないし、間もちゃんとあった。


いろいろやった後、きちんとやる、と、緩くて即興性がある、の狭間をどう選ぶか?
ルールをばっちり決めてやるなら、アートでなくて、社会の話になってしまう。では、そこでの心得は何か?
職人性と他のアーティストへのリスペクト.........か?

つらいと思った時、その人の本当に大事にしたいことが、わかってくる。


2.11.09

横浜映像祭はまだ行ってませんが

ARTiTに出ていた、フジハタさんのブログに注目。
横浜映像祭での出品は、3日までで、取り下げるそうです。
運営方法に疑問なんだそうだ。なんか、とっても、よくわかる、と思いながら、読んでしまった。
ARTiTに登録していないと読めないかも。



と思ったら、公式ブログは、最近、公開になったようですね。わたしもブログあるんだけど、公式ではないはずです。







サウンドパフォーマンスの筋肉

多摩美の学生さんたちと、サウンドミーティングのテストを行った。テクニカルで、随分、苦労した。後藤君が、走り回っていた。まだまだ、不安定なものらしい。なんとか、あした、つながるといいのだが。本当におつかれさまです。

それと、パフォーマンスも少しやってみた。
思ったのは、パフォーマンスの筋肉ということ。サウンドであろうと、演奏であろうと、継続して集中する力は、そうやすやすとは、手に入らないものらしい。急には、鍛えられないから、道具をひとつにしぼり、その中で、工夫する、など、サジェスチョンが必要かもしれない。ちょっと、先輩として、えらそうになってみようかな。

それから、他の人の音を、立てたり、聞いたりするのは、リスペクトが必要である。それは、人間としてのリスペクトでもないし、民主主義でもない。こいつの音は聞いておかなくては、と思わせる音であることだ。もし、ささやかな音を皆に聞いてもらいたいなら、そのような態度やら、音やらを出さなくては、いけない。ミューージシャンが、他の人とセッションできるのは、そういう理由しかないと思う。ミュージシャンはみんな、自分が主役になりたいような、自己主張の強い人々なのだから。パフォーマーでも同じ。認めてない人とやっても、面白いわけがない。戦場なんだから。

でも、そう思うと、うんと楽しくなった。帰りながら、どうしたら、面白いパフォーマンスになるか、考えながら。ちょっと、わけ合って、体調が悪く、熱が出ているのだが.......



さあ、どうなるか。





30.10.09

Live show with C&M Tel-Aviv


わたし、山岡がコーディネートしている「大砲と美神 Cannons and Muses Tokyo(C&M Tokyo)」は、以下のイベントを催します。多摩美の学生を中心にした若いアーティストたちのセルフエデュケーションプログラムの公開イベント vol.3 です。



Sound Meeting with C&M Tel-Aviv

インターネットを使ったリアルタイム・ライブ・サウンド・ミーティング

(多摩美術大学芸術祭参加)


テルアビブのアーティストとのネットを通した共同作業パフォーマンスです。


日本側場所:多摩美術大学 演劇演習室(俗称、鏡の間)

日本側日時:2009年11月2日 19:00〜20:00 (テルアビブ時間は、この7時間前)

    2009年11月3日 15:30〜16:30



「Justin TV」 http://www.justin.tv/ を使用します。


アップされる場所は

C&M Tokyoは、http://www.justin.tv/cnm_tokyo

C&M Tel-Avivは、http://www.justin.tv/cnm_tel_aviv

たぶん、どなたでも、ご覧になれると思います。ふたつのブラウザを並べて見ればいいのかな。もちろん、会場においでいただくともっと、面白いと思います。参加もできるかもしれません。



サウンドと言っても、日本側の場合、いわゆる音楽をやっている者はおりませんので、美術系のりの、会話としてのサウンドパフォーマンスになると思います。声、鈴、雑音、あるいは、ラジカセの音声といったところでしょうか。テルアビブ側には、元ロックンローラーのおじさんアーティストもいるようなので、音楽ぽいかもしれません。


今のところ、話しあっているのは、「無音」の時間をどう作り出すか? ということ。それを、音楽的に作るか、人間関係的に作るか、暴力的につくるか ......... 美術的に作るとしたら?この提案に対して、テルアビブの担当者プレムは、「戦時でも、ビジネス社会でも、立ち止まることはなかなか許されない。これは、意味深い!」と大賛成でした。ノイズを大砲、ハーモニーを美神と喩えて、次のアクションが、何で始まるのかも、興味深いところです。


とにかく、はじめてのことなので、どうなるか。ショーとして成り立つかどうか、わからないのですが、メンバーによると、見せる為に何か特別な準備するのは、何かが違う、気がするそうです。なるほど。


学生さんたちがC&M Tokyoのwebsite つくってくれました。まだ、ささやかですが、手作りの味がイケてます。

http://cannons.mistysky.net/


公式のwebsite(グローバルネットワークバージョン)は、

http://cannonsandmuses.org/indexhibit/


インターネットを使ったリアルタイムパフォーマンスは、昨年、わたしが、谷中で行おうとしましたが、オーガナイザーに「技術的に無理」と言われ、あきらめていただけに、今回、可能になってうれしいです。技術的には、30年近く前から可能だったし、テレビ局や大企業とともに仕事のできる人にたちにとっては、古いネタとも言えます。

今、である意味があるとしたら、なんらコストなしで、ごく普通のパソコンとビデオカメラと電話の回線で可能になったこと。去年より、安定もしていると思います。すでに、世界中でたくさんの人が行っている方法だと思います。なので、テクノロジーとしてもおもしろがっている場合ではありません。大事なのは、こういう方法で、発信できることは何か、というあたり。学生さんの柔らかい頭なら、どんどん、思いつくことでしょう。



わたしが、コーディネートしている理由は、これまで、わたしがアーティスト活動をして来た中、力を貸してくれた方々や、応援してくれた方々に対して、国内で、応えて行く方法のひとつです。............. 本当は、もっと作品で応えたいんですけどね。

28.10.09

C&M T ホームページのことなど

Cannon and Muses Tokyoのホームページができました。
webチームが、徹夜して作ったとのこと。涙でちゃいそうだ。ありがとう!

11月2日と3日には、多摩美の大学祭で、サウンドミーティングを行います。わたしは、テルアビブ側とのコーディネートをしただけです。ネットを通して、リアルタイムに、テルアビブのアーティストたちと、サウンドによる会話を行います。内容については、少しディスカッションに加わったけど、どうなるか、わかりません(笑)。傍観ががまんならず、出て行って、何かしてしまうかもしれません。

若者たちは言います。
「アートはコミュニケーションをとめないためにある」

キャリアを重ねた人たちは、敵を作ったり、分裂したり、無視したりしている場合ではありません。違う立場だからこそ、話してはいかがでしょう? 物別れになるならなるで、違う立場を認めたい。棲み分けても、何も解決しない、イスラエルの状況を、思いながら。


今日は、おいしい「カレー」と、面白い「紙」「ノート」を求めて、渋谷と原宿、銀座を歩きました。イラストレーターの仕事が終わったので、むしろ、自由に紙や媒体を使えるようになったのです。印刷にうまく出るか、出ないかなんか、関係ない。ものとして、面白くしたいわけです。さて、どうなるか。

因にカレーは、ムルギー。おいしいよ。
神保町の「スマトラ」みたいに黒いカレーです。トマトがたっぷり入っているのだと思う。(だから、黒いというわけではないけど。黒い理由は知りません。)
昭和30年代みたいな店内もイケテマス。盛りつけも不思議。火山地帯のジオラマみたい(意味のわからない人は行ってみるべし)。





23.10.09

良い人すぎる人たち

父の介護関係で、毎日、いろいろな人に会う。今週は、契約が5件もあった。ひとつの事業所でやってくれても良さそうなものだが、独占を避ける為に、いくつかに分けるように指示されているらしい。
 だが、父も母も、覚えられない。あした、朝、誰が来て、どこに行くのか、わからない。困ったことだ。迎えが来て行く所は、2つあるけれど、持って行くものが、違うし、時間も、待ち合わせ場所も違うのだ。

それから、人、に対する不安。父は、ぽつりと言う。「みんな良い人すぎて、恐い」
確かにそうなのだ。サービス産業として徹底しているのか、ほんのわずかも隙間がない人が多い。こうなると、傲慢なお医者が懐かしくもある。
 対人関係にストレスを感じる人も多いのではないだろうか。そういうがんばりは、しなくて良いのではないかと思うが、結局は、「利用者さん」というより、「役所」相手の仕事だからなんだろうなあ、と思ったりする。「役所」が悪いわけではないんだけど........う〜ん、何かが不自然なんだ。

 移動のことを「トランスファー」と言ったり、立つ体勢のことを「立位」と言ったりするのは、やめて欲しい。

 わたしは、かつて、介護系の新聞記事などを読むのは、きらいだった。今もきらいだ。なぜなら、苦労話ばかり。感情の問題に、してしまっている。そうではなく、システムについて、考える為の格好のネタなのではないだろうか。因に、システムを敵だと言っているのではない。

21.10.09

富とか

絵を描くと書いて描けなかった。少しでも描こう。来週になれば、もっと時間をうまく使えるだろう。

台湾でのパフォーマンス3つを考える。
2つのデユレーションは、新しい作品で行く。だから、テストがいるし、ものの準備もいる。ちょっとわくわくしている。コンセプトが、明確すぎるけど、身体的でもある。
一方、台東大学でのソロパフォーマンスはただひとりなので、プレッシャーだけど、ありがたくそのプレッシャーを受け取って、Wind from Skyの銀座バージョンをもっと発展させたい。もっと、気違いじみても良いと思っている。
オーガナイザーのイエン・ツーチーは、かなりポリティカルなパフォーマンスをするタイプだけど、呼ばれたアーティストは、それほどポリティカルよりではなくて、アート寄りだ。彼女もここ数年で、勉強したらしい。

きのう、ビデオで録ってあった古代エジプトとインカのドキュメンタリーを、父と一緒に見た。その時思ったこと。たとえば、ラムセス2世は「富を欲しいままにした」と言われるが、その言葉を20世紀に持ってくると「悪人」のイメージがつきまとうのに、古代エジプトなら、「偉人」となる。冷静に考えて20世紀的倫理観が、普遍ではないことが、よくわかる。

大先輩のフルクサスは「民衆のための」ということを言っていたけど、それは20世紀の夢だと思う。そのように考えることで、インスピレーションがわく時代は、60〜80年代くらいまでだったかも。(1920年代にも、そういった動きがあったが、実際に貧しかったと思う。)
 たしかに、1970年代くらいから最近までの日本は、知的芸術的センスのレベルと階級はあまり関係がなかった。それは、多くの人が、余暇を持つことができたからだ。だけど、だれでもが、そこそこに、余暇を持つことのできた時代が通り過ぎはじめている現代では、貧しい場所で知的レベルを上げるのが、むずかしくなっていく。あるいは、徹底的に働かずに、芸術レベルを上げる選択肢もあるね。さてどうする。

なんてことを思った。

19.10.09

これから絵

朝、朝ご飯を作って、父をお医者に連れて行く。在宅介護になって最初の登院(ていうのかな)。これから、ずっとお世話になる予定のお医者。小さな医院であるが、脳神経内科の専門医。インターネットで全国の専門医を捜したら、川越市内では、病院などにはひとりもおらず、彼一人なのだった。しかも、車いすで、10分で行けるところ、段差ほとんどなし。先生の機嫌もよく良い滑り出し。
脳梗塞、脳いっ血、くも膜下出血などは、老人にたぶん最も多い病気であるが、専門医は少ない、と、栗本慎一郎の本に書いたあったけど、本当にそうです。

午後は、デイケアとケアマネージャーさんとの契約。なんと3時間半かかる。めんどうくさい規約を全部(少しは、飛ばした)、話すことになっているらしい。(契約しなくてはならない業者は、あと3つある。)お二人が帰った後も、契約書の記入に小半時かかる。別件で生命保険会社に電話するなどしている内に、5時半になって、自分の頭痛の薬を買いに行き、それから、父のリクエストである、ひき肉のカレーを作って、などしているうちに、1日がふけた。
母もいるけど、母は主に父の下の世話にかかりっきりです。

すべてをできるだけ効率よくするための、工夫こそ!! 

良かったことは、父の食事のために、様々な材料を、じゃがいも以外すべて(肉、たまねぎ、キノコ類、にんじん、しょうが、にんにく)をいくつかに分けてフードプロセッサーで細かくして炒めたのだけど、これが、とてもおいしくなったこと! 今は、それがうれしい。とうがらしが辛そうだったので、仕上げに生クリームを入れたのも良かったかも。「うまい」はどこでも、最も大事だね。

これから絵を描きます。



18.10.09

あしたは自分のことを



















うちの町は、お祭り。うちの窓からの写真。朝の準備中。クリックして大きくして良くみると面白いかも。

町田の国際版画美術館で、『デジタル・インターコネクション メディアアート・ライブ』というのを見る。お願いして、ややスタッフ扱いで入れてもらった。因に、入場料はタダなので、その辺が目当てではない。目当ては、アーティストのセットアップを見たいということ。セットアップを見ると、アーティストが何を大事にしている人かわかる。
このイベントは、きのうと今日の2日連続で、きのうは、知り合いのナカノケイさんが出ていたので、行きたかったが、残念ながら家の都合でだめだった。だが、今日は、コアなまったく違う3名でそれも良かった。

最初は、ナカムラトシマルさんというノイズサウンドのミュージシャン。ミキサーを動かすのに、やってはいけませんということになっていることをすることによって、ノイズを出しているそうだ。態度としてラディカル。方法としてハック。面白かった。なんか、それでも、結構、正統な現代音楽のような気がした。今回は、ソロだったけど、即興なので、セッションで行うのが、楽しいと行っておられました。身体に不愉快な音が鳴り続けるということであったが、不愉快ではなかった。たぶん、現代生活で、デジタル音は、相当聴いているので、ならされているのではないかと思う。終わってから、片付けながら、お話を聞くと、主な活動は海外だそうだ。「東京には、いいアーティストがたくさんいるんですけどね」と。わたしもそう思う。わたしのブログを見ている人の中には、知り合いも多いかも。わたしが、無知なだけ。ネットで見たら、わたしの古い友達、アキヤマテツジくんとよくやっている人らしい。即興アーティストって、ほんと、多いね。

コンポーズにこだわったナカノさんのパフォーマンス、見たかった。

それから、次は、アーティストではなくて、メディアデザインの研究者(慶応大学の稲見先生、わりとお若い)のお話、やたら、堅苦しく始まったので、困ったなと思ったら、内容はちゃめちゃ面白かった。医療器具などに、使われている、あるいは、使うことになるだろう、装置を考えている。五感の能力を、拡張するための、様々な実験や、わたしたちが、気がついていない、様々な日常の感覚について、デジタルを使って明らかにし、それを拡張するものを開発している。

ラストは、トランぺッター、コンドウトシノリ氏。ついCDを買ってしまったけど、メディアアートとは、わたしは呼ばないな〜、デジタルを使ったサウンドだからって。で、メディアアートということと関係なく、彼のこの18年くらいの活動の様子の話を聞いて面白かった。演奏はなんだか、たいへんな「感動系」。トランペットの音にエコーをかけて、増幅されるのって、インパクトはあるし、神経的にはむりやり感動されられるけど、心は別に感動していないので、ちょっと、微妙な気持ちになる。おつきのカメラマンがやってきて、あちこちから、パチパチ写真をとっているのも、パフォーマンスのうち。だって、セットアップの時、写真家のためにライトを増やしたりしたんだから。少々、まばゆかろうが、前からライトをあてた。でも、いやな気はしなくて、親しみさえ感じた。ナルシスじいさん還暦。理想とか、アイデアをこんこんと語るところは、職人というより、アーティストだなと思う。セカイは人間中心すぎるとと言うのは、同じ意見。鳥や木に向かってトランペットを吹いてもいいではないか、と言う。

それにしても、メディアアートって、行ってみると、サウンド系ばっかだな.......。美術系をもっと見たい。


だけどさ。帰り道、「あまり前向きなのは、つかれる」という言葉が、口からでた。これは自分へのリアクション。ちょっと、このところ、人に会い過ぎ。ついに疲れた。
あしたは、自分のことを考えたい。

17.10.09

父帰る

父、帰って来ました。バターたっぷりのオムレツとポテトサラダとめんたいこを幸せそうに食べました。5分おきに誰かを呼ぶくせは、今後、どうなうのでしょう? 認知症ではないのだけれど。

あしたも、イベントに出かけて行きます。人様の作品を拝見するのは、楽しいです。知らない人より知っている人の作品を見るっていい感じ。あしたは、知らない人。それも良い。人を観察すること。自分の作品をする時と同じように、命がけで鑑賞するというのは、どうでしょう?

来月、台湾行きます。12日から19日まで。
こちらでは、自分で表現します。ドゥレーションパフォーマンスを2つと、ショーケースパフォーマンスをひとつです。

国内では、今のところないです。どこで、どんな形で、とんな関係性の中で、と思っています。

 

15.10.09

分業可能か?

手帖の管理が大変になってきました。ふたりの友達が、モレスキンを使うように勧めます。おしゃれで楽しいモレスキンで管理すれば、忙しさへのストレスも、緩和されるでしょうか。

土曜に父がついに病院から帰ってきます。介護認定4です。
3種類の介護施設とのつきあい、ケアマネージャーはまた別の事業所、さらに医者、へたすると2つの病院に関わることになります。相手は6人ということになります。役所はまた別です。
週に4〜5日は、誰かが彼を送りだし、迎えるために、家にいなければなりません。
母がいます。
しかし、名前だけでも、リハケア、ケアマネ、デイケア、デイサービス、ケアハイツ、訪問リハ、訪問看護、など、老人には、負担でありすぎます。仕組みも同じく。だから、わたしが把握しなくてはなりません。
当事者性なんてこと言ったって、無理だよな〜、と思う。

収入がなくなりかけているのにどうしてくれる。

きのうの夕方会った友達が、ベーシックインカムの本を見せてくれました。うん、だけど、今はわたしはそれどこではない。どうでしょう、ひとりであらゆる重要なことに手をつけていることはできないのだから、世の中は、分業ということでどうでしょう?それに関しては、今は、関われない、だけど、関わりたい、関わっている方々から、時々、お話をしてくださいってのは?
数日前に書いた「自分の興味のあること」にしても、それを全部やることはむずかしいのです。信頼できる人たちと「分業」したい。むりかな。やはり、自分の中で、やりとげるべきか。

それどこではないのに、ライブは聴きに行きます。暇だからではありません。
昨日の夜は、ピアニストのカワイタクジさんが、作曲家のタカハシユウジさんの曲を弾くのを聴きました。前に、即興ライブで聴いたワイルドなカワイさんとは、別人のようでした。「ひらがな」を演奏している、と言う感じ。わたしは、タカハシさんとミヤケハルナさんの作品集のCDを1枚だけ持っています。ずっと前に何回も聴きました。本を一冊。スイスのバックパッカー向け宿に、置いてあったのを、もらってきました。クセナキスについての本なので、むづかしすぎで、かざってあります。それから、水牛楽団もちょっと興味があった。タカハシさんの弾くピアノも何かで聴いたことある。姿も何回も見たことがある。で、いつの間にか、テーストは知っていたみたいです。たいして知らないけれど。
ライブで配布された紙によると、ピアニストへのインストラクションがいろいろあって、言葉を発したり、即興で行う部分があったりします。「風の中の蠟燭の炎のように不安定に演奏する」というのがあって、たしかに、カワイさんは、そうしていました。不思議。「自分の間違いを尊重することで書いてある音を改変する」というのは、どうだったのか、わたしにはわかりません。インストラクションを聴衆は知っておくべきなのか、知らなくてもいいのか、などと考えたりしました。知っている方が面白くはある。
ピアノのコンサートを聴いたという印象でなくて、とても、不思議でありました。もっと聴きたいな。カワイさんの、指を鍵盤から離すとき、手がくるっと裏返って、手のひらが天井を向くのは、いつもなのかしら。カワイさんありがとうございました。

聴きながら、わたしのワイングラスを割っていくパフォーマンスのことを、思い出していました。

それから、「無音」をどう作り出し、どう次をはじめるか、をテーマにした多摩美の学生さんたちとのサウンドミーティングのことも考えておりました。「どう」というところに、皆の思想が宿るのだと思うのです。思想はどこからか、引用するのではなくて、わたしたちが考える。しかも、複数の頭で。エキサイティングでありますが、これまでのわたしの経験で、それがどれほど、壁を持っていることか、も承知。さて、どう挑むか。

13.10.09

2日間

日曜と土曜。おとといときのう。

日曜は、お昼頃は、所沢の航空公園に行く。知り合いが展覧会に参加していた。くしゃくしゃの白い大きな紙を、小さな台の上に置いて、彼は座って、それに絵を描いていた。描き始めたところへ私が、声をかけた。参加してもよいらしい。白い布団のこたつみたい。こたつにあたらせてもらいながら、彼の描いた絵のまねをして描いてみる。しばらくして、ふと、彼の描くのを見ると、最初のころより集中力が出たらしく、絵がきれいに、うまくなっている。なんか、わたしと話しながら描いている内に、手に血が巡り始めたみたいだ。集中力とは不思議なものだ。

その後、Cannons and Musesのミーティング。予想より、多くメンバーが集まっている。芸術祭に何を出すかの話で、けっこう、いい提案や議論ができた。割と理想の方向性が、似ているもの同士が来ている感じ。いろいろ一緒に行っているうちに、言葉ではない、コミュニケーションができているみたいだ。その感覚が、面白かった。が、でも、まだまだ。テーマとパフォーマンスの関係、身体で体験して、さらに、プレゼンとして成り立っているか、そこにまで、至らなくては。
これが、ながびいて、中野での、なおかたひらさんのパフォーマンスは見に行けなかった。残念!!

きのうは、フジエさんのウイリアムさんへのインタビュウを聞きに行く。池袋西口から行くアートカフェというロケーションも興味があった。ウイリアムさんの、あくなき芸の精進に感心してしまう。観念とか、そういう方向には、行かないみたいだ。体育会系なのかな。でも、何かの理想ということはあると思う。身体コンシャスであるということは、それだけで、政治的なのだから。自分の改造。その後、フジエさんの家で、飲み会となった。フジエさんの料理にも改めて感心。フジエさんのことも前より、大分、知るようになる。以下は、ウイリアムさんご推薦のHonda CivicのUK向けCM。

このところ、人に会うことが多い。それも大事だけど、制作もしたいし、時間の配分がむずかしい。人に会ったり、それにリアクトしているそのリアルパフォーマンスそのものの記憶が、作品に鏡のように映って行く。だから、なるべく、素敵だと思える人に会えるように、鼻をきかせ、さらにアンテナをはっておかなくては。どんな人たちと関わっているかということで、人間って変わる。変わらないこともあるし。それが、自分で区別できれば、面白いし。

このごろ、やっと、東京が好きになってきた。



11.10.09

情報学環 福武ホールへ行った

 きのうは、東大(本郷)でのシンポジウム「メディアアートとは何か」の第3回に行った。前にもブログに書いた、芸大のフジハタ研究室と東大のイシダ研究室の共同企画。先月は、芸大先端、横浜校であった。交替で、企画している。1回目は行ってない。
 東大の赤門入ってすぐの所にある「福武ホール」に驚く。すげい。大学院「情報学環」という研究のビル。これが大学の施設か?と言う程、美しいビル。おしゃれなカフェなんかもあるし。東大って、建物博物館みたいなところだ。新旧。なんだか、富が集中しているという印象。こういうところで勉強した人は(しかもあたりまえだが、私立より学費は安いわけだ)、是非、日本の国民のために尽して欲しいなあと心の底から思う。

 フジハタ先生によると、この分野に「批評」が必要な最大の理由は、「テクノロジー」への楽天的な期待に対する問い。それには、クリティクがなければ危険だということ。メディアアートの、というより、IT技術(この言葉はもう古い?)と情報学への問いでもあるが、やはり、メディアアートなるものへの問いでもある。おもちゃ作って喜ぶな、みたいな感じかな。インターネット万能主義みたいな恥ずかしい「スローガン」も多いと。
 フジハタ先生は、最近、機械に笑われているような気がするそうだ。最近は、メディアアートの展覧会って、はずかしくて行きたくない、とも言っておられた。なるほど〜。
 そうだ、その過大な期待のおかげで、あのような豪華な場所があるのだよな。複雑だ。ヨコハマ映像祭があるのも「メディアアートは未来志向型」だと信じられているからだ。
 フジハタ先生は、ついに「良い作品がないことが何より問題だ」と言ってしまう。
メディアアートが期待されていない分野だったら、先生もわたしと、同じようなところで、やっていたかもしれない。それはどうなの?
まあ、ともかく、矛盾をそのまま、出すのは、良いことだとは思う。「澱」みたいなところ、「亀裂」みたいなところに何かがある。


 きのうの「問題提起」になっていた立命館大学の北野先生のテキストは、ほぼ全文インターネットにありました。『映像論序説』。出版もされています。

 吉田先生のプレゼンテキスト。「メディアにとってクリティークとは何か」。これらがインターネットにすでに出ているところが今風だね。


 別件だけど、言葉にたいする感覚なんてことも考えた。わたしは、言葉の「音」と、言葉を字に書いた時の「図」をすぐ考えてしまう。きのう取ったメモも、だんだん、紙の上のドュローイングみたいになってきた。イシカワライタさんの作品みたい。
わたしは、言葉を「建設」することをしようとして来なかった。これからもしないと思うけど。学者や物書きは「建設」するのだね。


9.10.09

肝に入れる

ホームページを直したついでに、日本語プロフィルのページも少し手をいれた。
以下のようなことを書き加えたりして。

<興味のあること>
土地・町・歴史などを借景、あるいはスキマをみつける楽しみ
西洋化・ウェスタンスタンダードへのスタンス
近代・経済・銀行・保険制度などのインフラを個人の立場から見ること
アルティザンとしての時間を何より大事にする
健康・女性のイメージへのねじくれた感覚へのさらにねじれた考察
へんてこな図像がどんどん浮かぶような指を持つこと
メディアアートの可能性を気にかけながら、ローカルな身体を思う
政治参加しないアートの居場所を政治的に手に入れる
衣擦れ、ものが壊れる音、落ちる様子
やり過ぎ/嘘っぽさの「頃あい」の粋を追求する
亡命とそのメタファー
暴力の行き先
炎をみつめてしまう時
パフォーマンスアート作品の映像・写真・音楽作品化
東京のアート周辺で働く人々と話ながら、表現の場所をみつける
国際的なネットワークの次なる段階に入る
良い仕事をする人たちの仕事は進んで鑑賞、堪能し、爪の垢をもらう
世界の変化に目を注ぎ、わくわくしながら寄り添う
たとえば、アフリカの将来を思いながら、北米の黒人文化を楽しむ
変わらないものを肝に入れておく
去ってゆくものにかっこよく別れを言う

8.10.09

悪のりトリオ

ホームページが直りました。何度も入れ直し、Appleコンピュータに相談し、ODNに相談し、いろいろためして、もしやと思って、FTPのFetchのテクニカルサービスに電話したら、ささっと直りました。直ったのは、きのうであります。
トップページには、前回のパフォの写真を載せています。トップページ


使っているソフトは、前世紀末ごろのホームページ制作ソフトであるPageMillであります。いろいろ限界がありますが、今ではこういうソフトはないみたいです。HTMLの入力ではないが、自分でデザインできるというもの。前世紀のソフトなので、パソコンも前世紀のものを使っています。前世紀のパソコンは、プリンターやスキャナーともつながっています。メインに使っているうちのApple君は、一応今世紀のもの。OS10.4なので、最新式ではありませんが。
Goliveで行おうとしたら、海賊版のGoliveだったので、動きません。
iWebは使ってなかったせいか、動きません。ついiLife09を購入してしまいかしたが、OS10.5でなければ、だめなんでした。てな具合にバタバタしましたが、なんとかなった。
だが、やはり、HTMLでやんなきゃな〜と思っている。

あしたは、東京大学でメディアアートのシンポジウムだ。能力が追いついていないけど、行くのだ。(もちろん、マンガ、アニメのメディアートではありません)


ところで..........悪のりトリオという戯れ絵のシリーズを描いています。そのおかげで、今は、大変楽しいです。

6.10.09

リラックス

ついにクライアントの雑誌が廃刊になるので、イラストレーターとしての低収入、じゃなくて定収入が消える。自分の絵を考え直す時期だ。はっきり言ってこのところ、仕事のオーダーが来た時しか、描いていなかった。それで、描いていた絵というのは、左のようなものではなかったけど、それはそれなりに楽しかった。

気分のせいか、最近、本屋に行っても、あまりこれというイラストレーションが、見られない。斜陽産業かな。いいブックデザインのものは、奥の方にあるのかな。

気持ちを入れ替えて、絵というものを、描き直そうと思い、数ヶ月前に描いていた下絵を、きのうひとつ仕上げた。下の黄色い方は、10年前のもの。印象として、うすめ、の絵なんだけど、こういうのも、悪くないんではない? クドい系のパフォーマンスをしているのに、変かな。
私としては、矛盾していないつもり。

もともと芸術は民主主義、自由、平等、とは、とんと縁のないものだと思うのだ。アルティザン階級を目指すものとして、「社会のコードをずらす体験」の場所としての、アートの方向があると、思っている。それが、ずっとできればいいなあと思っている。


いいもの作っている人がたくさん、いる中、わたしが生き残れるか? まめにいろんな人の作品を見て歩きたいと思っている。よい刺激を受けるために。



4.10.09

パウリノとマルー

きのう。日本縦断旅行中の、タイに住むスペイン人夫婦、パウリノとマルーをホテルに迎えに行って、それから友達が展覧会している銀座の画廊へ行き、近くの画廊や、もうちょっとコマーシャルな画廊などをお見せして、有楽町線に乗り、比企の丘の東京電気大学で、また別の友達のライブを聴きに行った。長い一日であった。11〜21時の10時間のつきあい。

1日いっしょにいて、大人の、ゲスト、ホストのセンスを、学ばさせてもらった。

一昨年、タイであったアジアトピアで知り合った人たち。夫のパウリノは、40年ディズニーのアニメーションの制作に関わり、今は、悠々自適なリタイア生活。アメリカのパスポートも持つ。妻のマルーは、わたしはアーティストとして知り合ったが、きのう話をよく聞いたら、長いこと、社会教育の仕事にかかわって、アートはこの4〜5年のことらしい。バルセロナでずっと暮らしていて、5年前くらいにパウリノと知り合って、結婚することにしたんだって。熟年結婚ですね。
いろいろな人生があるものだ。
会ったアーティストには誰にでも言っているのかもしれないが、彼らの住むタイの山の中の家の2階は「サキコの別荘だ」と言ってくれている。いつでも来てよいと、年に何回か、メールをもらっていた。まだ、それほど、親しくないのだけど。
あまりに夕日がきれいな場所なので、2人で見るのは、とてももったいないからだそうです。

彼が用事があったので、はじめて、「HSBCプレミアムセンター銀座支店」というところに行った。金持ち専門の銀行です。ふかふかのソファで待っていると、オレンジジュースを出してくれた。行員は、わたしに対しても、丁寧に、英語で挨拶してくれました(笑)。銀行マニアとしては、楽しい経験であった。

銀座の画廊で作品を発表していた友達は、絵画を壁だけでなく、床に置く展示をはじめて、2回目。音(色)が、場所の中で、反射しているように感じた。無音の場所もあちこちあって、その配置の仕方が、わたしの感覚と大分違うので、それを楽しんだ。どんどん、やって欲しいと思った。

3.10.09

ダフナさんのアートブック展

きのうは、朝から父の病院への引っ越し。

午後は、家に戻り、壊れたホームページのインデックスページの修復をはかるが、だめ。10年前の恐竜ソフトはもうだめみたいだ。ソフトがだめというより、ホームページ作成用に使っているマックOS9が、うちのおとうさん状態になっている。こちらは病院送りにはしない。別のおとうさんに切り替えなくては。

夕方から、東長崎の某ギャラリーに行く。知り合いの知り合いの個展が開かれている。ギャラリーのオーナーはまだ20代。どこかの百戦錬磨の画廊主たちみたいに、客を値踏みすることもせず、フレンドリーに立ち話をした。

その後、成増。イスラエル料理のワークショップをしてくれたダフナさんのアートブック展。ものすごく、すばらしかった。色彩のセンス、ユーモアのセンス、素材感のセンス、そして、丁寧なてづくり作業。生活が楽しいだろうなと思う。彼女のハーブの庭を思い出した。あさってまで。成増北口すぎの成増アートギャラリー。日曜までなので、興味のある人は是非。9:00〜16:00。展覧会の名前は「コドモ☆サーカス」というグループ展だけど、大人も充分楽しい。子供にはむずかしいのもある。

そこにいっしょにいったWさんとファミレスで一杯のワインで、医療と老人の問題を話す。彼女は、わたしより一回りも若いけど、すでにおとうさんが特養に入っていて、リアルに感じている。これからのわたしたちのこと。皺がどうとか、白髪がどうとか、動きがどうとか、そんなレベルではない。どう最後の日を過ごすか、なのだ。

今日は、タイに住むスペイン人カップルとともに、一日過ごす予定。忙しい。

1.10.09

「丘を越えて行こうよ」+「空からの風」

縄跳び in 渋谷 タイトル「丘を越えて行こうよ」、やります、今年中。日程未定。
今度は、20人以上の参加を目標にしています。

場所は、渋谷警察署前から、歩道橋、ガード下、バスターミナル、ハチ公前交差点から、丘を登ります。
最終地点は、まだ決めてないですが、前回の場所のような、文化的、経済的な記号ではなくて、何か、祠ととか、神社とか、そういうところにしようかと考えています。


是非是非、参加してください。
楽しいよ。

それから、9月に銀座でやったソロパフォーマンス「空からの風」を、できる場所を探しています。

条件1. 室内
条件2. 床が固い。傷がつかない。汚れは拭けばとれる。
条件3. 観客との距離をとれる。空間を共有できる。
条件4. 空間の管理人が、あのパフォーマンスを許してくれる。



今、どちらも前回のビデオ編集中。

29.9.09

暴力性について

〇歳児の時に、テーブルクロスをひっぱって、テーブルの上の、母が買ってきて洗って並べていた新しいガラス食器を、ガラガラと落して、喜んだことがあるらしい。
覚えてない。
でも、ガラスの割れる音は、美しい。

破壊されるものへのフェティシュ。リンゴを何度も落とすと、落すたびに、音が鈍くなって、最後には、ぐちぇ、となる。ジューースになる。うひうひ。



暴力性とも関わると思う。

暴力の連鎖ということを思う。わたしは、かなり、叩かれた。何かというと叩かれた。頬を。鼻血を出しても、許してくれなくて、外を走り回ったことがある。ブラウスが、血まみれで、泣きながら、町を走った。姉が縁側にいて、こっそり家に入れてくれた。
消したばかりのマッチを頬にあてられて、火傷したこともある。まだ、幼稚園にも行ってなかった。


誰かに、力で脅された人は、力を使うだろう。排除されたことのある人は、また誰かを排除するだろう。これでは、エンドレスなのだ。強者が上だという考え方が、どちらにもあるのがいけない。誰かが、踏みとどまってその力を、別の形で、転化する、化学反応で別のもに変える、空に送る、自然に帰す、ということに努力すれば、連鎖は止まるだろう。その気になれば、できることだ。 War is over, if you want。


歴史学者などが聞き取り調査をするとき、明らかに、歴史上ありえないだろうということを地元の人が言う時、どうするか。
1.非現実的と否定する。
2.神話とする。

どちらも、結局、関係のヒエラルキーは同じである。

3.深いところでは共感できないが、あなたの真摯な経験だとはわかります。だから、あなたの経験と私の歴史理解のあいだの接続可能性や共奏可能性について、一緒に考えましょう。

こうやって、他者との闘いの連鎖を、止めるのはどうだろう。
これは、先日紹介した本「ラディカルオーラルヒストリー」に書いてあったこと。
闘いは、あってよい、しかし、連鎖は止めなくてはならない。


私に限らず、人は身体に、様々な暴力性を持っている。


誰かが言うように、芸術とは、ある種の「事故」の体験である。「事故」のまわりにまとわりつく、何か、行き場のない感情は、事故として、どこか外に、力が吸収されれば、と思う。人間以外の方向に。

28.9.09

名前を知らない植物たち

うちのベランダの名前がわからないサボテンさんたち。
へらが棒立ちしている、みたいなのは、今年の3月に、板橋のFGカフェが引っ越しをした際、いらないからとくれたサボテン。
ずっと室内にあったので、インゲンマメみたいにひょろひょろで、しかも、垂れていたのだが、今年、うちのベランダで暮らしたら、まるで違う種類かのようになった。ずっと、光りなし、水なしの拷問にあっていたのだと思う。
花がさいているのは、ずっと前からうちにある。花が咲くとは最近まで、知らなかった。つまり、私は去年までは、ベランダに関心がなかった。子供が描くへたなお絵描きの花みたい。クリックしてアップにしてみていただくとその不思議な原始的(?)な花を楽しめます。







27.9.09

フレディ

きのう、久しぶりに横浜へ行き、芸大の先端にはじめて行き、メディアアートの講義みたいなものを聞いた。フジハタ研究室である。
ゲストで来ていた、フォルマントキョウダイ(兄弟。本当は漢字、検索を避ける為にカタカナ表記にした)の「フレディの墓」という作品を見る。彼らによる解説と、東大の記号論の先生による解析と、フジハタ先生も参加したディスカッション。2時から始まって、6時過ぎまで。なかなか、濃いくて面白かった。作品は、Youtubeアップされている。
ちょっと説明がないとわからない作品のような気もする。
フレディ・マーキュリーの声をコンピュータで再現して、「インターナショナル」を歌わせている。フレディの生まれた年に、東西冷戦が始まって(1946年)、亡くなった年にソビエト連邦が崩壊(1991)というわけらしい。とてもおもしろかったけど、ざんねんながら、フレディの声に聞こえないのは、惜しい。

テクノロジーを使ったアートについての、様々な疑問やテーマをいろいろ聞けてよかった。機械のテクノロジーはむやみに尊敬されているけれど、それを扱うアーティストのテクノロジー(ブリコラージュ、手仕事)の地位は低い、だが、それはとても大事という話もしていた。さすが、こういったテーマで落しがちなことにも、ちゃんと、押さえているのだ。

それにしてもフジハタ先生を、生ではじめてみた。さばけた感じの話し方など、印象に残した。帰りに、受付で、フジハタさんの本を買って、電車に乗って、読もうとしたが、ちょっと、お腹いっぱいになっていた。「現実」とか「メディア」とか「イメージ」とか言う言葉に。それほど、たくさんその言葉を聞いた。彼の著「不完全な現実」というタイトルも面白い。やってくれる。ところで、一体、この本の全ページ内にも、「イメージ」という言葉が何回あるだろう。イメージという単語の密度において、世界一かもしれない。ちょっと疲れる。その反対のものって、なんだ? 何かで、中和したい。イメージの反対は、経験? 痛いもの? 
記号論は、わたしの脳には少し限界を感じたけど、ペーパーがあったので、それを読みながら電車に乗って帰った。あまりに前のめりになって読んでいたので、前にこけそうになって、となりの席の年配の女性に怪しい奴を見るような目で見られた。


25.9.09

行いのせいではない

経済難の問題は、さておいて、最近、気分が落ち着いている。ちょっと、揺れることがあっても、戻れるみたいだ。 私は、どちらかというと、何か問題がおきると、自分のせいだと、思う傾向があるのだけど、このごろ、冷静に考えて、それは「流れのようなものだ」と思うようになってきた。反省しないやつ、みたいな感じだが。でも、どうにも、避けられないことってあると思うようになった。

大事なことは、マグマにやられないことだと、思っている。

努力したことが、すべて結果になるのだという、「自由主義経済」みたいなものは、すっかり、肩から落ちた感じ。
それより、「ちゃんとやる」というのは、「成果」のためではなくて、「事物と時の充実」の手触りを楽しむためである。
と感じている。なので、それができる人を尊敬するし、友達にもしたい。自分もすすんで行いたい。

苦手なことからは、撤退する勇気もできた。ディスカッションピクニック以降にも、いくつか何かを、楽にした。

なのにも関わらず、ちょっと前より、好奇心がぶんぶん湧いていて、楽しい。たぶん、以前は、脇目も振らずに打ち込まなくてはいけない、と思っていたのだと思う。

今日は久々にほとんどでかけず、家にいたので、身体を休めることができた。
では、またあした。良い日でありますように。


写真は、「風の宮」の、休んでいる方の土地。小さなお社がある。

最後のミニバラ

たぶん、今年最後に咲いているうちのベランダのミニばら。冬越しできるのだろうか?
柵の向こうに見えているのは、西武線本川越駅。停まっている特急小江戸号の天井と脇が見える。うちは11階で、駅を見下ろしている。

24.9.09

今日の考察

仮説1:ディスカッションはアーティストに向かない(?)
理由:本来、ディスカッションは、民主主義のツールである。民主主義では、言論の論理性の強さ、あるいは、印象の強さ、あるいは、コントロール力などのパワーゲームが行われる。
もちろん、ディスカッションには、もうひとつあって、個人的な立場は横において、テーマの様々な方向から検証する、という研究のためのものもある。

それにしても、日本人には、後者のディスカッションは、「絶対に」できないようだ。これまで、何度も感じたけど、やはりかと思うし、何と言っても、アーティストには向かない。仲間作りだと思っている人もいるかもしれない。テーマを話し合いたいのに、勝ち負けの感覚が抜けない。そういうことに興味がないと、遠巻きになってしまう。

何しろ、アーティストは、「多くの人の声」を代表したりしない。
ポップシンガーはそういう言われることもあるけれど、そこには、陶酔などが入っていて、政治に近いことが始まっているかもしれない。「歌詞」のないミュージシャンには、それはない。

仮説2:民主主義が、芸術家の地位を低くし、誇り高い芸術家は、政治志向になって行く。
提案:あえて、アルティザンを目指す。抵抗である。この位置を守り通すことが、この危機の時代の多くの、個人の、心のために、確実な何かを、少なくとも壊れないですむ何かを、届けられる。危機の時代に絶望し、それを感染させようとする輩の、毒を、遠ざけるため。マグマのように何かの情念が流れているような社会で、木々を眺めたり、鳥の声をまねしたり、湖の水面の模様を楽しむための、涼しくて、かつ熱い別の場所と時間を確保する.............。

これは、あくまでわたしの考え。


なんてことを考えた。今日、思いついたので、夕方会った、ミャンマーのアーティスト、モサに「わたしはアルティザンになりたい」と、言ってみた。彼はぽかーんとしていたけれど、彼のガールフレンドがわたしに賛同した。たぶん、この台詞は、生まれてはじめて言ったかもしれない。

ま、そんなこと言っている暇があれば、スケッチのひとつでも、動きの一つでも。家の門の前で、手をもやもや動かしていたら、前方から歩いてきた人が、遠巻きになった。電車の中でも少し。


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そういえば、宮本常一の「忘れられた日本人」にあった、村の寄り合いは、何日もかけていて、寝ている人もいるし、お弁当を食べている人もいる、何を話しているのかよくわからないが、ある結論は出る。たぶん、それは、ちょっとしたパワーゲームだったのかもしれないと、思っている。誰の意見なら、なんとなく丸く収まる、というやつを、さぐっていたのだ。村の長たちは、マグマを扱っている。

伊勢、志摩行き

タイトルを見ると、まるで観光名所に、訪れたかのようであります。22〜23日の一泊ツアー。

20歳の姪を連れて行ったので、伊勢の伊勢神宮の内宮・外宮の見学、鳥羽の島巡りも一応いたしました。お天気に恵まれ、ありがたい。

印象に残ったのは、外宮の夕暮れ。内宮は観光客のラッシュでしたが、外宮はあまり来ないらしい。しかも夕方5時。日が暮れかかっているし、木々が高いので、影が多い。まばらな来観者の気配を影のように感じる。神社に相応しい感覚。真っ赤な勾玉橋のある池が、美しかった。しばらく座って眺めていました。薄暗い風景は、わたしのカメラにはよく写せない。

もうひとつ印象に残ったのは、おとずれたイルカ島(本当は別の名前でしょう。観光用に源氏名をつけられたみたい)の裏側の砂浜。寄せては返す波、風。遠景に島、後ろは山。

記録不可能な感覚ばかり。冥土に持って行くしかありません。
若い姪は、「また来たい!」と行っていましたが、たぶん、わたしはもう来られない。

今回のメインのお仕事は、ご先祖のお墓のある寺をおとずれ、祖父母の骨を預かること。父の出身校である廃校になった鳥羽小学校を訪れ、目に焼き付けること。

友達が「お彼岸だものね」とメールをくれて、「あ。お彼岸だったんだ」と知る。

写真は、鳥羽市内のかなり見事な「原爆スタイル」。その下が、鳥羽小学校。1930年頃に作ったそうで、保存予定だそうだ。コンクリートが痛んでいて、保存には、大きなお金が必要かもしれない。



21.9.09

ディスカッションピクニック2

どんな場合でも、想像力のやわらかさと自由は、守りたいなと思う。
もちろん、当事者にしか、わからないことがある、というのは、その通りで、その場合は、たぶん、ドキュメンタリーとして受け止めるのが、良いのではないだろうか。

それから、個人という場所の自由は、確保するのも、わたしには、大事。それぞ、危機の時代におけるアートの役割。
集団的発想には、なるまいと思う。

なので、C&Mの学生たちは、いつも自由だ。自分の好きなものを作ればいい。わたしもそうする。

ディスカッションピクニック

大変、よいお天気で、ピクニックびよりであった。
「大砲と美神 危機の時代のアートの役割」
とは、大変なテーマを扱うことになったものだ、ということを、この夜中2時24分に思う。
石川雷太さんと白川昌生さんというゲストの選び方の絶妙さに、自分で感心しながら、問題の大きさは、背負いきれない。


わたしにとって、アート作品は、解釈自由、表現自由が、砦のようなものであった。
だが、「経験者」と「非経験者」の間には、「解釈できないこと」「想像できない壁」というのが、ある。その「経験者」側による「経験についての」アート作品に対しては、わたしのその「砦」は、KYになってしまう。でも、それは人間関係を思い出せば、当然かもしれない。他人の生き方は、解釈するものではない、というのと同じ話。


そこで.........テルアビブ発信のこのテーマは、いったい、東京の人間に、関われるのか? という根本的な問もやはり起こってくる。
一方、私は、1回目のワークショップで、話題になった、イスラエル人がイスラエル人に「原爆をどう思うか」と聞いて歩くドキュメンタリー作品が挑んだことを思い出している。


石川さんが話した「ディスコミュニケーション」性というものを、前向きに受け入れていく方向はあるのだろうか?
私は、あると思っているのだけど。


イベント後の立ち話では、2つの輪ができていた(笑)。

19.9.09

美術展行きました

所沢で行っている「ヒキコミセン(カタカナで書くのは検索にひっからないために、実際は漢字)」という展覧会を、おととい見ました。友達のマスヤマシロウさんが出品にしているし、彼とはあまりこれまで話したことがなかったので、会う、という目的もありました。

この展覧会の大事なことは「作家主導で」ということらしいです。80年代〜90年代前半に活躍した彫刻家、インスタレーションの作家、画家が中心的なメンバーという感じ。商品化、コマーシャル化に対する反発から、企画したものと思われます。テーマは設けない、作品の形式、形体、思想は限定しない。だそうです。

場所は、天井が相当高い、西武線の車両工場で、迫力満点。こういう場所で、展覧会をしたい!と思う人たちの気持ちはよくわかります。
20年くらい前によく拝見していたアーティストの作品に久しぶりに会えて楽しかった!

ところで.......多くの作品は、ホワイトキューブで見たら、もっとよく見えるだろうな、と私は、思いました。美術館や、設備のいい画廊で見たいような作品です。場所自体が、迫力ありすぎるので.......。
本心は、彼らは、美術館で展示したいんではないかな〜、と思ってしまいかしたが、どうでしょうか。
外に飛び出したなら、そういう視点の作品、戦う作品であって欲しいな........。
このような場所では、思想的かビジュアル的にサイトスペシフィックなものが見たいと思います。

 因みに、知り合いのマスヤマシロウさんは、年代が若いせいか(スペースに幻想がない?)、すんなり、サイトスペシフィックになっていました。労働の場に、労働をテーマにしたのは、正解でしょう。見た目より、アイデアを優先しています。
彼は、アウトサイダーだという意識が強いみたいです。社会のアウトサイダー、アートからもアウトサイダー。でも、「そういう意味」で、メジャーでいたい。がんばれ。

 作家主導であるべきと言う気持ちはよくわかるし、世の流行にふりまわされるのはまっぴらというのもよくわかる。何十年作品を作っていて、方向性がまったく変わらないのは、りっぱなことなのかもしれません。キュレーターやライターは、どんどん、別のアーティストへ興味を移すことができるけど、アーティストはそうはいかない。わたしは、そんなに長くやってないのでわかりませんが。
とにかく、プロのコーディネーターやキュレーターが関わってないことで、自由にできて、良かったのなら、それは、何と言っても良いことだと思います。産地直送野菜みたいなのりで、お客さんに届けられれば、その方が、鮮度はいいはずだ。

今、ということをいろいろ考えさせてもらえて良かったと思います。

16.9.09

本読みねえ本読みねえ

気分がすっきりしている。
でも連日、遅く家に帰って、遅い夕食をしているので、胃は重い。なので、今日は都心で夕食を取ってきた。ひとりでさっさと食事が出来る場所がたくさんある都心は便利。だいたい、どの駅前も同じ種類の店があるわけなんだけど。あんなに安いってことは従業員の給料が安いってことだろうなあ、とすこし、暗くなる。でも、安いところを選んでしまう、わたし。


2名の友達が「これ読みねえ」と勧めてくれて、貸してくれた本2冊。

『りんごが教えてくれたこと』木村秋則著
まだ半分くらいしか読んでないけど、もし、自分の生き方がこれでいいのか、迷っている人があれば、おすすめしたい。以前、NHKの「プロフェッショナルの流儀」で紹介されていた、自然農法を確立した人。テレビで見た時も、いいなあ〜と思ったが、本で読むと、本当に驚く。「ほんとかな」と思うようなこともないわけではないけれど(笑)、物事の発見の仕方が、興味深い。また、彼が失敗を繰り返している時の、世間の冷たさには、ぎくりとする。信念を通した人ではあるが、その途上は、本当に苦しんでいたのがよくわかる。
11年、実らぬリンゴ園を続けていたのだ。

でも、最近、彼の本は流行っているみたいだ。ちょっとあやしい方向に行きかけている感じもある。『すべては宇宙の采配』というタイトルには、不安を抱く........。



『ラディカルオーラルヒストリー』保苅 実著
1971年生まれの保苅氏は、残念ながらもう亡くなった民族学者であります。まだ、読んでいないけど。友達は「山岡はこれを読むべし、これは山岡のセカイに違いない」と言って、貸してくれた。簡単に言えば「ポスト植民地主義」の書き方なんだと思われるが、その方法は、もはや「はやりの」社会学ではなくて、定着していると思う。
「りんご」の次に読みます。
その前に読んでいてまた途中なのが、『当事者主権』中西正司+上野千鶴子著 でありまして、通じる所あり。
障害者の立場が、この20年くらいでどのように改善されてきたか、なんて、これまで考えてきたことがなかった(恥ずかし)ので、勉強になる。それは、老人問題にもそのまま当てはまる。ポスカルの成果は、日常の上に、生きているのだ。と思いたいけど、現場はそうでもない。



読みかけ本まだまだ、あるのだ。『外国人』クリステヴァ、『21世紀の歴史』アタリ、『健康の日本史』北澤一利、などなど。
ああ、忙し。

いろいろな人とemotionについて話す

Emotion について、いろいろな人と話す。「?」というのが、皆さんの反応で、その考えのずれを埋めたり、それぞれの考えを述べ合ったり、面白い。インド演劇の伝統では、「感情」をいくつもに分類し、見せ方の作法があると、友達は言っていました。
パフォーマンス作品の中で、emotionがどう配置されたかは、わからなくても、その効果によって、「怖かったり」「美しく見えたり」「物たちが拷問されているみたいだ」と、それぞれが想像を働かせてくださってれば充分で、その私の中で、用意した意識は、見えなくてよいと思う。

感情の流れや質を、時間、空間にデザインする、みたいな感じ。床にチョークで描いた、碁盤の目は、それが今、どの辺で、発信されているの、指標としてみた。今は、テーブルのはじっこのあたりだとか、下に落ちたとか、天井に上りかけているとか、私の中では、そうやっていた。観客Aさんの手のひらに落ちた、とか。

壊滅的になった後、町が再生される。生き残った物たちで、無事を祝う。


emotionの配置、とは、まあ、フィクションのようなものかもしれない。


以下の写真も面白かったので、アップ。どろどろ色になったテーブルクロスに、グラスが何個か、まきこまれている。許してくれと、わたしに哀願している。



14.9.09

ものたちのemotion

おかげさまとはこういう時に言うのでしょう。
良いお客様にめぐまれました。コアなお客さんを大事にしていれば、大丈夫といった安心感をつかむことができました。
今まで、何を恐れていたのだろう?

これからの作業に、ビデオ、写真などの整理がありますが、シバタアヤノさんに送っていただいた写真からぱっと目についたものをとりあえず、ここに添付。ビデオは、ゴトウテンくんが撮ってくれました。いずれ、アップしたいです。

今回は、自分がアニミストなのが、心底わかりました。
Emotionをどう、「再配置」するか、ということが、今回の、チャレンジだったのですが、どうも「わたしの」Emotionではなくて、いつのまにか、「ものたち」のEmotionになっていました。こういうことになろうとは、思ってなかった。ふしぎだなあ。

会場が、日曜なせいか、外からの雑音が少なかった。なので、ささいな音も、皆で共有できたと思います。



12.9.09

で、あした

です。
久々の「普通の」パフォーマンス。
「普通」でありながら、この20年で最大のチャレンジ。

今日。画廊に行って、おおよそ、セットアップしてきました。あした、果物やら、追加のものを用意して行きます。

フライやーも作らなかったし、メールとブログ以外で宣伝していないので、たぶん、5人くらいしか来ないだろうな。

でも、関係ない。

「人がたくさん集まって、それなりの人が見てくれる」とか、言ったことに関心が薄くなった。

少数でも、いつも応援してくれる人たちに、しっかり見てもらい、それを続ける、ことが大事。

妙に、新しい観客を見つけようとすると、妙な人まで呼び寄せてしまうし。



では、よく寝て。、身体をベストの状態に持ってゆきます。


おやすみ。

11.9.09

C&M ディスカッションピクニック

テルアビブ〜東京交流 セルフエデュケーションプロジェクト
『大砲と美神 Cannon and Muses Tokyo, Role of art in Real-time Crisis』 
山岡はコーディネーターをしています。


ワークショップ第2回です。現在多摩美と早稲田の学生さんがメンバーになっています。
学生さんたちはディスカッションの経験は少ないし、考えを言語化するのはまだまだ苦手と思われます。しかし、これからの国際的なコミュニケーションには、言語化は是非必要です。
社会人の皆様、また他校の学生さん、ディスカッションに刺激を与えるべく、ご参加くださると、うれしいです。様々な立場の方が、来てくださるとありがたいです。

雨天の場合や、日比谷公園のどこなのか、などまだ決まっていないこともありますので、追って連絡いたします。
御興味のある方は、メールをください。
ccj59900@nyc.odn.ne.jp (山岡)


以下は、早稲田の新井君の書いた、お知らせ文です。

よろしくお願いします。



山岡

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ディスカッション・ピクニックのお誘い

9月に入り少し涼しくなって、過ごしやすい日が続いています。

いかがお過ごしでしょうか?

そんな中、政権交代、新型インフルエンザの流行など身近なところでも大きな変化が起きようとしています。
またあいも変わらず、貧困や紛争、核の問題から温室効果ガス、公害、異常気象や環境破壊などの諸問題は、根本的な解決の糸口を見つけられずにいます。
科学者、政治家、また企業を含めそれぞれがどのような形であれ、それぞれ活動しています。では、わたしたちアーティストにはどのような役割があるのでしょうか?

そういった問いかけを考えるため、また実践の場として、この「ディスカッション・ピックニック」を企図しました

ぜひふらっといらしてください

日時:9月20日 13:00〜
場所:日比谷公園
食べ物/飲み物:各自持ちより

目的:自らのコンセプトを言語化する
   アーティストが社会の中で明確なスタンスを持つことの大切さを学ぶ
   (ゲストアーティスト数人参加予定 交渉中)

テーマ:戦争とアート/格差問題/フリーター/大砲と女神/オルタナティヴについて/流行の服/お気に入りの場所について/DKNY/アクティヴスト/DEMO/イスラエル/シオニズム/ユリイカ/恋人について/ポッセについて/ポジショナリティ/グローバリズムと反グローバル/RATM/ホームレス/エンターティンメント/5月革命/大事にしたいこと/悩み・コンプレックス/マイノリティーについて/鬱について/政治と芸術/演劇について/プレカリ・アート/移民受け入れ/フランツ・ボアズ/学生運動について/コール&レスポンス/アクション/セルフ・ドキュメンタリー/DIY/日常の介入/レイヴの思い出/好きな音楽/不当逮捕について/選挙について/歴史認識/サブカルについて/NPO/発表の場について/お金について/パレスチナ/ダーウィンの悪夢/学校について/分析装置=媒介装置/ゲシュタルト崩壊/自殺/トウキョウ・オリピック招致について/ナショナリズム/マルチチュード/ストレート・エッジについて/チョムスキーおじさん/ピース/ついついしてしまう癖/オクトーバー/編集/メディアについて/芸術批評/アーティストがイマできること/


主催* テルアビブ〜東京交流 セルフエデュケーションプロジェクト
    『大砲と美神 Cannon and Muses Tokyo, Role of art in Real-time Crises』
    代表・後藤天(多摩美術大学 映像演劇学科2年)
    ディスカッション企画担当・新井宏輔(早稲田大学理工学部)
コーディネーター*山岡佐紀子 (アーティスト)
Official we site( international) * http://cannonsandmuses.org/
mixiコミュ* http://mixi.jp/view_community.pl?id=4294443

10.9.09

C&M ディスカッション

今月20日、日曜日、Cannons and Musesのワークショップで、ディスカッションがあります。
午後1時、日比谷公園。

私は、多摩美と早稲田の学生たちが行っている自主エデュケーションプロジェクトのコーディネーターをしています。
タイトルは「東京〜テルアビブ交流企画 Cannons and Muses Role of art in the realtime crisis」。
(「戦時におけるアートの役割」という副タイトルでした。今は、「危機の時代におけるアート役割」に変更しています。テルアビブ側が少し落ち着いてきたからだと思います。)


以下は、1月にC&M Telaviv が行ったイベントの記録。5人の過去のアーティストが、戦時における自分自身のアートを語っている。
今、それを日本語に翻訳中。長いからいやになる。


Dead Artists Panel- characters discussing the role of art in times of war. from Cannons & Muses temp on Vimeo.