29.9.10

言語化されない声

サバルタンという言葉がある。ググってみて驚いた。間違った解釈が書かれたりしているので要注意。私だってそう詳しいわけではないけれど、たぶん、私の解釈はたぶん大丈夫(笑)。「サバルタンは語ることができるか」というスピバクというインド人の女性学者によって書かれた書物がある。私には筆力がなさ過ぎるので、知らない人で、ちゃんと知りたい方は「サバルタン」と調べずに、本のタイトル「サバルタンは語ることができるか」ごと、ググってください。勿論、本を手に取ってみるのが一番早い。

それで、私流に簡単に要約すると、自らの声を語るべく言語を持っていない人々のことを言う。スピバクの著作では、インドの被支配層の女性などが、特にそれにあたる(非支配層が下層とは限らない)。だが、私は、その意味を広く解釈して、私たちも多かれ少なかれそうだと思う。アートは結局ところ西洋文化だ。どんなに「日本にも芸術がある」と叫ぼうが、それは骨董だったり、装飾だったり、まあそんなところだ。ああ、この話をしていると、長くなりそう。まあ、それは、所詮、借りている言語なのだ。もちろん、ハイブリット的に、自分のものにすることは可能だと思うし、そうしているがアジアのアートだ。
一方、アートも興味ない、文章も書かなければ、読まない、ほとんどしゃべることもないという人の中には、日本語すら、自分の「声」を表すためには使ってない場合もある。単に、他人との約束事を、やりくりするための「テクノロジー」としているだけで、自分の声はひたすら隠している人もあるだろう。にこにこするとか、うるせえと言って暴れたりする。お金で表現する人もあるだろう。お金は雄弁って言うね。また、好きな趣味の時だけ、没頭するとか、ね。引きこもりや、オタクと言われる人たちは、外と「心」を通わすために、日本語を使うつもりがほとんどないし、信じてないし、うまく使えない。逃げるし、かくすし、ごまかす。これも、コミュニケーションである。

うちには、保苅実という人の「ラディカル・オーラル・ヒストリー」という本がある。これは、保苅さんという若い日本学者が、オーストラリアのアボリジニの人たちを調査したものだ。彼はできるだけ、彼らの言葉で、書き記そうとしている。それは、日本語だとか英語だとかそういう問題ではない。しばしば、西洋人だったり、西洋的な民族研究のノウハウを学んだ学者が、彼らを「解釈」する際に、優越的な立場で持って「そんなことあるわけないじゃないか」という勝手な解釈を加えることがあり、その方法に抗ってみようとしているのだ。事実の受け取り方は、ひとつではない。それが、学問的に、問題があったりすることもあるらしいが、この保苅さんは、ベストをつくしていて、著作は結果、温かいし、すがすがしいものになっている(と思う)。

人は、口にしていることが、言いたいこととは限らない。どうしてもうまく言えないと感じている人もいれば、ぺらぺらそれらしいことを話すことに疑問がない人もある。借りた表現で満足している人もいて、それが面白ければ、他人は信じる。人は、「腑に落ちる」話を信じたいだけであり、真実を見極める力のある人は、ないと言いきってもいいかもしれない。だいたいにおいて、言語化されない声を、身体性なんて言っちゃうのよね。まあ、そうだ。

それで、いいじゃん。

結局のところ、人は「この人は信じられそう」とか「仲良くなれそう」とか「使えそう」とか「都合が良さそう」とか、そういうのを、言葉ではなくて、気配や経験則なんかで受け取ってる。

たとえば、フロイトの影響で、シュールレアリズムの人たちは、無意識を見つけるためにいろいろなことをしてみた。それが成功していたかどうかは別として、「あ、これって本当かも」というようなことは、論理立てて考えて出て来ることより、なんかの間違った組み合わせの中から出て来ちゃったりする、という経験は誰にもあるだろう。それらしいことの組み合わせで出て来ることって、それらしいだけなんだ。

てなわけで、現在の企画の「モバイル・ティーパーティ」では、「こんなことって思っているのかも」とか「それってありなの」とか、ばかばかしいことかもしれない、棚からボタ餅ではなくて、ひょうたんからコマみたいな、言葉のフラグメント集を作ってみたい。こりゃ、正攻法では出てこないと思うよ。

「わたしたちは、市民として声を持ちました。それは民主主義を語っているでしょうか」とはいいながら、そうでもないし、うぬぬ、どうなんでしょうか?

今、その「ひょうたんからコマ」が出てくるような、方法を考え中。
ワークショップなので、「こんなのどうでしょう?」ってアイデアがあったら、是非、お知らせくださいねっ。コラージュもいい方法かも。

28.9.10

メディアアクションズ、ワークショップ

MediActionsのこと。以下は、広報です。

きのう、アーティストたちと相談して、今後のワークショップの方向性が決まってきました。
「モバイル・ティーパーティ」(仮題)
というと、なんだか、ハイテクそうですが、ここでは、身体も道具も重さのある移動式、できたらリヤカー*を使って(借りられたら)、地域を移動します。
あちらこちらで、お茶会をし、様々な「メッセージ」を集め、箱につめて(?)、どこかに、配達する(しない?)、ということ。
参加者の数が、まったく、予想がつかないので、今週末の1回目をやってみてから、今後の具体的方法を決めたいと考えています。

第1回 10月2日(土)14:00〜17:00 3331Arts Chiyoda B1  
「私たちの身体そのものがモバイルなメディアであること」アーティスト:ピラさん+ジャスミンさん+GOGOさん+山岡佐紀子
ということで、まず、活動のための、Tシャツのデザインをつくります。
また、メッセージも相談して考え、デザインに入れます。絵を描くのが好きな人か、言葉を考えるのが好きな人は、是非、いらしゃってください。
それは、2週間ほどすると出来上がる予定。希望者には、1000〜1500円くらいの値段でお分けします。
これから、屋外に出かけていくための準備です。(選ばれなかったデザインも展覧会では、展示します)
土曜は来られないけど、Tシャツは欲しいという方は、予約受け付けます! 
問合せは、info@dis-locate.net まで または、わたしの方へ。


ワークショップの大事な要素としては、
  • パブリックスペースの利用方法を開く。と言っても、パブリックスペースなどどこにもないので、「居心地」の良さそうな、短い時間でも、過ごせそうな場所をみつける。 
  • 「主張」という方法では出てこない「言葉」「メッセージ」をひろう、言語にならない言語をひろう。 面と向かったり、台に立つのではなくて、何かやりながらしゃべるという方法から、メッセージをみつける。
  • インターネットのメディアを媒体にするのではなく、身体性というメディアを使う。テクノロジーやメディアについて、本質的な意味を考える。
  • パーティと言う言葉は「党」という意味もある。言語はコミュニティによって作られるということを、実現する。
まだまだ、不十分な内容ですが、毎回の経験で、アイデアをブラッシュアップしていきたいと思います。



*リヤカーは、1920年頃の秋葉原で初めて作られたと言われています。かつて、貨物駅や青果市場のあった秋葉原は、物流の最先端だったというわけ。
もの/メッセージを届ける媒体なのです。



アジア的抵抗の術

MediActionsのアーティストが集まり始めました。もう土曜日には、公開ワークショップを、行わなくてはなりません。これから続く計4回の1回目であり、そのプロセスと最終展覧会というプレゼンテーションの両方を重視したものです。しかも、10月は、隔週月曜には、東京経済大学でのワークショップがあります。ハードです。
つまり、短時間に様々なことを理解しなくてはならないこと、責任がかなり高いということです。年長なので、まとめ役をさせられているところがあって、それはちょっと困るなあ。

きのうは、最初のミーティング。3331の地下1Fの私たちのスタジオで。朝11時から始まって、夜はレジデンシーに移り、11時間続けて話あいしました、勿論、2回の食事もしたし、お茶も飲んだし、30分ほどの昼寝もしましたが。主に、コミュニケーションということを話しました。運良く、方向性としては、近いものを持っているもの同志のようです。つまり、「コミュニケーション」に対して、ナイーブな(純粋、幼稚な)妄想を持っていないということ。これは、良かった。コミュニケーションの不全性について話した。面と向かって話さないで、メールで会話する人たちのことや、また、言語を自己の表現として持っていない人についても、出て来た。サバルタンな場合ということまで、想定しないと、「話せばわかる」になってしまう。欧米型の民主主義を理想としている人たちとは、違ったコミュニケーション法の象徴としてのアキハバラがある。「引きこもり」「おたく」「暴力」。論理的に説明して、闘争方法もノウハウのある現在闘争中の「渋谷系」とは、違う方法。私たちは「抵抗」「潜伏」「いたちごっこ」「無視」「流民」という方向性を提出したい。「市民運動」ではなくて「流民運動」と言っていいかな。「居心地」というのは、大事なタームです。居心地が悪ければ、どこかに移動してしまうんです。「民主主義」なんて言葉を、冷笑なしに口にできない。拳をあげたりしたくもない。しかし、もうひとつタイプの「民主主義」をあざ笑う力が、駅前にどんどんどん、3つ4つ、とそびえているわけです。じゃ〜ん。


まずは、これからの活動のために、Tシャツのデザインをすることにしていますが、そこの書く文字は、絶対日本語が良いというのです、ふたりは。なぜなら、英語にすると、「ファッション」になってしまうからだって。ワークショップもなるだけ、日本語だけにして欲しいというのは、私が大変になるんだけど、「英語をしゃべる外国人」だから、面白いかも、という空気に、抵抗したいらしい。さすがだな。
まあ、Tシャツをつくって、みんなで着るというのは、もともと欧米的だったかもしれないけど、最近のタイの市民の活動を見ると、アジアが、うまく自分たちの方法にしたものかもしれない。

3331というところは、宇宙ステーションみたいです。入り口が、階段になっているところなんか、「未知との遭遇」で見た、宇宙船に乗るための入り口みたいなんだ。それで、中に入ってみると、どこを歩いている人も、スマートな身のこなしで、ルールをきちんと守り、アートのための貢献する、とっても、前向きで前途有望な人々に見えてきて、感心する。もちろん、人それぞれと思うけど、私なんかだめだろうなって思ってしまう。エマさんがいなかったら、私はここでやれないと思う。でも、せっかくだから、学べることは学んでいきたいです。

ベストを尽します。きのう、帰る電車の中で、呪文のように唱えていたのは「ベストを尽します。でも、その後は、神様に任せます」
ということ。

今日と明日は、オフなので、自宅で、摂食障害の人のインタビュウの録音書きおこしをやります。


21.9.10

仕分け時代

前にも書いたかもしれないけれど...........バブル期を過ごしたことは、恥でもなければ、「反省」しなければならないわけではないと思います。「失われた20年」しか知らない人たちには、悪いけれど、物事が、ディープだったり、軽薄短小だったり、贅沢だったり、インスタントだったりと、両極端に、いろいろあった時代を楽しませていただいているから、近頃のように、売れるとか、経済効率とか、仕分けされたりとか、世の中に役立たなきゃ、プロのアーティストとは言えないとか、せっこい時代に対しては「これがあたりまえと思うなよ」といって、距離を置く気持ちでいられるのだと思います。
確か、90年代のなかごろから、しきりに「アートの社会における役割」という言葉が出て来ていたと思います。私は、そういうアメリカ人みたいにはなりたくないって思っていました(もちろんこれもアメリカ人への偏見)。個人の欲望の対象だからこそ、文化なのだ。

でも、2000年代の中頃になって、自分である程度の大きさのイベントを企画しなくてはならない(と思い込んでいたんですが)ような状況になり、助成金をいくつか申請したら、意外と取れちゃったりする経験は、少し、私の考えを変えました。税金を使わせていただくからには、何かを世間に返さなくてはならない、というような気持も出て来たり。もしや、私もなんらかの役割があるかもしれないと思ったり。2005年に横浜、東京、長野、広島とドイツのアーティストの紹介というのをやり、そうするといろいろな、「お財布」や「権利」を握っている人々に会うはめになり、そういう方たちと、面と向かって話をする術を身につけなきゃと思ったりしました。たぬきさんとか、きつねさんたちと。世間は、そのあたりから、「ディレクター」が偉い人みたいな空気になってきたんじゃない? アートの言語で社会を動かす、みたいな感じ? でも、それはアートの言語ではないんですよね、実際は。上手に二枚舌を使う。いやいや、それでいいんです。それでないと、大きなアートイベントに資金は作れません。でも、私の場合は規模が小さいし(せいぜい100万円)、それに、やはり、作品で評価されたいと言う気持が何より大きかったです。やりたいことも、皆さんにはわかりにくくて、わからないとよく言われてました。私の舌は一枚しかついてなかった。つまり、それは、作品でやればいいと気づいた。一方、得たことは、「路上=社会」ということに、自分なりのスタンスを持つことを楽しめるようになりました。それは良かったです。自分は世間の一部を占めている小さな点の「分」ということを感じられるようになった。他人にとっての自分というのを、少し見えてきたのは、良かったと思います。
でも、プロとして、日本でどう仕事するかという問題は、こじれるばかり。だんだん、それが矛盾した問いだということがわかってきました。

仕分け時代のアートは、アマチュアである方が、クオリティ高く、追求、研究、トライアルできると思います。余暇の過ごし方みたいになっては、だめだけれど、自分自身のために、自分と自分とともに生きている人々とともにいるために、本気で、取り組みたければ、本格的にアマチュアであるのが、良いのです。


不景気なのに、ネットの情報でのアートは無闇に盛んに見えます。スターアーティストを祭り上げて、皆に、ジェラシーやら、追随をあおったりしているように見えます。でも、実際はそんなに派手じゃないし、アーティストがバイトで一生懸命はたらいたお金が、つぎ込まれてるだけだったりするみたい。だまされちゃいけません。

ということで、マルゴーはジミです。コアな観客が、コアな足取りでやってくる。いいねえ。

以下、写真、芝田文乃さんです。いつもありがとう。
写真は音がなりませんが、音がかなり大事なパフォーマンスです。シャトー2Fは意外と静かな環境にあり、微細な音を表現できるようです。





















14.9.10

態度がアートになる時

「態度がアートになる時」という展覧会が1970年代に、スイスであった。それから、40年弱。その頃の探求は、様々な表現に影響したと思う。パフォーマンスアートだけではない。でも、わたしは、パフォーマンスアートを選ぶ。今は。

日曜日に、マルゴーに来てくださった方、ありがとうございました。今回思ったのは、パフォーマンスのイベントに来てくださる方たち、彼女/彼たちが、だんだん、「目利き」になって行くのと、自分の表現の成長があるのとの、連動していることがあるってこと。それって、スマイルでもあるし、「本気」で、やばくもある。なあなあの関係ではない。
観客は多くないけど、「パフォーマンスが見たい」という人が、これだけいるんだってことは、それだけで、やる意味があると思った。

それから、自分のしていることは「ある態度」なのだと思っている。音やビジュアルを時間軸に作っているのだけど、それを作り出す「態度」が、本当の「芯」。グラスを割る、ということだけで理解すると、「破壊的」な表現としか、印象に残らないかもしれないけれど、私は「メンテナンス」しながら、行う。実は、木々の葉が落ちて、それから、春が来る、というようなイメージで行っている。とはいえ、「皆殺し」的な気持もある。時間を経験するとは、なまっちょろいことではない。破壊だけでないのだ。それは、「刷新」するための「煉獄」でもある。今回、白いテーブルを会場の奥から、手前に引いたり押したりすることを繰り返ししたのは、「火葬場」の印象からだった。「弔い」とは、ただの「死」の儀式ではなく、「生」を肯定し、讃えるためだ。ここで、安易に、「再生」とは言いたくない。
無闇に未来志向に「明るそう」なふりをするのは、実は、ものごとを「ネガティブ」に考える証拠ではないかと思う。重みに、耐えられないからに違いないと思う。

コンセプトを遂行するだけでなく、「演奏者」のような感性がいると思っている。6歳から13歳まで、音楽の勉強をしていたことがこうやって生きてる。親に感謝。

今回、なんだか、脳内なんとかが出てしまったようで、きのうまで、ハイになってた。もしかして、1人でこうなってしまい、私のパフォーマンスを見た人は、ついていけなかったのかもしれないと、ちょっと心配だ。だが、一方で、ある程度、ついて来れないくらいの方が、良いのではないかと思う。コミュニティに親和的な「態度」と、それからどうしても食み出てしまう「態度」とに、左右から、ひっぱられ、ひっぱられ、定まる場所を、模索する、そのプロセスを、表すことはできればと思う。

最後に書くようだけど、今回はメンバーも良かったと思いました。「パフォーマンス」という表現をシンプルに愛している、そういった人たちとやれてよかった。


ありがとうございました。よかったら、次回も来てください。11月18日です。次回は、「パフォーマンスサファリ」といったコンセプトです。

11.9.10

明日は、マルゴーのパフォーマンス。狭い椅子ではありません。

明日は、小金井のシャトー2Fで、他4人とパフォーマンスです。一応、順番にやりますが、一部重なります。狭いイスに、くくりつけられるようなことはありません。

今日は、私自身の物質的、精神的仕上げ。

http://chateau-pa-margaux.blogspot.com/

9.9.10

シャトーのトワレット

9月いっぱい、毎平日5時間見当くらいで、続ける仕事があって、生活にペースがでてきたかもしれない。継続的に仕事があるってすてき。それは、摂食障害の人のインタビュウのテープおこし(前にも書いたね)です。おかげで、タイピングが早くなったかもしれない。

今度の日曜日が、シャトーPAマルゴーのパフォーマンスなので、段取り、小道具など、用意している。グラスは、3ヶ月近く前から用意して、会場であるシャトー2Fの食器棚に入っている。感覚の準備が一番大事かな。シュミレーションを、いろいろなところで、妄想している。どんな感じで進めるか。サウンド(自分で出す音、例によってモノが擦れる音や壊れる音)の要素もあるし、自分のリアルな感情の、セルフコントロール。息の要素が高くなると思う。それは音や色と連動する。音とは大きく連動するけど、色はどうだろうと思ったり。視線の角度が様々になるようにしている。トーンとしては、場所の記憶にコミットするから、ゲゲゲ系になるね。プネウマかな。演劇でも、従来のコンセプトの強いいわゆるパフォーマンスでもない。スキルや、私個人の身体の持つものが生かされる方が良いと思っている。そして、シャトーの特性が活かせればいいなと思っている。あ、イベント前に、村井さんとシャトーのトイレ掃除をじっくりするよ。5ボトルのオープンワイナリーだからね、リフレッシュは大事だ。

ジョアン・ジョナスの本と、福音書を読んでるよ。


*来週くらいから始まる予定の、イスラエルでのC&M展は、挫折組が多くて、2組しか、作品展示ができないかもしれない。ネットしか使えないコミュニケーションで(しかも英語)前向きなコミュニケーションができたのが2組もあれば、すばらしいのかもしれない。村上チームは、テルアビブのどこかの地下で、彼の作品が展示され、ナバによるパフォーマンス、ニスリーンも何か、作品を置くそうだ。あの作品に、地下はあってる。鈴木チームは、リオが、鈴木さんのSkypeの映像を制作中。これは、出来上がる見込みがあるので、展示できる。場所はまだ不明。

3.9.10

関わりやすいものはNG

ちょっとメモ。


関わりやすい、とっつきやすい、もの/こと/関係は、あとで、ダメダメになる、私にとって、それを学ぶ3年くらいだたと思う。
難易度高くしないと、自分が満足しないってことだ。そういう私だってことだ。
割と、いろいろなことを始めたかったから、手がつけやすい所から始めてみたりしたのが、反省点だ。
やるなら、1日限りのもの。


MediAtionsについて。ワークショップの定義だ。いっしょに行うインタラクティブを期待されているが、いっそのこと、自分ひとりのワークショップにしてしまおうかと思う。関われる要素を少し残しておく。それは、ほとんど、上演と同じだけれど。これまでのスタディをまとめておいて、展示できるようにしておく。

マルゴー。グラスを使う。屋外にも少し出る。
だが、大事なことは「気晴らし」になってしまってはいけない。はっきりとした思想を、胸にためておくこと。

2.9.10

躁状態の強要

タンスに白骨化したお母さんをしまっていた事件(事件と呼ぶべきか?)やら、摂食障害の人のインタビュウ(今、わたしが臨時収入としてテープ起こししている)やら、身近の人たちの様々な悩みを聞いたりしていると、いつも「躁状態」であることを、強要されている強迫観念に満ち満ちている昨今の東京の「アート」シーンが、どこか、別の島で行われている絵空事にか、にしか感じられない。


何も「掬って」ないではないか?アートは。


今月末から始まる予定の「MediAcitons」では、どういうスタンスでいこうか、まだ迷っている。「パブリックな」人間として、「前向きに」語られている言説の、尻馬に乗ってみようかと思ったこともあるけれど、それで、どうなる? パンフレットの「挑発的」なアイデアを頭に叩き込んで、ワークショップ案を10個以上も考えてみたが、まあ、それは頭の体操、ということで、もう少し、真剣に「掬う」ことを考えたい。



「人は、メディアを手にした」。しかし、関係性は、より希薄になっている。





躁状態なふりするなんて、まっぴらでしょう?