27.12.10

シャトーパフォーマンスマルゴー3フライヤー

いつも見に来てくださっている佐野佳子さんのデザインです。手に取ってみたくなるようなフライヤーを。ハトロン紙に印刷されてます。


17.12.10

ワークショップ:ことの運び


3月に、スペインのジローナ大学で、パフォーマンスアートのワークショップをします。日本と比べると、たぶん、パフォーマンスアートはそれなりに、アートとして理解されている分野なのだろうと思います。そんな先進国で何をしようかな。

もうプランを出せということなので、悩んだけど、とりあえず、今年9月に、多摩美でやる予定だった(2日かけて考えたのに、消えていったプラン)ものをやる、という方向で行こうと思います。
タイトルは「ことの運び」この日本語の意味は深い。
写真は、ジローナ大学のキャンパス。紀元前からある町だよ。
多摩美の場合は、インストラクションを用意したが、ジローナでは、各自が見せたいことを、各自で表現してもらったらと思う。日本人は、自分でコンセプト/アイデアを選ぶことが苦手だが、スペイン人は与えられることが苦手かもしれない。いかに、自分の考えを表そうか、やっきになるのかもしれない。この辺は、行ってから、様子を見てきめたい。16歳から36歳くらいの人が、学生にいるそうです。

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具体的なものを「運び」ます。「運ぶ」ということは、時間がかかります。日本語には「ことの運び」という言葉もあり、物事の経過を表します。それは、彫刻でも絵画でもなく、時間を要した表現となり、しかも、その時間を作り出すのは、自分自身の身体と意志です。

実際のモノを「運ぶ」というごく日常的な行為をベースに、パフォーマンスアートの可能性をともに経験したいと思います。様々な日常的なモノを空間のひとつのサイドに用意します。それらをもうひとつのサイドに運ぶ、というパフォーマンスを行います。その際、私は複数のインストラクションを用意しますが、どのインストラクションが、誰にあたるかは、くじ引きになります。
運ぶモノを選び、運ぶ方法、手順、スピード、時間配分などが、表現の要素です。

 短い時間ですから、完成した良いパフォーマンスが望まれているわけではありません。日常におこなっていることにほぼ近いことを、他者に見せることにより、それは解釈の対象になるという経験です。他の人たちは、あとでパフォーマーが何をしたか、見えたことを話します。インストラクションの内容をあてることが目的ではありません。見えたことの感想でもかまわないのです。表現として、意識/無意識に出てきたことを、検証します。
その会話をした後、もう一度ずつ行います。2度目は、自分がしたいイメージあるいはコンセプトで、運びます。これについても、また、話し合います。

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*関係ないですが、このblogではなくて、ホームページの方、少し改修しました。日本語で読みやすくなりましたので、良かったら、覗いてみてね。




13.12.10

シャトーパフォーマンスアートマルゴー 仮フライヤー


次回のイベント仮のフライヤーです。
今回は、フライヤーを真剣に作っています。18日くらいにはお見せできます。
いかんせん、年末年始がかかるので、どれほど、皆さんのおてもとに届くのかはっきりしませんが、御期待を。郵送も熱心にしてみたいです。

今はネットの時代で、紙媒体が弱いです。

村井さんは「紙媒体派です」といい、フライヤーまきの重要さを唱えます。めんどくさがりの山岡は、ぶつぶつ、でも〜なんて言ってみました。
ああ、しかし、最近、どこかでとった、見ず知らずのポストカードで、見ず知らずの場所で、見ず知らずの方の作品を拝見し、大変、良かった。
ネットなどで、派手に情報をしていません。
いつも楽している情報だと、一億総オタク化ではないですが、楽に手に入る、好きなものばかり収集してしまう可能性があります。
ネットに情報はいっぱいですが、サーチするのは自分だけ。偏ります。

新聞は、パワー減で、記事もつまらなくなりました。でも、ぺら〜っとめくると、見たい事も見たくない事もみんな一緒にざっとでも入ってきます。雑誌もそう。
それは、ネットではありませんね。

紙媒体、がんばれ。これまでと同じで良いとは言わないけど、
ラジオが生き残っているように、生き残れ。


ということで、フライヤーがんばります。

パフォーマンスもがんばります。

9.12.10

図形的リクレクション

昨日の、川染さん主催の円盤ライブ。無事終了。
私に何ができる心配であったが、なんとかのり切ったと思っている。
エアコンも止めてもらい、細かい音に集中したから、観客は身動きにも気を払わざるを得なくて、窮屈な思いをしていたかもしれない。もし、そうなら申し訳ないです。でも、それで楽しめた人がおられたら、ありがたい。
彼の言う、「へんなライブ」の一要素に、本当になれていたら、うれしい。


以下は私の図形的リフレクション。



アイデアとライブ感のAB軸の十字の図形チャートで、考える。


アイデア
A軸右:個人のセンスから来る感覚
A軸左:社会性を意識した感覚や考え

ライブ感
B軸上:緊張や集中度を大事にする
B軸下:日常性/親しみやのりを大事にする



きのうは、前半はA軸左から入り、後半は右の方へ行き、とどまった。
B軸に関しては、ずっと、上方向が強かっただろう。しかし、狭いところに少人数という意味では、下方向的なところもあった。



A軸については、それで良いと思う。
B軸は、迷う。
図でも、日常性の反対側をなんと書けばいいかわからない。非日常性ではなくて、崇高性でもなく。適切な言葉はないものか。


来月、

シャトーマルゴーで、サエグサさんとデュオすることになっている。それでおととい会っていろんなことを話した。その中で、能のことを話した。彼も好きみたいだ。私も、そのことを考える。あれが、あのようにハイテンションな場所であるのは、「奉納」であるからなわけだと思う。その感覚が、どういう形で、現代の日本人に、関われるか、関わっているのか。

5.12.10

円盤出演水曜です。

不思議な世界観のライブで有名な川染喜弘さんが
毎月、企画しているイベントに呼んでいただきました。会場はレコード屋さんです。

ただいま、山岡は内容を考えています。レコード屋さんであり、多くても15人くらいでいっぱいの場所ということで、
なにか、「ここならでは」のことを、と思っています。
やる作品のタイトルは「This is my sound これは私の音です」というものです。

この川染さんはライブの世界では有名な方らしく、私の出演を、いろんな人がいろいろなニュアンスで驚いています。
その驚きを見るにあたり、彼のイメージではなくて、私のイメージについて、少々疑問を持ちました。
あんな有名な方とどうしてあなたが知り合いなの?というニュアンスのものも少なくなかったです。


彼はとても、丁寧にリスペクトを示してくれて、何か別の人と勘違いしているのではないかと、心配です。

勘違いでなければ、話ししても楽しいし、ごく、普通の意味で、気が合うんだと思いますけど、違いますでしょうか。たしかに、ライブというタイプではありませんでした、私は。その壁(あるとすれば)、ものともせず、乗り越えて会いに来てくれた彼には感謝します。



とにかくやります。


12月8日(水)18:50 open 19:00 〜22:00
ライブ
場所/高円寺 円盤(http://enban.web.fc2.com/)
TEL0353062937
料金/1000円 (ドリンク代込み)。

出演 /NOMURA YOU、川染喜弘、山岡佐紀子

以下、私以外の方のプロフィール
■NOMURA YOU
1977生まれ。
千葉県千葉市出身。 Vo&Gのソロ。
PUNK 即興とポップ アバンギャルドを縦横に行き来して活動。
http://www.myspace.com/mynomura

■川染喜弘
1977年生まれ。
自分のliveは一見、稚拙に見えたり、ユーモアたっぷりで、訳の分からないliveだと思いますが、
まるで、無人島で未知の芸術に出会った、訳が分からなかったけれど、その奥の何かを感じた、
そんな風な感じが一つのゴールです。
自分の作品は、「聴く」、「見る」、以外に「感じる」事が
大事だと思っております。
http://kengaijigoku.web.fc2.com/kawasome.html

30.11.10

アイデア、が大事。

このブログには「統計」というツールがあって、その日に、どのページを何人が見たかがわかる。誰かまではわからないけど。
ずっと前の記事が、今日、2回も見られている。2つの計画のことが書いてあった。6月頃のこと。

「何かを企画して行う」ということは、何か同じようなセンスを共有していなければ無理なんだ。人間的信頼関係。やったことのない人とする場合は、彼らが私を信頼してくれてなきゃ、できない。私が信頼しなくてはできない。信頼は、どうやって、みつけるか。親しく話せれば、それで良いわけではない。


今は、主に、来年の計画のために仕事をしています。
出て行くのが、2つ。招待するものが1つ。だけど、わたしはディレクターとして仕事をしていきたいわけではないので、招待するにしても、自分の表現の表出の方法としてやることになる。どうやったらいいのか、考えている。いっしょに働くいい仲間が欲しいが、10年かけて1人いるか、いないか、なんだと、最近よくわかった。

シャトマルは、どこまでやっていけるか。本当にラボ(キッチン)になっているか?自分のやりたいことができているか?

アイデア、が問題。
アイデア、って思いつきって意味のアイデア、ではなくて、「思想」って意味のアイデアね。だから、変わらないもの。変わるとしたら、うねりのように変化するようなもの、あるいは、よっぽど強いショックで変わることはあるもの。
たとえば、「駅でやってみよう」というのは、アイデアではない。「駅を教会に見立てる」というのは、コンセプト。
アイデアは、もっと、深くて、広い。
そして、アーティストの命みたいなもの。たとえ、手や足や耳や目が使えなくなっても、なんらかの方法で、表現することができる。アイデアだけで、他は全部、他人にやらせたっていい、そのくらい、強いものだ。そういう状況って、あんまりないけど。

それを整理している、今。あほだから、できん、かもね。

28.11.10

グールド効果:演奏として

気がやはらかくなった。
音楽はちゃんと演奏ができるから、いいな。

アートだと、ちゃんと「演奏」することは、ないのかもしれない? 今時アートで人が集まるということは、かなり、気軽な次元だし、ひとつのパーティのようなものなんだと思う。考え方に、思いがけないショックを受けたり、気持ちが入れ変わるような体験ではなくて、何か、人との「いい関係」を経験する場所のようだ。

でも、グールドのように椅子の高さが「これじゃなくてはだめだ」という密度の表現を、行いたいのだ。
身体が本気でウオーミングアップして、そして降りてくる、というプロセスに、
表現の可能性を感じている。時間もかかる。
それを評して「古いタイプ」と言う人もいて、がっかりする。

けど、音楽では演奏家というのは、それをやっているのだ。音楽は古いタイプのパフォーマンスなの?まあ、確かに、ポップスは短い。


どっか、防空壕みたいなところで、ねっちり、「演奏するパフォーマンス」をすることを夢想している。そういうのをぜひ見たいといおもうだろう観客を黙って選出しておき、その人たちだけに手紙を送っておく。返信は、丸を書くだけ。私は前の日から、テンションを変えておく。しずかに会場に行き、しずかの準備をする。申し合わせたように黙って観客はあつまり、黙って私を見る。音なんか立てない。衣擦れが、静かに聞こえる。終わった瞬間、呪縛はほどける。簡単な食事をともにとって、別れる。

26.11.10

寄稿「イスラエルの文化ボイコット」への拙文

私が参加しているCannons and Muses の、ダブリンメンバーによって「文化ボイコット問題」がテーマのパブリケーションを作る事になり、私にテキスト提出の依頼があった。特に「イスラエル文化」へのボイコットのことだ。正直、荷が重い。しかし、「むずかしいから」とほっておけないと思った。
 去年から今年にかけて、アイルランドでは、ずいぶん、アーティストによるボイコットがあったようだ。しかし、そういうった動きのほとんどない、東京でこれを書くことができるか。だが、難しいなりに、知らないなりに、「部外者」として書けることもあると思った。本当に「部外者」かどうかも、考えながら。


<参考資料のリンク>
*パレスティナ発のボイコット
イスラエルの学術および文化ボイコットのパレスティナによるキャンペーン (英文)
2004年から、世界中でキャンペーンが張られていたことがわかる。
日本語で出ているキャンペーンサイト ボイコッティル 無印良品の出店を阻止しようとする動きもここから来ていることがわかる。
以下は、最近の記事。「デモクラシーナウ」というサイト。
イスラエルに対するボイコットは有効か。

*トロント映画祭(2009)でのボイコット
関連記事。キャンペーンの声明書(英文)。
映画祭の中でのテルアビブ特集が、イスラエル大使館のプロパガンダであるらしいということで、問題に。以下も、「デモクラシーナウ」のサイトから。
占領を祝うな、トロント映画祭でのテルアビブ特集に文化人等が抗議




<私の立場>
文化をボイコットするということと、プロパガンダに文化を利用することの両方を「ナンセンス」と考える。
芸術、文化には、地域性という背景は大事だけれど、本質的にはローカリティ(国家、民族)を越える。
でも、私は活動家でもなければ、どんなものにも属さない。C&Mは信頼できるアーティストとのコミュニケーションのために関わった。


<提出予定の日本語本文>
  日本において、「文化ボイコット」というと、中国政府が背景になっていると予想される、中国国内での、日本の文化紹介イベントのキャンセル事件のことを、多くの人はまず思いつくでしょう。先日の上海万博でも、領海に関するトラブルで、予定されていたポップグループのコンサートがキャンセルされるということがありました。でも、それは、世界中で行われているイスラエルの文化に対する昨今のボイコットとは、かなり違った性格のものだと思われます。

 私が、イスラエルの文化ボイコットキャンペーンの様子を知ったのは、今年になってからでした。去年の9月のトロント国際映画祭で、テルアビブ特集が企画され、それに対して、カナダやアメリカの文化人、芸能人が「占領を祝うな」というタイトルで、ボイコットキャンペーンを行ったという件です。たぶん、わたしより皆さんが良く知っておられると思うので、説明を省きます。私はインターネットで読んだだけですから。ここでは、「特集」そのものが、イスラエル政府からのプロパガンダだと言われていました。このことは、日本人で、パレスティナ~イスラエル問題を個人的に研究しているとある方からのメールで知りました。私が、東京の美術学生とイスラエルの若いアーティストのインターネットを通した交流イベントを企画していたの縁で、情報をくださいました。


 私は、大掛かりな国際的なキャンペーンになっていることに驚きました。しかし、そこで私が考えたことは、私がこれまで、考えていたことと全く変わりません。どんな意味でも「文化」をボイコットするというのは、ナンセンスだと思います。そして、「文化」を利用することも同じよう許すまじきことだと思います。
 アーティストの追求していることは、政治、国家、民族を越えて、交流、共有可能だと私は思います。勿論、人間は、育った、あるいは住んでいる場所をバックグラウンドとしていますから、アーティストの思想や作品は、土地の文化から影響を受けるし、影響もします。しかし、人はそれだけではないはずです。私たちは、想像力や感覚を共有しあえる人と、世界中どこに行っても、出会うことができるという経験を持っています。そして、アーティストはそれを作品という形で、他者を共有しようとします。そして、それは「共有の文化」となるでしょう。そして、そういった可能性のある「文化」をボイコットするというのは、まるで、ピントがはずれていると思います。そして、その「文化」を利用することも同じようにピントがはずれています。
  勿論、国家や固有の文化をアーティストの最も重要なアイデンティティとしている人もいると思います。そして、国家はそれをしばしば、保護しながら「利用」もします。「文化」は、それらのシンボルとも言えることもしばしばです。でも、真のアートは決して、それだけではないのです。個人をすら、越えて行くと思います。なぜなら、「個人」は、あまりに遠くにいる人や、許せないような経験を受け入れることができないから。しかし、「表現」や「想像力」の連動は、個人の場所にとどまることはできません。それを私は「直観」的に思うだけですが、それだけが、アートの本来の「希望」だと思っています。
  「直観」。政治や戦争の前では、そんなものは、甘いだろうとはいうこともわかっています。しかし、この「直感」のプレゼンテーションとネットワークが、人間を越えたエネルギーとなって浸透することを、私は期待しています。そして、それが、世界の人々の心を分断しようとする勢力に、歯止めをかけるものであると、私は「直観的に」考えます。

 今回のテキスト募集を受けて、ボイコット活動の一つもない、極東の東京で、それについて、感覚的に理解し、論理的に論ずることはほとんど無理ではないかと思いました。しかし、「遠い」ゆえに、言えることもあるのではないかとも思い、少しばかりですが、ペンを取ることにしました。甘い内容とお思いなるようでしたら、お許しください。

24.11.10

好きになれないことに向かい合う

ずっと前に読んだ、たぶん、ちょっと有名なアートコレクターさん(日本人)がおっしゃるに、彼は「これはきらいだ」とか「さっぱりわからない」という作品を買うんだそうだ。そうして、それはなんだろうか、考え続けると。

人間は「好きなこと」ばかりに向かいあっていると、感性が閉じて行く。あたかも、研ぎすまして行くに違いないと思うかもしれない。だが、研ぎすます人は、できないこと、むずかしいこと、苦手なことを、努力している。楽に楽しむ領域では、たいしたことを手に入れられない。

好きになれないことに向かいあおう。


私も、このところ、「こんなことわかんないよ〜」と思うことに直面して、始めはぶつぶつ言ってた。でも、なんとか、こなしている。5月のゲートプロジェクトもそうだ。しかも、今のところ、そういう辛抱が何か、私を成長させたかどうか、さっぱりわからない。成果も良いかどうかはっきりしない。
でも、たぶん、わかっていること、楽にできることをやっていると、生きながら死んでいくに違いないということだ。アートをやるって、好きなことを極めることかと言ったら、大間違い。

シャトー・パフォーマンスアート・マルゴーの第2回が日曜に終わった。来てくださった方たちに、心より感謝。ゲストの方たちの、努力にも、強い感謝を感じている。

デュレーションパフォーマンスを5人で行った。私は、受付をしていたので、少し、遅く始めた。会場に入って、ちょい、やばいと思った。観客とアーティストの区別がつかない。準備しているのか、はじめているのか、わからない人もいる。でも、観客は当然、どんどん入ってくる。こりゃ、あかん、という気持ちが先にたった。

学んだ事。パフォーマンスアートって、日常と変わらない、のりで行われているんだね。
私は、切り替えるけど、切り替えない人も多い。私が、学んで来たパフォーマンスアートでは、日常にきわめて近いが、やはり違うモードに行っているということになっている。普段とは別の集中力を出す。だが、ここではそれほどでもないみたいだ。私の方法は、時代がかっているのかもしれない。確かに、そんなことは、もう、どうでもいいのだとは、頭では判っているよ。この、ゆるゆるの感じが、たぶん、お客さんを楽にさせている。私のようでは、疲れるだろう。う〜〜ん。

これは、同時間、同空間であるから、真剣に考えることになる。「ワイナリー」(ラボ)をやっている本当の理由だ。

もうひとつ発見したことは、自分について。私は、パフォーマンス中、大変、わがままな人になる。音には敏感になるけれど、耳で聞く言語を聞き取れない。誰かが台詞のようなことを言っても、聞いていない。何か、頭の中で起こっているんだ。そういえば、ラジカセすら扱えなくなるという経験がある。たぶん、ある種の言語を理解できなくなるのだろう。記号化した字は読めるみたいだ。
音には敏感だから、いびきをかいて寝ている観客の一人であるダンサーの平野さんと、パフォーマンスで出たゴミをかたづけるために、ビニール袋を断続的にしゃらしゃらならせている、参加アーティストの関谷さんに対して、私はパフォーマンス中、怒っていた。でも、終わったら、その気持ちはさっさと消える。何がそんなに憎かったんだろうかと思った。

私の、理想の「美」なんて、幽霊みたいなもんだろうな。追い求めたり、追体験するために「美」があるわけじゃないって、わかるよ。


フクヤママサハルという歌手で俳優が、テレビのインタビュウものにでていた。一年間、大河ドラマの主役を務めた事について話していた。彼のポリシーにはあわないことを、いろいろさせられたようだ。能力を超えるようなことをさせられて「ほとんどいじめですよ」ということもあったらしい。でも、それをなんとか、やってきたと。私は、彼のことを、退屈な人だとずっと思っていた。歌もつまんない、どれも同じだ。役者としても、格好いい以外に何かあるようには見えなかった。顔の良さと、よくわからんミーハーな甘い歌声と歌詞から来る人気でやってきている感じ。しかも、半年くらい前の別のインタビュウものでも、まだ、つまらない人に見えた。人生、あがりまで来た、みたいなこと言ってたから。
でも、責任の重い仕事をさせられて、やりたくなかった感情表現を必死に行わさせられたことを通して、彼は変わったんだろうなと、とても感じた。余裕なんか、もう、見せていなかった。

うらやましいと思った。苦しんで、成長していることが体現できてる。ああ、彼になりたい。


嫌なこと、ポリシーにあわないことに取り組む。そうしないと、開けて来ない。フクヤマ氏のような「成果」はないかもしれない。でも、あきらめたら、死んじゃうから。

私はもしかしたら、ちょっとしたノリの違いや、ジャンル分けして、何かに出会うことをミスってみたかもしれない。これでも、好きになれないことにも、挑戦してきた。けど、それは違うやり方だった気がする。

きらいなことで、判っちゃっていることは、立ち向かえないかもしれない。だけど、判っちゃっているかどうかも、少しでも、疑問があったら、見直した方がいいかも。


たぶん、これに果敢に向かって行く。できたら、せめて、いい仲間とやりたい。信頼できたり、楽しかったり、愛すべき仲間がいれば、がんばれると思う。もちろん、一人でやるべきこともたくさん、ある。

20.11.10

「継続が同時」 <観察上の注意事項>


シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー
1121日「継続が同時」
<観察上の注意事項>

5人は、それぞれのパフォーマンスをします。元々は、相互関係はありません。しかし、もし、同空間、同時間で行っていることで、興味深い関係性、反発性などが起こり、それをあなたが目撃したなら、それは彼らのものであるとともに、あなたのものです。もちろん、別々のものとして、ご覧になっても良いかと思います。

椅子はご自由に使ってください。移動しても勿論かまいません。パフォーマンスの邪魔になる場合は、アーティストが、それと判るように移動をお願いすると思いますので、もし、側にお寄りになりたかったら、寄っても、大丈夫だと思います。

写真やビデオの撮影は基本的に自由ですが、パフォーマンスを見る他のお客さんの邪魔にならないように願います。ブログなどに載せる場合は、その際に、ご一報いただけるとうれしいです。こちらからもリンクさせていただくかもしれません。

会場のガラス窓にはよりかからないでください、あぶないです。

リアクション、参加は鑑賞の範囲で勿論歓迎ですが、飛び入りパフォーマンスはご遠慮願っております。

禁煙です。

カフェでご注文された飲食、持ち込みのペットボトルやお弁当などは、会場に持ち込んでもかまいません。リラックスしてください。

1700くらいまでに全員終わります。その後、トークタイムがありますので、お時間のある方はご参加いただけるとうれしいです。


19.11.10

生き続ける理由

わたしぐらいの年齢で、子供もいなければ、こんな風に考える人は少なくなんではないかな。

「生き続けなければならない理由はなんだ?」

リクルートのギャラリー、ガーディアンガーデンの20周年記念展覧会に小さな作品を出した。20年後をイメージして、という課題。これは、しゃれたことに、20年後に返却してくれるそうだ。その時の住所を書いて出すように言われた。ちょっと、ぞっとした。

わからないよ。20年後に生きてるかなんて。




死にたいわけでもないけど、生きなければいけない理由もあまりなくなった。稼ぐのも難しいし、老化で見た目は悪くなるばかりだし。今は、求められていることに、とにかく応じている。求められたら、ベストを尽したいとは思う。でも、人々とのいい関係が維持できているうちに、終わりにしたいと思ってしまう。


それほど、これから良くなるとは思えない。表現の腕があがったり、知識も増えたり、面白い友だちが増えるということはあると思う。でも、私の、世間的意味は、たいして良くはならないだろう。私がひとり生きているために、消費されているものの方が多いのではないかな。人口多いのだし、遠慮すべきなんではないかと思ってしまう。(意味かよ、あほだな



毎日の暮らしの中に、喜びを見つけている人って、自分が好きなんだと思う。かわいいグッズを買って、一人のお部屋を飾ったり、すてきな料理を作ってみたり。素敵な服装をしたり。


希望がないわけではなくて、希望を持とうと思えばある、みたいな希望だ。希望ってそういうものかな。あるいは、なくてはならない気持になるのが、希望かな。


でも、死ぬ理由さえもないもんね。死ぬってすごくエネルギーがいるし、いろいろな人を傷つける。だから、死なない。投げやりなわけじゃない。生きながら死んでるのも、やはり、全然別の意味で、まわりに迷惑だ。そういうのは、いやだな。


なので、今日、今日、やっておこうということを、とにかくやる。


今日は、あちこちでもらってきたフライヤーを眺めて、他の人たちのライブやらイベントやらにとても行きたくてなって、いろんな人に会いたくて、いろんな人の話を聞きたくて、手帖に書き込んでいたけど、よくよく考えたら、経済的に持たないみたい。


でも、
実のところ、私の年代でなくても、若くても、生まれて10年か20年かでも、もう、そんな気分になっている人たちがいるような気がする。それが気がかりなんだ。(嘘だね、良い人ぶってんじゃねえ)




わたしがそんな気分になっているのは社会の閉塞感からかもしれない。この国の経済をよくすることなんか、わたしにも、総理大臣にだってできない。


ならば、経済が良かろうと良くなかろうと、生きているのが楽しいねって、言えることを、作っていきたいじゃない? 経済は、よくなることを前提にしてはいかんと思う。


生きているのは、本来楽しいはずなんだから。






それって、とても、創造的な才能やエネルギーや努力が必要なんではないかな。それは、私にできる? やってみる? と考えると少し元気になれる。なんか、私に与えられた課題かもしれない気になれる。どう、どう? できる?



......じつはかんたんなんだ、といってみる。ちょっとしたことなんだ。





18.11.10

今と今後

今と今後。ちょっと脳がとろけてきた。何かやりたいが、気持ちが凍結している。でも、ことはどんどん押し寄せてくるのだ。整理をつけたい。(とろけているのに、凍結とは何を言っておるのか)

なんとか、できる限りのことはやったという感じているMediActions。反省は少なくはないが、手は抜かなかったという点で、ある種の達成感はある。
人との関わりが多かった。これは感謝だし、宝物だ。
だが、アートってなんだろうかと思うと、コミュニケーションだって簡単に言う人もあるけど、他のことでもコミュニケーションはできる。
だから
コミュニケーションができたからと言って、アートができたことにはならない。
甘えちゃいけないってこと。

それでも、
実感としては、今の世は、「戦う」よりも「協力する、シェアする」というのが、よりラディカルな気がするということを感じている。「戦う」のが、ヒロイズムとか、出来合いの正義感から来ていて、「戦う」人には仲間はいるけど、敵も必要とする文化のような気がする。
「戦い」を文化と言うのは、語弊があるかもしれない。でも、私には、イデオロギーも宗教も文化で、人間が発明したイマジネーションだと思う。まじめに、命かけている人から見ると、ふざけてやがると思うかもしれない。
でも、命かけて、想像力のことを、考えている人だっているんだぜ。

政治や社会がストロングであれば、制度と闘争する意味もあるかもしれない。でも、あの人たちはプライドが高いけど、力も知恵もないって感じだ。情けなくて、戦おうとは思えないんだ。

だけど、やはり「協力」や「シェア」が下手すると、甘い夢になる可能性もとても大きい。たとえば、自分の努力を、ぶんどられたらむかつくし、にこにこするよりないから、慇懃になったりもするね。ぶんどる方は、まったく悪気がないかもしれないけど、思いやりは欠けてるだろうね。それから、私に力がないからって、ただただ、何も見ず、話もせず、無視する人は少なくないだろう。そういうことのソリューションは思いつかないよ。損とか、得とか言うことにどういうスタンスでいたらいいかわからない。だけど、悔しいからって、彼らの家を燃やしに行く事もできない。皮肉の一つで済めばいいかもしれない、だから、少なくとも、冷静ではいたい。だから、血をたぎらせるのではなくて、一人を守るんではなくて、世界が関わりあう図を明確に想像し続けること、小さいところからでいいから、実現しようとする意志を続けることが、最もラディカルであると思う。地味な言い方だけど、戦う相手は、自分の中にある。だからって、自分をいじめてはいけない。その頃合いを掴むのが、かっこいいんじゃないかな。


まあ、いいや。それより、これからどうしようかって言うことだ。

つべこべ言ったり、哲学カフェが面白かったねとは言えるけど、結局、私は私の表現が看板なんだ。そこは、シェアできることと、できないことがある。責任もって出すってことはシェアできないし、出したものはシェアしよってわけだから。

<今後の予定>

ということで、今週末は、シャトー。
「シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー」@シャトー2F 武蔵小金井駅下車5分
  11月21日(日) 15:00  詳細はこちら
5人によるデユレーションパフォーマンス。参加5名が、同じ時間に同空間でパフォーマンスを2時間くらいする。動物園みたいな感じかな。企画は、私と村井元さんと直方平さんの3人。1500円。ワンドリンク込み。このシャトマルは、来年1月と3月にもある。

来月は、円盤。高円寺のレコード屋さんだ。川染さんの企画
12月8日(水)19:00 3〜4人が出る。私以外はたぶん、サウンド系。私は、レコード棚を背景に、私にとっての「サウンド」をやる。 場所はこちら
どんなのりになるか、想像がつかない。入場料1000円

来年は3月にスペインはジローナというところへ行く。フェミ系のパフォーマンスフェスと、ジローナ大学でもワークショップやらがある。スペイン初めてだから、楽しみ。バルセローナのバレンティンが、紹介してくれた。スペイン内の他の可能性もあるそうだ。何か、新作を考えて提出したい。

それから、バンクーバーでの、地域性を重視したレジデンス系イベントにも、内内のオファーが来ている。こないだ来日したランディが誘ってくれている。5月頃だっけな。ランディはパフォーマンスフェスのディレクターだけど、パフォーマンスフェスはもう飽きたって。これはウエルカムだな。パフォーマンスアートフェスは、閉じた世界になりつつある。90年から、00年代までの話ではないかな。

できたら、日本の地方に行きたいと思っているけど、この2年くらい、横浜と千葉(佐倉)より遠いところに行ったことがないです。たぶん、ホームページを日本語にしなくちゃいけない。それから、5月のインチョンでの「美しい校門」プロジェクトやMediActionsの成果などを、まとめる必要がある。

たぶん、「モバイルティーパーティ」と「公共哲学×アート」を合体させた動きができるんではないかと思っている。秋葉原でやったのは、ほんの序の口だ。始まりで、しかない。


収入源。編集デザインの仕事がひとつあります。それ以外に収入がないので、困る。何かあったら、お声をかけてください。



12.11.10

さらに思ったこと

MediActionはあと2日。GOGOが、「これはエマさんの学校。勉強してます」と言ったように、否おうなしに、巻き込まれて、別の身体になって、ぽろんと、外に出されつつある、という感覚がある。
それでも、
まだ、ふつふつ、熟成中のことがある。


きのうの公共哲学カフェでは、ワークショップという方法で、公共の場をつくっていくことについて、それが誰の作品かということとは別の「アート」の方法であると言う話題が前半。後半は、写真というメディアを扱った時の、被写体の立場という話題。様々な意見が、いい感じに出たと思う。前半では、みなさんが作品という概念からなかなか出られないということ、後半には、アーティストを保護する意見が多くて、意外だった。でも、良かったと思う。ディスカッションになっていた。皆さんに感謝だ。


写真ということで言えば、実は、私の頭にはもうひとつ、別のこともあった。「個人の死」を扱うこと。でも、この話は深すぎるので、別の機会にした方がいいと言うことになったので(打ち合わせで)、きのうは出さなかった。


以下が私の問い。

一週間程前に写真美術館で見た、ウイリアム・ヤンの写真について、だ。
HIVで死んで行く昔の彼氏の姿を、15枚くらい(だったと思う)ダイアリーを付けて、作品にしていた。1枚1枚、弱って行くアラン。痛々しい。苦しい。泣きたい。泣いた。このことで、いろいろなことを、思った。
私は、シャッター音を想像して、非情な気持になった。亡くなっていくアランの姿は、アーティストの成功(すでに成功しているかどうかということでなく)に、利用されているような気がして、私はもやもやした気持になった。HIVはゲイだけの問題ではないし(アフリカやアジアでたくさんの人が亡くなっている)、死はすべての人の問だ。だが、どうやら作品的には「一般的な死」とは捉えられてはおらず、現代的で、芸術的な問(ゲイって芸術的なテーマなんらしい)を扱った作品ということになる。なんか、死が利用されているように思った。


でも、今日、ふと思ったこと。
ウイリアムも、このことで、深く、傷つきながら、シャッターを押していただろうということ。自虐的な愛。そして、さらに、自虐的な快楽なのであろうということ。あるいは、加虐的? もしかしたら、究極の愛の方法かもしれないとすら、思った。傲慢な感じがしたのは、そのせいかもしれない。写真を撮ることが、愛の表現であるのかもしれない。

そう思うと、ふと、疑問はどうでもよくなった。疑問の答えには全くなってないけれど。トリッキーではあるね。


確かに、アーティストは作りたい作品のために、注目されるようなテーマをわざわざ選んだりして、他人を巻き添えにしたり、傷つけたりするのだ。そのことで、作品が、貧しいものになることもあるし、とてつもなく美しくなることもある。そこには「因果」はない。

芸術というのは、そういうパラドックスの中にあるんだね。そのパラドックスでもつれているものを感じるのもいいし、まるで感じないで、とにかく面白いぞと言うのもいいし、とにかくひどいぞと言うのもいいし、それぞれの勝手でもある。



写真は、アラン。インターネットの画像検索でみつけた。





2.11.10

レジデンスにとまってます+公共哲学カフェ

3331の裏にマンションがあり、そこの一室がレジデンスになっています。MediActionsのアーティストたちは、このひと月そこに泊まっていました。ジャスミンはあした帰る。ここを借りているのは、6日まで。ゴゴとピラもその日に帰ります。私は時々泊まっていたけど、押し入れしか、場所がなかったので、生活は困難だった。でも、あと数日。ジャスミンがいなくなるので、泊まることにして、東京を少し、ゆっくり過ごすことにしました。
観光客みたいにこれから、上野公園の横にある岩崎邸に行ってきます。


このところ、MediActionsのことばかり。主な行事は終わって、後は、公共哲学カフェを残すだけ。これは、もともと、ディレクターがプログラムしたイベントではなくて、私の興味から、そして友達のアライ=ヒロユキ氏の協力を得て、企画したものです。

公共哲学カフェは、2008年からすでに20回イベントをやってきています。公共哲学は、NHKで紹介されたハーバード白熱教室で、少し有名になりましたが、別にハーバードでなくて、この20年くらい前から、時代の変化を考えた研究が、始まっていたみたいです。とくに、この「カフェ」は、研究者たちのものではなくて、編集者や一般の人のメンバーがあって、本来の意味であるところの「市民感覚の哲学」を考えるために、集まりのようです。

これまで、私は、公共に対して、あまりポジティブな印象がなくて、たとえば、町おこし系イベントだと、アーティストのやることは制限されるというイメージでした。アートに特に関心のない人に、アートを楽しんでもらわなくてはならないなんて、どういう拷問なんだろうかと。

でも、状況は変わってきている。

私も変わるし、世界も変わる。


コアな表現もするし、オープンな表現もやってみて良いと思うようになった。


しかも、「官」サイドからのアプローチではない。3331アーツ千代田は、ちょっぴり「官」の場所かもしれないけど東京ワンダーサイドではない。しかも、MediActionsは、場所を借りている立場。いわば協力関係です。


11月11日(木)18:30〜
「公共哲学×アート」 参加料無料



http://public-philosophy.net/

1.11.10

モバイルティーパーティ

写真は、モバイルティーパーティ。10月30日に行いました。






警備員さん写っていると画面がなんかしまるね。


27.10.10

言葉も、視覚イメージも、はげしくコントロールされている。

言葉は、特に日本語はもやっとしているので、案外隙間があるような気がする。言葉をあんまり信用していない人はけっこう多い。
でも、ビジュアルイメージはどうかな。絶望的なほどに、と思うのは、わたしのことかな。
だから、
体験的なものを取り込んだんだと思う。

にもかかわらず、体験そのものより、言葉を駆使したり、イメージを作る作業ばかり、している気がする。今は、展示のための準備ばかりだから、ストレスになっている。
言葉に頼りたくない。
でも、見た目って、どこまで、伝わるのか、わからない。
先入観の固まりなのが、視覚イメージだと思う。
だが、それだけではない、と信じる人たちが、ビジュアル系アーティストになったのだと思う。

わたしは、どうしても信じられないんだよ。
もっと、もっと、気配や体験を作ることの、プロフェッショナルにならなくては。

まだまだまだまだまだまだまだだ。

以下は、「天使の監視」より。写真、芝田文乃さん。


20.10.10

MediActions後半戦

9月26日より3331ArtsChiydaにて開催中の「メディアクションズ」http://dis-locate.net/mediactions/
も、後半になって参りました。テークノロジー、メディア、公共空間、ローカリティ、ジェンダーがテーマのイベントです。

今後の予定をお知らせします。公共哲学カフェとの共催イベントもよろしくお願いします。

ワークショップ4 B1マルチスペース
10月23日(土)14:00〜18:00 映像を感覚的にコラージュする。

パフォーマンス B1マルチスペース
10月24日(土)14:00〜 シェン・ジー、ジャスミン・パテラ、ピリリャ・ターニャ、山岡佐紀子
(*山岡の作品は『天使の監視』というタイトル。秋葉原駅構内で行うパフォーマンスを、観客は離れたイベント会場にて「安全に」に鑑賞します。)
  
ファイナル・ワークショップ 集合場所 B1マルチスペース
10月30日(土)14:00〜18:00 『モバイル・ティーパーティ』というアクションを参加者と屋外にて共に行います。秋葉原がその発祥の地であるというリヤカーですが、
現在も段ボール集めに使われているリヤカーを1台借りて、町の「開かれた場所」を求めて、のんきに移動式お茶会を行います。是非ご参加を。

参加型イベント
10月31日(日)14:00〜 内容未定

展覧会 ギャラリーB
10月30日(土)〜13日(土)12:00〜20:00 ワークショップのドキュメントと、滞在中のレジデンシーアーティストが制作した作品やパフォーマンスの記録。

共催イベント
11月11日(木)18:30〜21:00 ギャラリーB
公共哲学カフェ出前編「公共哲学×アート』 アートにとっての公共への期待、「公共哲学」から見たアートをディスカションします。公共哲学は、公(官)と私の2分法ではなく、その2つをを媒介する場としての新しい「公共」という開かれた場所を、実践的に作っていこうとする動きだと、山岡は理解しております。いわゆる「パブリックアート」としてではなくて、「個人の居場所でもあるはずのあるアート」はこうした動きに、どんな希望や活動を持って関わることができるでしょうか。試みてみたいと思います。
モデレーター/宮崎文彦さん (千葉大学国際教育センター特任研究員、京都フォーラム/公共哲学共働研究所共同研究員[公共哲学担当])
コーディネーター/山岡佐紀子
協力/アライ=ヒロユキさん
共催/シリーズ『公共哲学』を読む会(NPO法人準備会)」  関連URL  http://public-philosophy.net/

18.10.10

参加してもらったアクションは私の作品か?

この問いについては、「作品をやるので、参加していただけますか?」という姿勢で行ったものは、作品と言って良いと思う。私の「いっしょにやるアクションパフォーマンス」は、やるアクションそのものは、私のある意味「振り付け」だし、パーソナルな問題を扱ってはいない。「感情」や「事情」がそこにあるとしたら、それは「私の」ものだし、しかももしかしたらそれは、「私たち」のことして、共有しているものがあるかもしれない/あるに違いないだろう、という前提から来ている。一時的に、あくまで一時的に、「仲間」になった気分を、共有する。だが、別れれば、私たちは別々だ。思い出を共有したとしても。

そして、それがワークショップなら、それは作品ではない。それは、ドキュメントにする時は、はっきり、表示すべきだろう。写真にしても、そこで得られた何か、たとえば、参加者の書いた/描いたものは、決して、作品とは呼ぶべきではない。コーディネートしたということは、表すとしても。

一方で、アーティストが何か、誰かのパーソナルな要素を取材し、それを作品にした場合はどうなんだろう。そして、そのアーティストが、成功したら? 成功したいと思って行っているとしたら? しかも、そのパーソナルな人たちは、社会的弱者だったり、社会的成功から遠い人たちだったら? アーティストはヒーローなのか?  それとも?  取材された人がヒーローなのか? まさか。それはさらにトリッキーなことになる。


ちょっと心配していることがあって、書いた。

16.10.10

公共のためのアートって本当にできるかな。

今、私はがベストを尽しているつもりの、この1ヶ月半のプロジェクト。これをやりとげて、私は成長するのか、あるいは、またゼロに戻るのか、それは、神のみぞ知る。
私にとっての最大の課題は、私はこれまで、ストリートにおいて、完全にゲリラで、怒られてもしかたがないが、イメージやアクションが面白いのでやっていた、という立場だったのに、今回は、公共に対して、責任を持つ表現を、試みるということだ。
私でなくても、今だ、路上は、ゲリラでしか、何もやれない状況。それでも、やることにより、公共の利益?福祉? 何か、希望を持てる方向のアクションをする、ということだ。

それは「モバイル・ティーパーティ」。しかも、私の作品としてではなく、4つの国から来た、まったく違う方向性を持つアーティストたちによって、共同制作される。ところが、ある者は、パブリックスペースへの問はあるが、それをすでに自分の作品としてて制作するノウハウが完全にできていて、コラボレーションという認識に、どうしてもピンと来ないと考えているみたい。ある者は、共産主義下に住み、アートとはエゴの欲望の表現であると確信しているので、公共の方向というのが、受け入れがたい。ある者は、共同制作というのは、理解できるが、外での活動にはちょっと尻込み。わたしは、ひたすらゲリラだった経験から、急に、オモテの人間になれるかな、と不安である。これをまとめるのは、何によるか。
これが、カケでなくて、なんであろう。
でも、この4人でできないことが、社会でできるわけがない(というのは、言いすぎでもあるけど)。
公と、私の間に、「公共」という場所を考える。ここでは、人は成熟した市民として、利他的に振る舞う、という理想。
10月30日、ほぼ、ハロウィンだよん!!

以下、大雨の中での9日の『Love or Not』。写真、芝田文乃さん。赤信号の時は、横断歩道の両側から、ののしり合っている。ありとあらゆるののしり言葉を絞り出す。青になった、横断歩道の真ん中まで出て行き、静かにハグしあう。5つの横断歩道で行った。御徒町に近い横断歩道から、ひとつずつ移動して、最後は、アキバの駅の真ん前の一番、にぎやかな場所だ。雨がだんだん激しくなって、エキサイトしていった。若い女の子の誰かにしがみついている姿は、やっぱりきゆんと来るね。相手が男であろうと、女性であろうと。













15.10.10

信じられるかどうか

土日月とMediacitonsの忙しい仕事をこなした。土曜日は、ワークショップとパフォーマンス。パフォーマンスは、参加者とともに、じゅうぶん、刺激的にすごせたと思う。参加してくださった方たち本当にありがとう。
月曜日のシンポジウムの時の、わたしの発表として、原稿を用意した。テクノロジーと身体、メディアとしての身体、公共空間の中の身体、という3つのテーマの原稿を書いたが、半分も読めなかった。わからんよ、まだ、原稿と時間の関係は。それから、参加したシンポジウムの先生方にちょっと疑問があったので、問いかけたが、私の態度がどうもアグレッシブだったため、身構えられてしまった。考えに、問いがあっても、黙っておくのが、大人なのかな。

それから、ワークショップは、レジデンシーのアーティスト4人で作ることになっている。でも、何人かは、その意味が、なかなか理解できないらしい。関わりたくないと、ミーティングに参加しなかったり、参加してても自分の作品の話になってしまうアーティスト。
いっしょに何かを作ったとて、キャリアになるのか?
「みんなで****を」なんて信じないという人もあるのだろう。

個別の作品のスキルをアップしてくことこそ、アーティストには必要。
だけど、才能を出し合って、何かを作ることも、それは興味深いことではないのかな。考えがぶつかりあってつまらないものになると、考える人もあるだろう。

6.10.10

「Love or Not」「天使の監視」「モバイルティーパーティ」

今月は3つのパフォーマンスがあります。2つめと、3つめは日程が決まってませんので、あらためてご連絡いたします。
どれも、秋葉原の3331 Arts Chiyodaで行われている「MediAcions」でのものです。まずは、3331のMediActionsのスペースにいらしてください。無料です。
場所  http://www.3331.jp/
企画 http://dis-locate.net/mediactions/

mediActions パフォーマンス企画「メディアボディズ」


 10月9日(土)18:00〜  他にピラ・ターニャさん、門倉緑さん、村上裕さんが出演します。
山岡佐紀子作品『いっしょにやるアクションパフォーマンス「Love or Not」』
秋葉原の繁華街のいくつかの横断歩道で行います。6月に銀座のApple Ginzaの前で行ったものと同じですが、3〜4の横断歩道を移動しながらの、拡張版です。
誰にでもできる簡単なインスタラクションによるラブリーなものです。コミュニケーション不全にものともしないタフで陽気な精神から、わいている作品。
いっしょにやりましょう。ながめるのもよしです。

山岡佐紀子作品天使の監視』 日程は未定  たぶん10月24日(日)
秋葉原の駅を、キリスト教会(十字型ですから)に見立てます。iPhoneのskype機能を使って、秋葉原駅の中でいろいろなことをしている私の姿を、離れた3331のスペースで、皆さんが「監視」します。
他のアーティストとコラボレーションするかもしれません。


コラボレーティブワークショップ『モバイルティーパーティ』 10月30日(土)14:00~18:00
移動するお茶会です。テーブルとパラソルのセットお茶セットをリヤカーにのせ、居心地のよい場所を求めて移動します。様々な宛先の段ボールのボックスを用意して、手紙やメッセージや殴り書きなどを投稿するコーナーがあります。この手紙は、後の展覧会で、コラージュとして展示されます。実際に、どなたかのポストにお届けすることも考えています。おしゃべりしながら、楽しくやります。ジェンダーがらみになるかもしれません。これは、アーティストたちのワークショップという形をとります。記録映像は、後に3331に展示されます。

日程などが、はっきり次第連絡します。


この他、11月11日には、同場所にて、公共哲学カフェ「公共哲学×アート」というイベントを18:30より行います。これも、詳細は改めてご連絡します。
MediActionsのメッセージの書かれたTシャツもつくってますので、これも御興味があれば、問い合わせてください。

29.9.10

言語化されない声

サバルタンという言葉がある。ググってみて驚いた。間違った解釈が書かれたりしているので要注意。私だってそう詳しいわけではないけれど、たぶん、私の解釈はたぶん大丈夫(笑)。「サバルタンは語ることができるか」というスピバクというインド人の女性学者によって書かれた書物がある。私には筆力がなさ過ぎるので、知らない人で、ちゃんと知りたい方は「サバルタン」と調べずに、本のタイトル「サバルタンは語ることができるか」ごと、ググってください。勿論、本を手に取ってみるのが一番早い。

それで、私流に簡単に要約すると、自らの声を語るべく言語を持っていない人々のことを言う。スピバクの著作では、インドの被支配層の女性などが、特にそれにあたる(非支配層が下層とは限らない)。だが、私は、その意味を広く解釈して、私たちも多かれ少なかれそうだと思う。アートは結局ところ西洋文化だ。どんなに「日本にも芸術がある」と叫ぼうが、それは骨董だったり、装飾だったり、まあそんなところだ。ああ、この話をしていると、長くなりそう。まあ、それは、所詮、借りている言語なのだ。もちろん、ハイブリット的に、自分のものにすることは可能だと思うし、そうしているがアジアのアートだ。
一方、アートも興味ない、文章も書かなければ、読まない、ほとんどしゃべることもないという人の中には、日本語すら、自分の「声」を表すためには使ってない場合もある。単に、他人との約束事を、やりくりするための「テクノロジー」としているだけで、自分の声はひたすら隠している人もあるだろう。にこにこするとか、うるせえと言って暴れたりする。お金で表現する人もあるだろう。お金は雄弁って言うね。また、好きな趣味の時だけ、没頭するとか、ね。引きこもりや、オタクと言われる人たちは、外と「心」を通わすために、日本語を使うつもりがほとんどないし、信じてないし、うまく使えない。逃げるし、かくすし、ごまかす。これも、コミュニケーションである。

うちには、保苅実という人の「ラディカル・オーラル・ヒストリー」という本がある。これは、保苅さんという若い日本学者が、オーストラリアのアボリジニの人たちを調査したものだ。彼はできるだけ、彼らの言葉で、書き記そうとしている。それは、日本語だとか英語だとかそういう問題ではない。しばしば、西洋人だったり、西洋的な民族研究のノウハウを学んだ学者が、彼らを「解釈」する際に、優越的な立場で持って「そんなことあるわけないじゃないか」という勝手な解釈を加えることがあり、その方法に抗ってみようとしているのだ。事実の受け取り方は、ひとつではない。それが、学問的に、問題があったりすることもあるらしいが、この保苅さんは、ベストをつくしていて、著作は結果、温かいし、すがすがしいものになっている(と思う)。

人は、口にしていることが、言いたいこととは限らない。どうしてもうまく言えないと感じている人もいれば、ぺらぺらそれらしいことを話すことに疑問がない人もある。借りた表現で満足している人もいて、それが面白ければ、他人は信じる。人は、「腑に落ちる」話を信じたいだけであり、真実を見極める力のある人は、ないと言いきってもいいかもしれない。だいたいにおいて、言語化されない声を、身体性なんて言っちゃうのよね。まあ、そうだ。

それで、いいじゃん。

結局のところ、人は「この人は信じられそう」とか「仲良くなれそう」とか「使えそう」とか「都合が良さそう」とか、そういうのを、言葉ではなくて、気配や経験則なんかで受け取ってる。

たとえば、フロイトの影響で、シュールレアリズムの人たちは、無意識を見つけるためにいろいろなことをしてみた。それが成功していたかどうかは別として、「あ、これって本当かも」というようなことは、論理立てて考えて出て来ることより、なんかの間違った組み合わせの中から出て来ちゃったりする、という経験は誰にもあるだろう。それらしいことの組み合わせで出て来ることって、それらしいだけなんだ。

てなわけで、現在の企画の「モバイル・ティーパーティ」では、「こんなことって思っているのかも」とか「それってありなの」とか、ばかばかしいことかもしれない、棚からボタ餅ではなくて、ひょうたんからコマみたいな、言葉のフラグメント集を作ってみたい。こりゃ、正攻法では出てこないと思うよ。

「わたしたちは、市民として声を持ちました。それは民主主義を語っているでしょうか」とはいいながら、そうでもないし、うぬぬ、どうなんでしょうか?

今、その「ひょうたんからコマ」が出てくるような、方法を考え中。
ワークショップなので、「こんなのどうでしょう?」ってアイデアがあったら、是非、お知らせくださいねっ。コラージュもいい方法かも。

28.9.10

メディアアクションズ、ワークショップ

MediActionsのこと。以下は、広報です。

きのう、アーティストたちと相談して、今後のワークショップの方向性が決まってきました。
「モバイル・ティーパーティ」(仮題)
というと、なんだか、ハイテクそうですが、ここでは、身体も道具も重さのある移動式、できたらリヤカー*を使って(借りられたら)、地域を移動します。
あちらこちらで、お茶会をし、様々な「メッセージ」を集め、箱につめて(?)、どこかに、配達する(しない?)、ということ。
参加者の数が、まったく、予想がつかないので、今週末の1回目をやってみてから、今後の具体的方法を決めたいと考えています。

第1回 10月2日(土)14:00〜17:00 3331Arts Chiyoda B1  
「私たちの身体そのものがモバイルなメディアであること」アーティスト:ピラさん+ジャスミンさん+GOGOさん+山岡佐紀子
ということで、まず、活動のための、Tシャツのデザインをつくります。
また、メッセージも相談して考え、デザインに入れます。絵を描くのが好きな人か、言葉を考えるのが好きな人は、是非、いらしゃってください。
それは、2週間ほどすると出来上がる予定。希望者には、1000〜1500円くらいの値段でお分けします。
これから、屋外に出かけていくための準備です。(選ばれなかったデザインも展覧会では、展示します)
土曜は来られないけど、Tシャツは欲しいという方は、予約受け付けます! 
問合せは、info@dis-locate.net まで または、わたしの方へ。


ワークショップの大事な要素としては、
  • パブリックスペースの利用方法を開く。と言っても、パブリックスペースなどどこにもないので、「居心地」の良さそうな、短い時間でも、過ごせそうな場所をみつける。 
  • 「主張」という方法では出てこない「言葉」「メッセージ」をひろう、言語にならない言語をひろう。 面と向かったり、台に立つのではなくて、何かやりながらしゃべるという方法から、メッセージをみつける。
  • インターネットのメディアを媒体にするのではなく、身体性というメディアを使う。テクノロジーやメディアについて、本質的な意味を考える。
  • パーティと言う言葉は「党」という意味もある。言語はコミュニティによって作られるということを、実現する。
まだまだ、不十分な内容ですが、毎回の経験で、アイデアをブラッシュアップしていきたいと思います。



*リヤカーは、1920年頃の秋葉原で初めて作られたと言われています。かつて、貨物駅や青果市場のあった秋葉原は、物流の最先端だったというわけ。
もの/メッセージを届ける媒体なのです。



アジア的抵抗の術

MediActionsのアーティストが集まり始めました。もう土曜日には、公開ワークショップを、行わなくてはなりません。これから続く計4回の1回目であり、そのプロセスと最終展覧会というプレゼンテーションの両方を重視したものです。しかも、10月は、隔週月曜には、東京経済大学でのワークショップがあります。ハードです。
つまり、短時間に様々なことを理解しなくてはならないこと、責任がかなり高いということです。年長なので、まとめ役をさせられているところがあって、それはちょっと困るなあ。

きのうは、最初のミーティング。3331の地下1Fの私たちのスタジオで。朝11時から始まって、夜はレジデンシーに移り、11時間続けて話あいしました、勿論、2回の食事もしたし、お茶も飲んだし、30分ほどの昼寝もしましたが。主に、コミュニケーションということを話しました。運良く、方向性としては、近いものを持っているもの同志のようです。つまり、「コミュニケーション」に対して、ナイーブな(純粋、幼稚な)妄想を持っていないということ。これは、良かった。コミュニケーションの不全性について話した。面と向かって話さないで、メールで会話する人たちのことや、また、言語を自己の表現として持っていない人についても、出て来た。サバルタンな場合ということまで、想定しないと、「話せばわかる」になってしまう。欧米型の民主主義を理想としている人たちとは、違ったコミュニケーション法の象徴としてのアキハバラがある。「引きこもり」「おたく」「暴力」。論理的に説明して、闘争方法もノウハウのある現在闘争中の「渋谷系」とは、違う方法。私たちは「抵抗」「潜伏」「いたちごっこ」「無視」「流民」という方向性を提出したい。「市民運動」ではなくて「流民運動」と言っていいかな。「居心地」というのは、大事なタームです。居心地が悪ければ、どこかに移動してしまうんです。「民主主義」なんて言葉を、冷笑なしに口にできない。拳をあげたりしたくもない。しかし、もうひとつタイプの「民主主義」をあざ笑う力が、駅前にどんどんどん、3つ4つ、とそびえているわけです。じゃ〜ん。


まずは、これからの活動のために、Tシャツのデザインをすることにしていますが、そこの書く文字は、絶対日本語が良いというのです、ふたりは。なぜなら、英語にすると、「ファッション」になってしまうからだって。ワークショップもなるだけ、日本語だけにして欲しいというのは、私が大変になるんだけど、「英語をしゃべる外国人」だから、面白いかも、という空気に、抵抗したいらしい。さすがだな。
まあ、Tシャツをつくって、みんなで着るというのは、もともと欧米的だったかもしれないけど、最近のタイの市民の活動を見ると、アジアが、うまく自分たちの方法にしたものかもしれない。

3331というところは、宇宙ステーションみたいです。入り口が、階段になっているところなんか、「未知との遭遇」で見た、宇宙船に乗るための入り口みたいなんだ。それで、中に入ってみると、どこを歩いている人も、スマートな身のこなしで、ルールをきちんと守り、アートのための貢献する、とっても、前向きで前途有望な人々に見えてきて、感心する。もちろん、人それぞれと思うけど、私なんかだめだろうなって思ってしまう。エマさんがいなかったら、私はここでやれないと思う。でも、せっかくだから、学べることは学んでいきたいです。

ベストを尽します。きのう、帰る電車の中で、呪文のように唱えていたのは「ベストを尽します。でも、その後は、神様に任せます」
ということ。

今日と明日は、オフなので、自宅で、摂食障害の人のインタビュウの録音書きおこしをやります。


21.9.10

仕分け時代

前にも書いたかもしれないけれど...........バブル期を過ごしたことは、恥でもなければ、「反省」しなければならないわけではないと思います。「失われた20年」しか知らない人たちには、悪いけれど、物事が、ディープだったり、軽薄短小だったり、贅沢だったり、インスタントだったりと、両極端に、いろいろあった時代を楽しませていただいているから、近頃のように、売れるとか、経済効率とか、仕分けされたりとか、世の中に役立たなきゃ、プロのアーティストとは言えないとか、せっこい時代に対しては「これがあたりまえと思うなよ」といって、距離を置く気持ちでいられるのだと思います。
確か、90年代のなかごろから、しきりに「アートの社会における役割」という言葉が出て来ていたと思います。私は、そういうアメリカ人みたいにはなりたくないって思っていました(もちろんこれもアメリカ人への偏見)。個人の欲望の対象だからこそ、文化なのだ。

でも、2000年代の中頃になって、自分である程度の大きさのイベントを企画しなくてはならない(と思い込んでいたんですが)ような状況になり、助成金をいくつか申請したら、意外と取れちゃったりする経験は、少し、私の考えを変えました。税金を使わせていただくからには、何かを世間に返さなくてはならない、というような気持も出て来たり。もしや、私もなんらかの役割があるかもしれないと思ったり。2005年に横浜、東京、長野、広島とドイツのアーティストの紹介というのをやり、そうするといろいろな、「お財布」や「権利」を握っている人々に会うはめになり、そういう方たちと、面と向かって話をする術を身につけなきゃと思ったりしました。たぬきさんとか、きつねさんたちと。世間は、そのあたりから、「ディレクター」が偉い人みたいな空気になってきたんじゃない? アートの言語で社会を動かす、みたいな感じ? でも、それはアートの言語ではないんですよね、実際は。上手に二枚舌を使う。いやいや、それでいいんです。それでないと、大きなアートイベントに資金は作れません。でも、私の場合は規模が小さいし(せいぜい100万円)、それに、やはり、作品で評価されたいと言う気持が何より大きかったです。やりたいことも、皆さんにはわかりにくくて、わからないとよく言われてました。私の舌は一枚しかついてなかった。つまり、それは、作品でやればいいと気づいた。一方、得たことは、「路上=社会」ということに、自分なりのスタンスを持つことを楽しめるようになりました。それは良かったです。自分は世間の一部を占めている小さな点の「分」ということを感じられるようになった。他人にとっての自分というのを、少し見えてきたのは、良かったと思います。
でも、プロとして、日本でどう仕事するかという問題は、こじれるばかり。だんだん、それが矛盾した問いだということがわかってきました。

仕分け時代のアートは、アマチュアである方が、クオリティ高く、追求、研究、トライアルできると思います。余暇の過ごし方みたいになっては、だめだけれど、自分自身のために、自分と自分とともに生きている人々とともにいるために、本気で、取り組みたければ、本格的にアマチュアであるのが、良いのです。


不景気なのに、ネットの情報でのアートは無闇に盛んに見えます。スターアーティストを祭り上げて、皆に、ジェラシーやら、追随をあおったりしているように見えます。でも、実際はそんなに派手じゃないし、アーティストがバイトで一生懸命はたらいたお金が、つぎ込まれてるだけだったりするみたい。だまされちゃいけません。

ということで、マルゴーはジミです。コアな観客が、コアな足取りでやってくる。いいねえ。

以下、写真、芝田文乃さんです。いつもありがとう。
写真は音がなりませんが、音がかなり大事なパフォーマンスです。シャトー2Fは意外と静かな環境にあり、微細な音を表現できるようです。





















14.9.10

態度がアートになる時

「態度がアートになる時」という展覧会が1970年代に、スイスであった。それから、40年弱。その頃の探求は、様々な表現に影響したと思う。パフォーマンスアートだけではない。でも、わたしは、パフォーマンスアートを選ぶ。今は。

日曜日に、マルゴーに来てくださった方、ありがとうございました。今回思ったのは、パフォーマンスのイベントに来てくださる方たち、彼女/彼たちが、だんだん、「目利き」になって行くのと、自分の表現の成長があるのとの、連動していることがあるってこと。それって、スマイルでもあるし、「本気」で、やばくもある。なあなあの関係ではない。
観客は多くないけど、「パフォーマンスが見たい」という人が、これだけいるんだってことは、それだけで、やる意味があると思った。

それから、自分のしていることは「ある態度」なのだと思っている。音やビジュアルを時間軸に作っているのだけど、それを作り出す「態度」が、本当の「芯」。グラスを割る、ということだけで理解すると、「破壊的」な表現としか、印象に残らないかもしれないけれど、私は「メンテナンス」しながら、行う。実は、木々の葉が落ちて、それから、春が来る、というようなイメージで行っている。とはいえ、「皆殺し」的な気持もある。時間を経験するとは、なまっちょろいことではない。破壊だけでないのだ。それは、「刷新」するための「煉獄」でもある。今回、白いテーブルを会場の奥から、手前に引いたり押したりすることを繰り返ししたのは、「火葬場」の印象からだった。「弔い」とは、ただの「死」の儀式ではなく、「生」を肯定し、讃えるためだ。ここで、安易に、「再生」とは言いたくない。
無闇に未来志向に「明るそう」なふりをするのは、実は、ものごとを「ネガティブ」に考える証拠ではないかと思う。重みに、耐えられないからに違いないと思う。

コンセプトを遂行するだけでなく、「演奏者」のような感性がいると思っている。6歳から13歳まで、音楽の勉強をしていたことがこうやって生きてる。親に感謝。

今回、なんだか、脳内なんとかが出てしまったようで、きのうまで、ハイになってた。もしかして、1人でこうなってしまい、私のパフォーマンスを見た人は、ついていけなかったのかもしれないと、ちょっと心配だ。だが、一方で、ある程度、ついて来れないくらいの方が、良いのではないかと思う。コミュニティに親和的な「態度」と、それからどうしても食み出てしまう「態度」とに、左右から、ひっぱられ、ひっぱられ、定まる場所を、模索する、そのプロセスを、表すことはできればと思う。

最後に書くようだけど、今回はメンバーも良かったと思いました。「パフォーマンス」という表現をシンプルに愛している、そういった人たちとやれてよかった。


ありがとうございました。よかったら、次回も来てください。11月18日です。次回は、「パフォーマンスサファリ」といったコンセプトです。

11.9.10

明日は、マルゴーのパフォーマンス。狭い椅子ではありません。

明日は、小金井のシャトー2Fで、他4人とパフォーマンスです。一応、順番にやりますが、一部重なります。狭いイスに、くくりつけられるようなことはありません。

今日は、私自身の物質的、精神的仕上げ。

http://chateau-pa-margaux.blogspot.com/

9.9.10

シャトーのトワレット

9月いっぱい、毎平日5時間見当くらいで、続ける仕事があって、生活にペースがでてきたかもしれない。継続的に仕事があるってすてき。それは、摂食障害の人のインタビュウのテープおこし(前にも書いたね)です。おかげで、タイピングが早くなったかもしれない。

今度の日曜日が、シャトーPAマルゴーのパフォーマンスなので、段取り、小道具など、用意している。グラスは、3ヶ月近く前から用意して、会場であるシャトー2Fの食器棚に入っている。感覚の準備が一番大事かな。シュミレーションを、いろいろなところで、妄想している。どんな感じで進めるか。サウンド(自分で出す音、例によってモノが擦れる音や壊れる音)の要素もあるし、自分のリアルな感情の、セルフコントロール。息の要素が高くなると思う。それは音や色と連動する。音とは大きく連動するけど、色はどうだろうと思ったり。視線の角度が様々になるようにしている。トーンとしては、場所の記憶にコミットするから、ゲゲゲ系になるね。プネウマかな。演劇でも、従来のコンセプトの強いいわゆるパフォーマンスでもない。スキルや、私個人の身体の持つものが生かされる方が良いと思っている。そして、シャトーの特性が活かせればいいなと思っている。あ、イベント前に、村井さんとシャトーのトイレ掃除をじっくりするよ。5ボトルのオープンワイナリーだからね、リフレッシュは大事だ。

ジョアン・ジョナスの本と、福音書を読んでるよ。


*来週くらいから始まる予定の、イスラエルでのC&M展は、挫折組が多くて、2組しか、作品展示ができないかもしれない。ネットしか使えないコミュニケーションで(しかも英語)前向きなコミュニケーションができたのが2組もあれば、すばらしいのかもしれない。村上チームは、テルアビブのどこかの地下で、彼の作品が展示され、ナバによるパフォーマンス、ニスリーンも何か、作品を置くそうだ。あの作品に、地下はあってる。鈴木チームは、リオが、鈴木さんのSkypeの映像を制作中。これは、出来上がる見込みがあるので、展示できる。場所はまだ不明。

3.9.10

関わりやすいものはNG

ちょっとメモ。


関わりやすい、とっつきやすい、もの/こと/関係は、あとで、ダメダメになる、私にとって、それを学ぶ3年くらいだたと思う。
難易度高くしないと、自分が満足しないってことだ。そういう私だってことだ。
割と、いろいろなことを始めたかったから、手がつけやすい所から始めてみたりしたのが、反省点だ。
やるなら、1日限りのもの。


MediAtionsについて。ワークショップの定義だ。いっしょに行うインタラクティブを期待されているが、いっそのこと、自分ひとりのワークショップにしてしまおうかと思う。関われる要素を少し残しておく。それは、ほとんど、上演と同じだけれど。これまでのスタディをまとめておいて、展示できるようにしておく。

マルゴー。グラスを使う。屋外にも少し出る。
だが、大事なことは「気晴らし」になってしまってはいけない。はっきりとした思想を、胸にためておくこと。

2.9.10

躁状態の強要

タンスに白骨化したお母さんをしまっていた事件(事件と呼ぶべきか?)やら、摂食障害の人のインタビュウ(今、わたしが臨時収入としてテープ起こししている)やら、身近の人たちの様々な悩みを聞いたりしていると、いつも「躁状態」であることを、強要されている強迫観念に満ち満ちている昨今の東京の「アート」シーンが、どこか、別の島で行われている絵空事にか、にしか感じられない。


何も「掬って」ないではないか?アートは。


今月末から始まる予定の「MediAcitons」では、どういうスタンスでいこうか、まだ迷っている。「パブリックな」人間として、「前向きに」語られている言説の、尻馬に乗ってみようかと思ったこともあるけれど、それで、どうなる? パンフレットの「挑発的」なアイデアを頭に叩き込んで、ワークショップ案を10個以上も考えてみたが、まあ、それは頭の体操、ということで、もう少し、真剣に「掬う」ことを考えたい。



「人は、メディアを手にした」。しかし、関係性は、より希薄になっている。





躁状態なふりするなんて、まっぴらでしょう?

27.8.10

プレイベントWS「お邪魔フォト」


















*ディスロケイトプレイベント

 2010年8月29日(日)14:00〜17:00
 3331Arts Chiyoda 夏休み企画「東京の多様性」参加イベント  
  進行:太田エマ(ディスロケイトディレクター)、山岡佐紀子

  内容:1.MediActionsの紹介、参加アーティストの作品紹介(DVDなど)
     2.Prilla Taniaによるパフォーマンス(インドネシアからのSkype)
     3.秋葉原散歩Mapづくりワークショップ「マッピングデート」
      報告と参加者によるトーク
     4.パブリックスペースというコンセプトについてのディスカッション
     5.ワークショップ体験 入門編「介入出会いショット(仮題)」
       ナビゲーター/山岡佐紀子 
       デジタルカメラをお持ちの方は持ってきてください。
                       PCに取り込むためのケーブルも。
         写真は10月30日〜13日の3331ArtsChiyodaでの展示に発表されます







ワークショップは、アキハバラの繁華街にでかけて、カップルや家族ずれに話しかけて、スナップ写真を一緒にとってもらうことをします。
たいしたことはないんですが、町で会った人と結べる関係の可能性についてのワークショップなんです。
でも、ちょっとお邪魔虫なので、「お邪魔フォト」というタイトルも考えました。「介入出会いショット」とどっちがいい?
添付の写真のようなこと。邪魔な感じが、ちょっと可笑しいでしょう。
これらは10月末の展覧会で、発表されます。



しかし〜。アートの意味も変わってくるよね〜、このごろ。



23.8.10

しかし、やっぱりナンセンス

個人的には、アートはナンセンスなものが好きです。好きだし、大事にしたいです。今時は、こういうのは、自分たちで企画するのが、一番。表現力を鍛える、楽しむのは、やはり、ナンセンスなものだと思うのです。アートは本当は社会に役に立ってはいかん、と思っている。それが本当の戦いだあ。
観客の方々に、社会とパラレルな、真正のアートをおとどけしたい。

それで、
そんなことを考えているはずのメンバーを集めて、始めたのが、
シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー
というイベント。会場が、シャトー2Fという場所だから、この名にしました。

略称はだんだん「マルゴー」になって来た感じです。でもかまいません。
さて、シンプルに行いたいです。11月にもあります。できたら、1月もしたい。3月もしたい。
コアなパフォーマンスアートの好きな人も、パフォーマンスアートってなんだっけと言う人も興味があったら、是非、武蔵小金井まで、来てくださいね。



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第1回 オープンワイナリー(イベント)

2010年9月12日(日) 15:00



5つのパフォーマンス作品



村井元、直方平ひろと、門倉緑、山岡佐紀子、村上裕




入場料/1500円(1ドリンク)


武蔵小金井駅より徒歩5分 小金井市本町6-5-3 


予約/問合せ missinginciyt@gmail.com




会場には電話はありません。
迷った人は私に電話を。始まっていたら、出られませんが....
シャトーというマンションの、道に面した商店部分にあります。元レストランです。
カフェがありますので、2杯目の飲み物は、注文できます。


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村井さん。長いこと知り合いですが、一緒にやるのは、初めてです。ナンセンスと言えばこの人と言ってもよいくらい、背負ったもののなんにもない(なんて言ったらおこられるか)、軽みと渋みと諧謔味が、きいた表現です。なぜか、やすらぐ。

直方平さん。ご自分で、「村井さんに似たところがあって」と言ってましたが、一見近いところがあるようで、まるで反対側な場所にいる人だと感じます。つまり、彼の場合は背負ってる。それに、引き算に引き算を重ねてゆく。ストイックなのだけど、迷いを隠さない。見る側はその迷いに引きつけられる。

門倉さん。若いのに、パフォーマンスアートの本道を歩くかのような表現をする人。NIPAF現役メンバーです。頭がよくて、パフォーマンスアートでなされるべきことは何なのか、あっと言う間に理解してしまった人のようです。技巧派であると、私は思っています。

村上さん。本人は、パフォーマンス経験が少ないと言っていますが、結構、達者です。そして「アートは政治だ!」と叫んで、わたしを威嚇しています。そのアグレッシブさと、内に隠した詩人のような繊細さが、表現の現場で、ぶつかり合う、そういう表現の人。


各人のセルフプロフィールは、マルゴーブログの各人から見てください。



以下は、村上さんのデザインしたフライヤーです。




裏は私がデザインしました。デザインてほどでもないが。