14.9.10

態度がアートになる時

「態度がアートになる時」という展覧会が1970年代に、スイスであった。それから、40年弱。その頃の探求は、様々な表現に影響したと思う。パフォーマンスアートだけではない。でも、わたしは、パフォーマンスアートを選ぶ。今は。

日曜日に、マルゴーに来てくださった方、ありがとうございました。今回思ったのは、パフォーマンスのイベントに来てくださる方たち、彼女/彼たちが、だんだん、「目利き」になって行くのと、自分の表現の成長があるのとの、連動していることがあるってこと。それって、スマイルでもあるし、「本気」で、やばくもある。なあなあの関係ではない。
観客は多くないけど、「パフォーマンスが見たい」という人が、これだけいるんだってことは、それだけで、やる意味があると思った。

それから、自分のしていることは「ある態度」なのだと思っている。音やビジュアルを時間軸に作っているのだけど、それを作り出す「態度」が、本当の「芯」。グラスを割る、ということだけで理解すると、「破壊的」な表現としか、印象に残らないかもしれないけれど、私は「メンテナンス」しながら、行う。実は、木々の葉が落ちて、それから、春が来る、というようなイメージで行っている。とはいえ、「皆殺し」的な気持もある。時間を経験するとは、なまっちょろいことではない。破壊だけでないのだ。それは、「刷新」するための「煉獄」でもある。今回、白いテーブルを会場の奥から、手前に引いたり押したりすることを繰り返ししたのは、「火葬場」の印象からだった。「弔い」とは、ただの「死」の儀式ではなく、「生」を肯定し、讃えるためだ。ここで、安易に、「再生」とは言いたくない。
無闇に未来志向に「明るそう」なふりをするのは、実は、ものごとを「ネガティブ」に考える証拠ではないかと思う。重みに、耐えられないからに違いないと思う。

コンセプトを遂行するだけでなく、「演奏者」のような感性がいると思っている。6歳から13歳まで、音楽の勉強をしていたことがこうやって生きてる。親に感謝。

今回、なんだか、脳内なんとかが出てしまったようで、きのうまで、ハイになってた。もしかして、1人でこうなってしまい、私のパフォーマンスを見た人は、ついていけなかったのかもしれないと、ちょっと心配だ。だが、一方で、ある程度、ついて来れないくらいの方が、良いのではないかと思う。コミュニティに親和的な「態度」と、それからどうしても食み出てしまう「態度」とに、左右から、ひっぱられ、ひっぱられ、定まる場所を、模索する、そのプロセスを、表すことはできればと思う。

最後に書くようだけど、今回はメンバーも良かったと思いました。「パフォーマンス」という表現をシンプルに愛している、そういった人たちとやれてよかった。


ありがとうございました。よかったら、次回も来てください。11月18日です。次回は、「パフォーマンスサファリ」といったコンセプトです。