6.8.13

図式を疑うことを、自分にも

人は、何かを考えたり、感じたりするために、図式が必要である。意識してなくても、それを使っている。
たとえば、環境に関係なく、誰にでも備わっているのが、「快・不快」の感覚だと言われている。それは、教育心理学の第一ページめあたりに書いてあることだし、世間でも多くが言っているので、あまり疑う人はいない。だが、それは、まさに「図式」である。二項対立型の図式だ。私も、特に今のところそれには異論はない。しかし、こういうことは「自然」とこの世にある「事実」ではなくて、一種の解釈だということは、謙虚に意識したい。解釈は解釈であって、決して事実のことではない。事実の見方の「一例」にすぎない。それから、一応、書き添えておくけど、図式は、二項対立だけではなくて、様々あるし、3次元的構造のものを持つものもあると思う。そして、それが悪いというのではない。なくては、やっていけないし、第一、なしでは、いろいろとつまらないだろう。

(...もちろん、原理的に言えば、「そこに石が転がっている」ようなことまでもが、だんだん怪しくなってくる。だけど、今は、そこまで言わない。一方、昨日が月曜で、一昨日が日曜だということも、今は、疑い始めるつもりはない。それは、とりあえず、お約束。)

与えられた図式の中で、能力を発揮して行く人は、いわゆる、優等生だ。ぐだぐだ言わない。個性的な考えなど持つ時間が惜しい。優等生は、図式の飲み込みの早さを競うのだ。残念ながら、私はそれにはなりそこねた。この50年間、いつもいつも、「そうかなあ」と思い続けて来たのだった。絵が好きで、美術の勉強をしたのだけれど、どちらかというと、その「そうかなあ」グセの方が強くて、絵を描くのに飽きてからもアートをやっている。あんまり、何にでもひねりすぎて、なかなか、共感はされにくいみたいだ。

しかし、この年齢(知る人ぞ知る)になると、私だって、与えられた「図式」をいくつも使っていることに気づく。特に、20世紀後半的倫理観ってあると思う。そんな「かさぶた」みたいのを、同世代とシェアしている。自分で、うざくなる。なので、まずは、自分を疑う。

何かを見て(聞いて)、なんか良いいなあと、感じた場合は、疑ってみることにしている。素直に感動できない、つまんない人みたいな感じでもあるけれど、「単純に面白い」ものが、最も怖いと思う。どこか心の怠慢につけ込まれている気がする。また、「単純に憎らしい」と感じる時もヤバいかもしれない。ストレスを何かに転嫁したいという欲望が刺激された可能性がある。というか、被害者意識を捨てたまえ。

今、私は、2つの作品の準備中だけど、すでに、疑いを、自分で突きつけている。
エラそうに聞こえるけど、正直、しんどい。でも、それをしないと、頭と心が、死んでしまいそうだから(笑)。そうやって、確信的な部分を磨こうと思う。


以下、近況的スナップ。

Open Sky 3.0という八谷さんの展覧会での写真。このような展示方法があるのかあ、と思って撮った。展覧会は、八谷氏の個人的な「夢」(1人乗り用の手作り飛行機をつくる)をスタッフや仲間と共有し(10年かけて)、さらに、展覧会という方法で、公に共有している。その方法が、「頭よくて」感心した。丁寧をやりすぎないし、親切はほどほどに。趣味と教育とエンターテイメントを手際よく、まぜてる。「個展」と書いてあるけど、「個展」に見えない。あるいは「個展」の概念を無視、あるいは、わざとずらしている感じ。こういう傾向は、最近、少なくはないね。@3331

作品の見せっぱなしは、むしろ、罪だと思う。



先週のバクスイレンというイベントで偶然見つけておとずれた「Hane-cafe」というカフェにて。旅客機マニアの人が開いているカフェらしい。奥には、ルフトハンザのグッズがたくさんが、祭壇みたいに配置されて展示されていた。壁にもいろいろ。それらは、撮影禁止だったので、このコーヒーだけ、撮った。


「社会にエンゲイジしていくアート」(菊池宏子さんのトーク)というイベントで紹介されていた洋書。表紙には、単にアイデアを形にしたり、表すだけではなく、それを「コト」にしてゆくのが、アーティストのリアルなチャレンジである、と書いてある。読みたいけど、読めるか? @アート&ソサエティ

自分の家とスーパーマーケット以外で、バナナをみつけたら写真を撮ることにしている。@国分寺駅