28.2.09

棺写真解禁

   新聞を見てとても気になったので、ネットなどからもとりました。
イラクとアフガニスタンで死亡したアメリカの兵士の棺の写真撮影は、これまで禁止されていたんだそうですね。
 ところで、なんていうか、私には、おいしそうなお菓子のパッケージに見えてしまう。アメリカの国旗が、いつもそういうものに見えるわけではないけれど、箱になっていると、商品みたいに見える。きれい、かわいい、おいしそう。マカデミアンナッツのチョコが入ってそうだ。大きさの体感覚がないせいもあるが。皮肉ではなくて、そういう印象。新政府の意図はどういうものか、と賛否両論だそうですが、こちらの問いには、どう答える? 
 ちなみに、これまでの戦闘で、米兵の死者はアフガンでは580人、イラクでは4200人だそうです。ヒーローとは呼ばずにきちんと犠牲者と呼んで欲しいと思います。イラク、アフガン側の犠牲者のことも忘れずに。




26.2.09

昔の作品

いかにもパフォーマンスアートくさい写真。かたづけものしていたら、出てきました。2003年、ポーランドはクラクフ。アルトゥール・タイベルが撮ってくれた写真。後でCD送ってもらっていたのけど、当時のわたしのPCの環境では、見られなかった。で、しまいこんでいたものが出てきた。



















机の上には、ゴムの耳と、剥いたオレンジがおいてある。見分けがつかない。後ろのドレスは、作品『ガーデン』用の衣装。続けて、ふたつのパフォーマンスをやったのだ。というかひとつの作品として。
コンセプト、忘れてしまいました。たぶん、痛みとか、傷とか、そういうのだったと思う。壁を、どんどん叩き続けたりした。手が痛みで腫れ上がってしまうまで。ははは。
だから、なんなんだ?と今は、思ってしまう。
身体ということをテーマに考えて、ベタなイメージに陥っている。
口にまいている絆創膏が、まるで、大韓航空機爆破事件のハチヤマユミみたいだね。
たしかに、オレンジ系のいろの、身体の袋みたいなものをいくつか、例示したり、壁を叩く音は破れる音を連想するので、その表面感覚と中味の生な命の感覚を出したかったのではないかな?  まじめだし、わかるけど、やはり、それだけではだめなのだ。 

まあ、とにかく、体力余っている時は、自分を傷つけてみたいものなのだよ。楽しすぎる時とか、ね。

今は、そのスピードの調節に関心がある。ゆっくりであればいいというわけでなく、勢いがあればいいというわけでなく。多重的な色彩を持つ事ができればと思っている。
小説なんかが、今は、参考になります。

21.2.09

未来派100周年

きのうは、未来派の宣言からちょうど100周年。お祝いイベントがあちらこちらであるかもしれない。でも、あまり聞かないね。
何周年とかそういうのが、結構好きな私である。友達の足立さんが、イベントを企画していたから、でかけていった。結構、楽しかった。 未来の100年祭ということ自体が、ねじくれてていい。電子楽器が、うねったけど、それほどハイテクを誇っている感じはない。等身大でわかる(殺し合う)範囲の、第一次大戦前の戦争って感じだ(?)。
足立さんのつくった未来派料理はおいしいとはいえなかったが、文献どおり作ったらしい。それでいいのだ。未来派って、ポーズばかりで中味がついていってなかったというから。例の犬が、ばたばた歩いている絵のばかばかしさが象徴する。動いてるってすご〜い、ってのだ、つまり。ところで、100年後の現代は、メディアアートが、国を挙げての売りの売りだ。そういうのの、今、まさに楽しくて楽しくてしょうがないのよん、という感じの、イキのいい若い夫婦アーティストも出演していた。新技術って、もう動いているだけで面白くもあるし、その技術が当たり前になれば、ばかばかしくもなるというのが、そういうものの宿命。旬を走る。
写真は、前にも出したけど、見れば見る程へんな、くしゃみマシーンと化した人物の写真。一瞬を捉えた写真だから、おかしいにすぎない。ビデオから、撮った静止画像。すぎ花粉で、今は、一日に何度もやっておる。

20.2.09

ジョグジャフェスティバルDVD

ついに、一昨年のパフォーマンスフェスティバル”Perf"urban"ceの記録DVDが発売された。その前の年のインドネシア地震の被災地のひとつである、ある小さな村でのアートフェスティバルの記録だ。表紙写真は私の作品だから、是非、手に入れたい。国内でも、ポストカードを作ったので、知っている人は、あああれかとわかるやつです。毎日、村の女性たちの作ったおいしい料理を朝昼晩と食べたのが、思い出される。学生たちが、楽しそうに働いていた。ギャラはないイベントだったけど、こちらからの出費も航空券だけだ。村で手に入るマテリアルで、作品をやってくれというオーダーが気に入って、参加した。わたしが使ったマテリアルは「村人たち」と「村人たちのアイデア」だった。
 最近の他のインドネシアのパフォーマンスフェスは、海外からのアーティストが、村にお金を落していくことを目的にしているのではないか、と思わせるものがあって、せちがらい。欧米の人たちにしてみれば、リゾートに行くような感じなので、抵抗がないかもしれない。日本人だって、バリといえば、最大の観光地だからね。でも、わたしは観光ぎらいだから、関係なし。

DVD は、送って来て欲しいところだが、ジョグジャだから、そうもいかないのでしょう。
もし、欲しい方は、連絡を。伝統芸能系も入ってます。ガムランとか、少年がトリップしてしまう踊りとかね。
まとめて、購入しますよ。

18.2.09

切り株から解放されそうだ

   父はまるで、とがった切り株に身体がひっかかって、動けなくなった、動物のようだった。直前まで、跳ね回っていた鹿。それは2ヶ月前。突然。
すぐに外せると思ったのに、どうにもならなくて、だんだん、弱って、心臓も止まりそうになったし、食べ物がのどを通らなくなっていった。声も消えた。一週間半くらい前は、生ける屍みたいに見えた。右手の指だけをわずかに動かして会話した。ただただ、ゆっくり拷問にあって、殺されかけているみたいだった。それが、一週間前から、だんだん回復し、まだ、口から食べられないけれど、顔に赤みが戻る。会話が可能というほどでもないが、声は出るようになった。点滴がはずれたし、緑膿菌というカビとも縁を切ったので、あした、車いすにのって少し、ベッドを少し移動するらしい。切り株から外れる瞬間。

   きのうのパフォーマンスでの5人セッションは、5という数字から、わたしはペンタゴンを連想した。アメリカのことが頭から抜けないのだろう。
 ペンタゴンは、大きな組織だけど、関わるのは、ひとりひとりの個人である兵士である。
 「ペンタゴン」と言う言葉の発音が、日本語の、タマゴに似ていることから、さらにタマゴを私は連想した。それで5つのゆで卵を持って行った。結局パフォでそれを使ったのは、直方平くんだったけど、それはやはり、とても、タイミングが良かった。

同じ日、エルサレム賞で、彼は、卵を人ひとりひとりの命に喩えた。タイムリーだね。

極東の小さな劇場の権力にも、潰されるような卵(明かりがついたら、2つ潰れていた)のわたしらが、何をやっているのかと思うけど、.................とにかく想像力に乾杯だ。予言になればいいのだけど。

まあ、問題は山積み。

17.2.09

レンタルシャワー形式

 さて16日(月)のパフォ。良かったか悪かったよくわからないが、とりあえずやった。うれしかったのは、私が出したアイデアで、他の4人が何か共有、シンクロできるように様々なネタを用意してくれていたこと。突拍子もないのではと思ったのに、皆の心に、ぴんと来るものがないわけではないかった、というか、あったようだということだ。このことはすばらしい。アーティストどおしのセンスの協力はいいものだ。
 だが、20分経つと、開場は勝手に暗転にされてしまう。レンタルシャワーみたいなシステム。ニパフだって、15分が持ち時間と言われていても、実際のパフォーマンスを、途中で切ることはない。その上、今回は、かなりたくさんの観客がいて、アーティストからも参加料をとっているので、たぶん、企画側は儲かっているということがわかった。わたしたちは、5人で割っているので、ひとり2400円ですんでいるけど、ひとりで踊った人は、なんとしてもチケットを売らないと、高い買い物になる、という寸法。わたしたちは、暗転のあと、ゴミを拾うのに忙しくて、観客に挨拶もできない。ゴミもほとんどは、わたしが作ったんだけど。パフォーマンスのあとゴミが少々残るのは、わたしの常識なのに、紙くずひとつでも、舞台監督が難色を示した意味がその時わかった。
 おこっちゃいない。感心するのである。これは、パースペクティブエモーションの時間制限とは、意味が違う。結局、フライヤーは、手元に来なかったので、今日、記念に持って帰りました。

 ところで、他のアーティストのパフォーマンスの仕方に面白いものを感じた。たとえば、なんか、じらすんだよね。すかして、じらす。面白いところは、是非、学ばせていただきます。
  

せっかくアイデアで共有できそうなので、次回は、時間制限のないところでやりましょうということになる。どこまで、共有できるか。

16.2.09

対立ばかりでなく

添付のものは、イスラエルで行われる、ユダヤ人とパレスティナ人のアートの交流展。小さなものだと思うし、絵画も民芸品もグッズもごちゃまぜのものだろうが、現地ではこういう努力もなされているのだろう。イスラエルの友達、アディーナから送られてきたinfo。写真に写っているのは、彼女。
イスラエルにいるイスラエル人と、ネオコンのイスラエル人は同じユダヤでも、当然、違うセンスの中にいる。混ぜてはいけない。

15.2.09

パープルハート

月曜日の神楽坂ディプラッツ「畳半畳」(開場19:00 入場料2000円)のために、ペンタゴンのホームページから、最近の「ヒーロー」を5人ほど選び、その受賞理由を翻訳した。彼らがいかに勇敢で、奉仕の精神に富み、かつ、普通の人でもあることが書かれている。けっこう笑ってしまうものもある。兵士をたたえるキャンペーンだ。専門用語らしき単語もあったので、ちょいと面倒だったが、超訳もあり。これを読む若者は、軍隊に入りたいと思うのだろうか?
パープルハートと言う言葉を覚えた。名誉の負傷と言う意味らしい。写真はパープルハート勲章。LSDの名前でもある。

その5つのエピソードを他4人とのパフォーマーとの関係で効果的に使えるかどうか、それを考えるのが明日の仕事。単純な観客には「反戦思想」と思われたり「ウヨク」と思われたり、わけのわからないやつになりそうだ。だが、「そのまま、ずばり」がきらいなわたしとしては、どうしても、そうなる。
他の4人への迷惑にならないようにそれも配慮する。
なぜか、サエグサさんは、「ありがとう」を大きな声で歌うそうだ。どういう意味になってしまうのかしら。マキメさんが、世界各国の国歌のCDをかけたいと言ったことには、わたしなりに丁寧に、思いとどまってもらいたいとメールに書いた。そうすると前世紀的になってしまいそうだから。相良さんは、いつもどおり、とても優雅なんだろうか。直方平君が、決めてくれるのかな。

まあ、このようにポリティカルなものへの態度がまちまちで、おずおずしているものは、日本でしかやれないし、日本ならでものものかもしれない。
その五角形は、最後に6角形になる。六つ目の地点でわたしは何を行おうか? あくまで、美術。エンゲキでもダンスでもないことで何ができるか、がミソ。

谷中の時みたいに、呆然とするだけのお客に会うのかと思うと、悩んでしまうけど。


しかし、やはり、いきあたりばったりにイベントに参加していると、自分の方針が見えなくなるような気がする。短いエピソードを作るというのが、わたしの一つの技術だけど、やらなくてはならないと思っているのは、違う事のような気がするんだ。これは、日本の観客に慣れる経験といったらいいのだろうか。

10.2.09

web改修工事

私の作品や活動のホームページ
改修工事しました。
2008年の活動について、ちょっと詳しくしました。こちら
古いデータよさようならです。物好きな人は楽しんでくださっていたかもしれない「竜巻プロジェクト」「ガネーシャ商会」はwebからは消えました。
か〜。そういう季節です。人生の改修工事です。
何せ、前世紀末のホームページ作成のソフトなので、ばかなことに時間がかかります。その上OS9にしか使えないので、やはり、前世紀のPCで作業します。早く、GoLiveにしたい。

音楽のカセットテープのコレクションも、何回かに分けてゴミにしております。お部屋の物たちも重すぎて、新しいものが入りません。で、処分です。頭の中もそうできると良いのだが。

今月16日に畳半畳に出ます。また、詳しく書きますね。ダンスとパフォーマンスアートを同時間同場所で、ひとつの上演としてやるなんて、強引です。アート系パフォに欠かせない「コンセプト」「構図」を持ち込む予定です。

今日の画像は、昨年とても美人なお客さんが買って下さった作品。今は、練馬区のある新築のダイニングに飾ってあるはずです。

7.2.09

夢の私の町

 たとえば、昨年訪れたトロントでは、オーガナイザーをしているアーティストたちは、少なくとも20年くらいはそのダウンタウンに住み、お互いずっと顔見知りで、たとえば10年前にこの店は彼女の画廊で、その地下に彼女は住んでいたんだよ、僕は向かいのビルの4階でボーイフレンドと暮らしていたんだ、とかなんとか。ボストンでも、みな20年から30年はその町に住み、ともに、アートの場所を作ってきた。地元の様々な分野の人たちと連携を持ちながら、独自のイベントをいろいろとやっている。
 チェンマイやバンコクでもそうだった。うらやましい。ケルンもデュセルドルフも安い家賃で、アーティストにスペースを貸している。それは町にアーティストを呼び込むためだったそうだ。日本でもたまにそういうところがあるが、関係者のコネがないと入れないのが、現状。その上、2年くらいでやめてしまう。祭りをやりたいだけらしい。

 わたしはわたしの町が欲しいと考えていた。アーティストと呼べる人たちが、わくわくと活動している町を、夢見ていた。むずかしいゆめばかり見てきたようだ。
 もう、きっとわたしには、それは、みつからない。動かなくなった父の左手と同じだ。もしかしたら、声も失うかもしれない。寝たきりになるかもしれない。だからって、その代用を簡単にみつけようとも思わない。滅びたって、自分の感性を崩すようなことはできない。父は、あいうえおの印刷してある文字盤を、右手の指でなぞる方法で、ギャグをかましてくれる。残念ながらスピード感がないが、おそろしく鈍いのが、またとてつもなく、おかしい。

 わたしも、ある意味、そういうふうに、生きることにしました。自分のやり方を通すということ。不具ならば、不具としての武器を使って。

2.2.09

人物が描かれた絵

最近、パフォの新作がないから、すてきな画像がアップできない。それで、ちょっと古い、パンツの子、の絵をアップしておきます。2006年に描いたものです。

 今日は、絵を描くのに、妙に没頭したけど...........よくわからない。ものすごく、くだらない時間を過ごしただけかもしれない。ちょっと休んだ時に見たくなる絵は、春信か、あるいはインドの細密画。なんていうのか、絵が絵である理由と言うものがそこにある。というか、線がくっきりしている、変な格好をしている、ということで、参考にしているんですが。
 春信の画集の解説を見ると、芸術の解説ではなくて、骨董的なのりなんだな。エロっぽいとか、どうとか。ふ〜ん、という感じ。芸術と骨董。実は大して変わらないんではないかと思う。言葉にしたときに、違うことを言っているだけのことではないかな。私は他に、クレメンテも大好きなんだけど、彼のことは「彼はありとあらゆる宗教に通じていて........」なんて解説されていて、すごく高尚かのように言われているけど、どうなんでしょう?ピロスマニはどう?
絵に描いてある人物を見て、人が感じることって、そりゃ、人によって違うだろうが、高尚でもあり、下世話でもあるのかと思っている。その両方に、またがりたいなと、図々しいことを思う。両方の要素を持つのではなくて、なんていうか、ななめにすっとばしたい。