29.1.10

ハイなテクではなくて

ようやくSkypeに登録した。ゴトウ君が、さっそく、かけてきてくれた。ありがたい。でも、映像が映るのが、どうしても納得できないので、私のPCのカメラのところに、ガムテープを貼った。ゴトウ君は、一応、こっちを向いている感じで話してくれていたが、見えないんだよね、悪いけど。こちらを見せることは、当分できない。嘘くさいセットを背景に作り、お面を被ればできるかも。屋外ですればいいけれど、わたしのPCは動かない。iPadならね。

デジタルデータのしまい方に、まだまだ、工夫がいる。バックアップとったものが複数になったりして、しくじる。MOのころは、すべてを把握していたけれど、CD、DVD、ハードディスクの時代には、どこにどれがあったか、あやしくなる。毎日のようにすべてを確認していれば、頭に入るかな。何が理由で、頭に入らないのか、わからない。MOのころより、頭が悪くなった?
目にみえないけど、MOよりも、バーチャル度が高い気がする。

けんたろうレシピで、クリームシチューをつくる。ホワイトソースなんか作らなくても、クリーミーになる、ミラクルな方法。冷えると、固まり度が高くなる。なんども火を通すと、劣化する(劣化?)。バターは使わないから、カロリーは低いと思う。

データ資料から出て来たなつかしいもの。TAKAKO SAITOさんのチェスのパフォーマンス。飲み物のはいったコップがチェスの駒になっている。何かルールで、時折、サンドイッチを食べなくてはならない。TAKAKOさんは、ものすごくまじめな人ですが、ユーモアたっぷりな作品を作る。フルクサスのメインメンバーのひとりだ。もう80歳になっただろう。デュッセルドルフに30年、ひとりで住んでいる。あまりにも芯の強い人なので、思い出すと、せつなくなる。いろいろなことや人を拒否しているけど、本当は、愛し合いたい気持ちでいっぱいな人なんだと、わたしは思っている。特に、母国に対して。

写真をカメラで撮った写真なのでぼけている。

28.1.10

ハイなテク

ノロジーが好きです。
自分の表現では、ほとんど使いません。映像プロジェクターは使いますが、映像程度のものは、わたしは、ハイなテクノロジーと呼びません。だって、映像はずっと前からあったじゃないの。もちろん、デジタルと、フィルムは違うし、逆に、利用者としては、デジタルの方が、ずっと安易なので、わたしには、単なる、メディアです。メディアアートという言葉は、あいまいすぎますね。
わたしを刺激するのは、構造的なこと。私の頭では、限界があるものの、現実の重さを持たないで、理論的に、動くモノを考えるのは、頭が、かゆくなるほど、気持ちいい。頭の体操として、好きです。

(でも、くだらないミスをやらかしたるするのよね、デジタルも。電源入れ直すと、直るようなことって、ばかっぽい。)

.........iPadが出ました。使いたい。ミーハー。

..........ところで、2月の中ごろから、C&Mの展覧会が多摩美であるのですが、そこの解説にiPodを使おうと思う、とゴトウ君が言いました。面白そう。うまく機能させられるかな。

...........お葬式にやってきて、久しぶりに会ったいとこが、富士通の技術部かから、NTTに転職しているらしく、うれしいです。インターネットの話がもっとしたかった。

...............昨年は1年間、ぼうっと暮らしていたため、様々なデータのバックアップを、今日ようやくしています。しかし、「CDの寿命は、10年とも100年とも言われています」と言うのは、本当に、困りますね。ええ加減すぎます。やはり、プリントしておくのが、正しいのかもしれません。動画は、テープに? だが、テープを動かす機材もなくなってくるらしい。困った、映像。ハードディスクは、どれほど信用できるのか。皆さんはどうしていますか?
あとは、インターネット上の記録が、確実かもしれません。Youtube より画質よくアップできれるところありますか?


関連別件。
思いがけず、刺激を受けたレクチャー。緒方洪庵出て来ちゃうからね〜。パフォーマンスも芸を楽しんでいる場合ではないと思っている。というか、これからな芸。


27.1.10

ペラリ

今日は、仏壇屋へ行った。わたし自身は、宗教に関心大だけど、宗教ビジネスをどう考えたらいいのか、わからない。なくていいとまでは、言い切れない。
人が死ぬ瞬間を見てしまえば、どうしても、物質主義にはなれない。何か、とてつもなく、センシティブなことを知ってしまい、どう、心に落ち着けたらいいのか、まだまだ、わからない。「社会」の制度に、この重さの一部を、肩代わりしてもらいたい気持ちがある。

.......ご本尊は、「サービスします」ということで、ただ、だった。画集の仏画よりも、ずっとちゃちな印刷物がペラリとあるだけだ。これに魂を入れるなんて、ほとんど、信じられない。こっそり、わたしの絵にすり替えておこうと思う。たぶん、そのペラリの後ろに仕込んでおいて、あとから、ペラリを取り除く。わたしのいれた魂と、お坊さんの魂が、お経のパフォーマンス時に、戦うのだろう。まずいかな。

ずっと前、好きだった南米の映画『南東から来た男』を、どこかのサイトから、友達Hがダウンロードしてくれて送ってくれた。20年ぶりくらいにちらりと見た。当時、本当にミステリアスに見えた主人公の男が、今回は、単なる気違いに見えた。むしろ、映画を作った側の意図とか、そんなことが気にかかる。フィクションはフィクションとして、見るくせがついた。それでいいんだけど。つくられたイメージが、大事なのではないということです。

......関係ないけど、友達Oに勧められて時々見ているブログ。アメリカ批判的ウオッチュアーという人でしょうか。そうとう厳しく批判する拳をあげ続けておられるが、「期待」がないと、ウオッチャーもしていられないだろう、とも思う。

...... わたしは、人間の話ばかりする人がきらい。疲れる。

25.1.10

キリストの身体

友達のKが、引っ張り出してくれたので、今年、はじめて電車に乗ってでかける。写真美術館で、チケットを3つ買い、たくさんたくさん写真や映像を見た。それから、多摩美に行って、また、写真や映像を見る。C&Mの若者たちの作品も、楽しむ。

その帰りの副都心線の中で、没頭して読んでいたのが、『キリストの身体 血と肉と愛の傷』(岡田温司著、中公新書)。図像や彫刻のキリストのイメージについて、西洋宗教史、美術史の文献から、読み解くもの。穢れと聖は対極でありながら、同じであること。あるいは、相殺しあうものであること。エデンの園での禁断の果実を食べるという禁断、負の食の遺産である「原罪」は、キリストが最後の晩餐で、パンを示しながら、自分の肉であると言い、それをわけ合って食することをすすめたこと=「聖体拝領」によって、ひとまず、帳消しにされるのだそうだ。それは、教会における聖体拝領と同じといえる。さらに、葬式での会食は、死者にはできないことを、選ばれた生者が共に行うことで、共同体の結束を固める。するとこの場合、帳消しにされたのは、何だろうか。いかなる罪か? 

 そんなことを読みながら、降りる駅に着いて、あたりを見回すと、生きて動いている人たちのすべてが、実体のない幻に見えてきた。写真の見過ぎか? すべて、映像、画像の世界のもののように見える。皆、わたしに背を向けて、ランダムな動きを止めない。皆、私の頭の中で、勝手に動いているイメージに過ぎないように見えてくる。どの人もいずれ、身動きをしなくなり、腐敗をはじめるまでの、束の間の、一瞬の出来事を、目撃しているような気がしてくる。そして、それは、たぶん、思い違いではない。

帰って、机におかれていたので、開いた本『人間というこわれやすい種』(ルイス・トマス、晶文社)は、ニューヨーク大学の病理・医学者によって書かれた医学エッセイ。ここでは、「脳は、この宇宙で最も複雑で精巧なものであり、おそらく宇宙そのものすらもこの中に含まれているかもしれないのだ。実際、宇宙じだいが脳なしには、存在しえないと考える人々がいる。つまり、人間の脳が実在であると知覚するものだけが実在なのだ」と書かれていた。

本は適当に手に取って、開いているだけである。それらは、わたしにしきりに、メッセージを送ってくる。



以下の写真は、全く関係なしだが、Facebookでの最年少のmy friend、クロアチアのMikota。8歳くらいだったかな。日本のアニメファンなのだ。ナルトとか、遊戯王とか。さて、写真は、何屋の前だろうか。マメ屋? 種屋?

24.1.10

絵を描いて、魂入れず

まだ仏事から、逃れられない。魂入れというのは、「墓」「位牌」「仏壇の仏像」の3種類があるそうだ。ちょっと、わからない。仏像は、作った人間が、魂を入れればいいような気がする。セットで、七万円。モノより、パフォーマンスに値打ちがあるらしいよ、この世界では。

絵を描いて、魂入れず。


夕方、葬儀屋の営業マンがやってきて、一時間30分話し続けた。息継ぎがなかったような気がする。聞いていた、母は、目がまわったと言っていた。
感じが悪かったわけれはないけれど、たばこ臭いので、こちらは、息を止めがちだったため、わたしも酸欠になった。
「ええ、競争に勝たなくてはなりませんから」と、言っていた。わたしが、あれこれと、聞いたし、いろいろなことも教えてくれた。「.....で、そのサービスのメリットは何ですか?」の問いに、つい、答えてしまったようだ。そして、すかさず、言い直した。「サービスというより、ケアですね」

働き過ぎだと思う。過労死しなければ、いいのにと、お帰りになる、後ろ姿に、お祈りをした。

22.1.10

子象

銀行、JCBカード、保険などの変更手続き。こういう場合の銀行とのやりとりには、コツがいるらしい。資産があるわけではないから、凍結はそれほど、怖くはないはずだけれど、随分、いろいろな人に、脅かされた。まあ、凍結という言葉の威力にやられるんではないだろうか。たぶん、うちの場合は、面倒なことが増える、という程度だろう。それでも、それを最小限におさえるために、注意深く、振る舞う。
各種公共料金、税金の払い方の変更などを時期を計算しながら、行う。家財保険も、資産だとは知らなかった。
などなど。疲れる一日。いらだつ母.......長年愛用したカードを破棄しなくてはならないのも、案外大きなストレスだ。

以下、友達がメールで送ってくれた写真。かわいいから、意味ないけど、のせる。


未来はあっても、なくて、今日は暮れる。

インターネットライブ念仏

ライブ念仏
あるそうです。おもしろそう。

浄土宗。法然上人800年大遠忌。

21.1.10

ソーシキ。

.........伊丹十三が感じたようなことを、感じるのかな〜と思ったら、そうでもなかった。
時代もあるかもしれない。

来て下さった私の友人の方たちに感謝。ありがとう。




香典返しのリストを作る為に、エクセルを起動した。同じマンションの人が、40人も来ていたのに、驚いた。地域社会は、やはり、強いのかもしれない。遠い親戚より、近くの顔見知り。





ひさしぶりにパソコンあけたら、せっぱつまった用事が一杯になっていた。たは〜、明日からのことで、頭がいたい。

17.1.10

決め事の本質 2

きのうの日記を書いたら、メールでコメントもらった。

「日本は、殺人が減って、自殺が増え続けている。他人と協議せず、自分ひとりで、決め事をしてはならん。」といったようなこと。確かに。わたしが、へえと思った2人の先輩の(先生も大学の先輩である)意見である「結局、人がどう思おうと自分で決めたらいいのだ」という言い方の危うさを指摘している。たしかにそうだ。

 わたしも自殺系の人間だと思う。相談しても、思うようでないと、無謀でもひとりで行ってしまう。というか、相談にのってくれる人など、いないしね。「ん〜、それは自分で決めてくださいよ〜」という返事が聞かずに、聞こえてくる。そういえば、昨日書いた、先生の口癖は「それは、あんたの問題でしょう〜」だった。

 たぶん、人は、自分に相応しからぬ社会にいると思えば、相応しい社会を探して、そちらにゆこうと努力する。だが、それがかなわぬ時に、自分では相応しくないと思う社会に居続けることになる。しかし、そこの社会の「のり」をはずすと、強力な抵抗にあい、孤立する。その時に、自分の理想を捨てれば、あっさり、生きやすくなるのだろう。もしかしたら、死ぬのさえ、楽になるかも。その社会のためなら。

理想を求めて生きることは、それほど大事なことではないのかもしれない。生きることで、学ぶことは、もっと違ったところにあるのかもしれない。

 ところで、きのう書いた「あれ」という決め事は、その社会で「あの人が決めるなら、それで良いだろう」と思うような人が、大事なことを決めてゆくシステムのことを言う。それは、権力者であったり、年長者であったり、その道の専門家であったり、人気者であったり、根回しの上手な人であったり、霊能者であったり、する。その決めた内容が、「大正解」かどうか、ではなくて..... というか、正解があれば、それにこしたことはないけれど、正解のないようなことに関しては........ 決断をあずける存在を求める、ということ。

 人は、事実のすべてを知らされたからと言って、自分で、それを解決できることは、めったにない。むしろ、知ってしまうとかえって、動けなくなることも、多い、のも確かだ。なので、「他の力」というものを、使う、というのが、昔の人の知恵なのだろう。

「あなた決めて!」と、言えるようになることも、大事なのかもしれない。人を信頼する力、今こそ。

と言ってみる。.......しかし、日本の近代史が、それを、しにくくしているのだ... と思ってしまう。..........

16.1.10

決め事の本質

ずっと前の話。大学卒業して1年め。民俗学の先生の家に、住み込み弟子入りしていた時、2〜3年先輩の人が、1年間の農家弟子入り暮らしをして帰ってきて、先生に報告がてら、遊びに来ていた。その時の話で、印象に残ったのは、「結局、何が正しいかではなくて、自分でどうしたいか、になってくるんだよね」と、先生の言葉。先生と言っても、まだ40歳になったかぐらいで、今の私より、若いんだが。

なんの話かというと、彼は、世話になった農家で「これはこういうもんだ」とか「あんたこうしなさい」とか、様々なことを教わったり、叱られたり、指導されたりしてきたわけだ。一般にそういう場合、「様々なことを教わりました。大変、勉強になりました」ということになるのが、正しい結論なのだと私は思っていた。だが、先生とその先輩の男同士の話では、そうはならなかった。「様々なことを学んだ。しかし、自分で良いと思うのは、自分で決めるしかない」だった。今にしてみれば、当たり前だけど、「正解」が、どこかドリルの巻末にあるみたいな経験の中で生きていた、子供のわたしには、ちょっとショックだった。(今どきの子供はもっとませてる?)

そして、今、思うのは、もう一つ先。たとえば、社会。たとえば、グループ。たとえば、家庭。何か、みなで相談して決めなくてはならないことがあった場合、ベストの答えをどう出すか。最も、愚かな決め方は、多数決、あるいは、平均値。結果的に、何も決めてないのと、同じことになる。何も、進展しない。退屈、つまらない。では、どうするか。

正解はないが、方法は、あれ、ということになる。

宮本常一先生の(私の先生は、その弟子)の、『忘れられた日本人』に書かれていた、ある離島での会議の仕方。各部落の有力者が集まって、結論を出す、出し方。その本質が、かつては、なかなか、わからなかったが、今は、わかる。

.......ははは。
まあ、そういうことだ。もっと早く気がつきたかったなあ〜。

写真は、昨年9月13日のパフォ。写真は芝田文乃さん。

15.1.10

この時期、亡くなる人が多いので、斎場の予定がつまっており、約1週間ほど、父の身体をこの世において置かなくてはなりません。エンバーミングという技術で、腐敗が進まないようにして、葬儀社の霊安室(というのかな)に、預けています。きのう見てきましたが、大変、見事な技術で、まるで生きている感じがします。
でも、わたしには、抜け殻に見えます。だんだん、壊れてきて、父を苦しめた「容器」という印象があります。なので、むしろ、憎らしいです。
また、父の気持ちを形にするための筋肉と皮膚と血でもあったわけなので、それが笑顔になって動き出すのではないか、と期待してしまうのも、正直なところです。

今、祭壇に飾る写真の処理をしています。できたら、わたしが用意できたらと思って、フォトショップを駆使中。四つ切りサイズで、持ちそうな写真は、普通の生活をしている人には、なかなか、ないですよね。それを、それらしく、するには、プロにおまかせした方がいいのでしょうが、やってみます。

姉や母、それから、父の友人や近所の方々との会話で、「失った」モノが、人によって、かなり違うということがわかります。

また、「苦しんで死ぬ」ということの、残酷さには、今だに、不条理に思い、辛い思いを止めることができませんが、葬儀に向けての準備ではいろいろな人の、協力やあたたかさを感じてすばらしいし、そして、すてきなセレモニーにしたいという気持ちがあり、私は、決して気がふさぐことはありません。こんな時に、「縁起が悪い」という言葉が、様々なシーンで出てきますが、私は、あまり、意味がしっくりしません。「悪い」ことではないと思うのです。

裸になった魂には、魔物がつきやすいようです。その魔物が、生きている人に何かすることもあると思います。その意味で、気をつけなくてはならないことがいろいろあるようですが、それを気をつける行為が大事だと、わたしは、個人的に思います。

また、わたしは、でかける時は、黒っぽい格好を心がけていますが、そういう意識は、あまり意味がないと、姉は言います。会場で、喪に服せばそれで良いと。


これは、文化の違いですね。
身近の人との文化の違いがあるところが現代的だと思います。

12.1.10

REST IN PEACE

血の薄い順に眠たくなるお通夜


父の名作のひとつ。これを、お通夜で飾ろう! と約束していたけど、父はどこまで、本気なんかな。やっていいのかな。

18日 午後6時 お通夜 
19日 午前9時半 告別式

やすらぎのさと 川越駅からタクシーで5分



赤い点が、わたしの後ろ姿。見ていた人がまだいたとは。クロアチア、スタグリネツでのパフォーマンス。南下1時間、そして1時間北上するというデュレーションパフォ。途中に何があろうと、一直線に歩く。これは、南下中。これをずっと見守っていた、クロアチアの観客に驚く私。しかも、半年後に送ってくる人がいるというペースにも感動。

11.1.10

REST FROM LIFE

心電図に乱れが出て来たので、ご家族を御呼びしてください、と看護師さん。で、どよどやと、孫たちがやってきた。うんとお別れの言葉を言った。きのうは、わたしと姉が、病室に寝た。ところがどっこい、息は続く。ふふふ。

10.1.10

どんな状況でも変わらない性格

あと1日でしょう、言われて、4日目を生きている父である。きのうの夜中、息の速さが変化するたびに、私はナースステーションにでかけて、モニタリングされている父の心臓のペースをチェックした。こんなに人間の息を気にして聞き続けたことは、わたしのこれまでの人生にない。一応、わたしも簡易ベッドに寝ていて、能天気な夢を見たりしているので、ずっと起きていたわけではないのだけど。

朝になって、看護師さんが、呼びかけても、まるで反応がない。目はあくので、その前に、手をかざすが、反応がない。ついに、昏睡か?と思ったが、試しに「おと〜っさん!もし、聞こえていたら、目ちょこっと動かすだけでいいから....」と言ったら、言い終わらないうちに、まぶたが動いた。わたしは、「なんだちゃんと聞こえてるんだ!」と、ワッと泣いてしまった。そのあと、腕やら、足やら、さすってから、さあ動いてみて、と言うと、少しずつ動いた。..........  私は、うれしかったが......

たぶん、父は、わたしへのサービスで、やっているだけである。いつも「律儀〜」と私に言われていて、「そうおれ律儀」と言って笑ってた。耳しか聞こえない状況になっても「律儀」は変わらなくて、必死の力を振り絞って、動いてくれているのだ。父にとっては「動く」ことなど、すでにあまり興味がないと思われる。結論をすぐ出してしまう、せっかちの父には、「ちょっと動けたからって何にもならない」。それでも、娘が喜ぶのなら、動いてみせる。それが、うちの父。あと何時間、何日そういう人に会っていられるのか、わからないけど.... 

同じ人はふたりといないって、陳腐だけど、ほんまやね。

9.1.10

新芽

夜中から、朝にかけて高熱がでれば、明け方あたりが危ないと、先生に言われていて、そのつもりで、一晩、父の脇にいた。確かに高熱は出たけれど、無事に朝を迎えた。姉は始発でやってきた。
父が、1年前にどれほど、元気なじいさんだったか、お医者さんは知らないので、年齢と数値で、そう思ったのだろう。1日のびるか、2日のびるか、の違いでしょうけど。

家に戻って、ベランダを見ると、もう終わったと思っていた、バラ(モスクワフォーエバーと言う名)に、新芽が出てきている。驚いて、日向に移した。

端から見ると、ただただのんきそうに見えるが、芸術家って、かなり過酷な競争社会にいる。人並み以上の生命力と知力と運(と、もちろん、創造力)を持っていなければ、どうにもならない。成果が何なのか、はっきりしないし。それと比べれば、やっと生きているという状態って、とてつもなく、離れているようだが、近いような、遠いような。..............たぶん、何かがとても近い。説明できないけど。


写真は、シバタアヤノさんから、最近届いた写真。なんかとても、新鮮。

8.1.10

初川柳

父の状態が大変悪いので、病院に泊まったり、日中もつめたりしています。田舎の病院なので、インターネットできません。できても、わたしのPCはノートではないので、だめか〜。仕事ができなくて、困る。今、抜け出してきて、ちょっとするところ。


父が、まだ、意思表示が少しはできた時に、姉や姪といっしょに、川柳を作りあった。


年明けて鏡に映る夢の餅

年男寅の威を借る小心者

老妻の七草粥の変わらなさ

病室が初川柳で盛り上がる



今は、1ミリくらいうなづくことができる。

2.1.10

エラ

朝。歩いていたら、えらく、エラの張った子猫を2匹見た。
午後。暮れからのばたばたで母は書きそびれた(私も)のにかかわらず、たくさん年賀状が来ていた。母は、「返事を書くので、トラの絵を描いて」と、私に、注文。
以下がそれ。こんなんでいいんでしょうか。
猫との違いは、縞模様があるだけのことになっちゃったな、と思った。だが、描いてみて気がついたのは、エラを猫より少し張って描くと、少しは、らしく見えるということ。
だが.......................それでは、朝見た子猫は、何だったのかしらん?


年末ビデオに撮っておいた、円楽さんの追悼番組を見た。弟子の楽太郎さんと、最年少弟子の王楽さんが、師匠の最も大事にしていた演目をどう、自分の作品にするか、苦労する話。結構、面白く見た。楽太郎さんは、理詰めになりがち、ということを言っていたが、理詰めというより、説明が多く、にもかかわらず、流れが、こちらの頭に流れて来ない。わたしが、未熟な客なのかもしれないけど。王楽さんの場合は、話の展開が、腑に落ちていないので、うまく話せないと悩んでいた。
ライブアートってのは、同じなんだなと思ったよ。

以下のエラ、ものすごくすごい。