16.1.10

決め事の本質

ずっと前の話。大学卒業して1年め。民俗学の先生の家に、住み込み弟子入りしていた時、2〜3年先輩の人が、1年間の農家弟子入り暮らしをして帰ってきて、先生に報告がてら、遊びに来ていた。その時の話で、印象に残ったのは、「結局、何が正しいかではなくて、自分でどうしたいか、になってくるんだよね」と、先生の言葉。先生と言っても、まだ40歳になったかぐらいで、今の私より、若いんだが。

なんの話かというと、彼は、世話になった農家で「これはこういうもんだ」とか「あんたこうしなさい」とか、様々なことを教わったり、叱られたり、指導されたりしてきたわけだ。一般にそういう場合、「様々なことを教わりました。大変、勉強になりました」ということになるのが、正しい結論なのだと私は思っていた。だが、先生とその先輩の男同士の話では、そうはならなかった。「様々なことを学んだ。しかし、自分で良いと思うのは、自分で決めるしかない」だった。今にしてみれば、当たり前だけど、「正解」が、どこかドリルの巻末にあるみたいな経験の中で生きていた、子供のわたしには、ちょっとショックだった。(今どきの子供はもっとませてる?)

そして、今、思うのは、もう一つ先。たとえば、社会。たとえば、グループ。たとえば、家庭。何か、みなで相談して決めなくてはならないことがあった場合、ベストの答えをどう出すか。最も、愚かな決め方は、多数決、あるいは、平均値。結果的に、何も決めてないのと、同じことになる。何も、進展しない。退屈、つまらない。では、どうするか。

正解はないが、方法は、あれ、ということになる。

宮本常一先生の(私の先生は、その弟子)の、『忘れられた日本人』に書かれていた、ある離島での会議の仕方。各部落の有力者が集まって、結論を出す、出し方。その本質が、かつては、なかなか、わからなかったが、今は、わかる。

.......ははは。
まあ、そういうことだ。もっと早く気がつきたかったなあ〜。

写真は、昨年9月13日のパフォ。写真は芝田文乃さん。