29.9.12

Rosemarie Trockel ローズマリー・トロッケル ”Cosmos" in Madrid



私がマドリッドにたった一日だけ滞在した時、マドリッドの国立ソフィアアートセンターで、ドイツのアーティスト、ローズマリー・トロッケルの個展「Cosmos」が開催されていた。個展と言っても日本人がイメージする量ではなくて、かなりの量。しかも、近作ばかりである。多作でかつ、多岐にわたる。


(Mostly from my mobile came, low quality, some are from internet.)
以下の写真のほとんどは、私の携帯カメラによる。



しかも、ローズマリーの作品は、かなり「なぞ」である。だんだん、わかってきたけど、植物、動物、人間などの有機的な形に強い思い入れがあり、そのラディカルさを、博物誌的にプレゼンテーションしている。あらゆる素材を使う。初期の彼女は、ニットのものを多用していたと思う。以下のように。



以下は、展覧会の解説(山岡訳、時々超訳)。
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ローズマリー・トロッケル(1952年ドイツ)は、1970年の男性ばかりのドイツのアートシーンに現われた。彼女のアート探求は、様々な方法と素材を使うので、形式的な分類不能なものだった。その制作を通して、彼女は正当なアート、社会秩序、ジェンダーアイデンティティのカテゴリーを問いかけた。フェミニズムのコンセプトと対比的な方法をとりながら、主題の変容、人間と動物と私たちの種に影響のある環境との関係、ファッション、流行、美、社会的アイコン、身体、そしてそれらの社会構造を探求してきた。




この展示のテーマである「コスモス」はアメリカの探険を書いたアレキサンダー・ファン・フンボルトの著作のタイトルからとった。探険の手柄はコロンブスにあるが、探険によって集められたアメリカの見聞知識においては、フンボルトは自らが先駆者であると、自負している。トロッケルはフンボルトの独立心の強さと大胆な研究にあこがれ、彼の精神を次に引き継ぐ作家であると自らを位置づけている。

また、展示されたオブジェのこのコレクションには、トロッケルが感情移入し、彼女自身が発する問いと同じ率直で、創造豊かな創造性を感じるゆえの選ばれた、あまり有名ではないアーティストの作品にまで及んでいる。方法あるいは原因かのどちらかで、この非協調主義者たちは、自己表出的ではなく、むしろ職業的に働く人たちの典型である。さらに、ジェイムス・キャステル、ジュディス・スコット、モートン・バートレット、マニュエル・モンターボたちのような自己流のアーティストたちも、そのほとんど無名の状況のアーティストたちである。一般に、彼等は孤立したアーティストで、控えめな素材、素晴らしくエコノミーな方法でつくり、ある種奇妙なビジョンを追求することに従事している。

展覧会に出品された他の作り物は、自然史の領域から来ている。たとえば、マリア・シビラ・メリアン(1647〜1717)による、昆虫学でのライフサイクルについての水彩画、スペインの園芸家である、ホセ・セレスティーノ・ムティス(1732〜1808)の絵は、出版物を出さなかったため、最近まで知られていなかった。19世紀の終わりになって、ブラスケカ・ファミリーは植物や海の無脊椎動物のガラス細工を作った。それらは素人とプロフェッショナルな自然史家の両者による研究の成果である。今日、彼等のほとんどが、美学的境地かもの珍しさから鑑賞されるようになった。それの作品は、彼等が切開いた様々なフィールドの科学的な見地からの、刺激を受けて作られたものである。

ローズマリー・トロッケルは、彼等の作品を借用し、彼女の作品にインスピレーションとその例を与えた、見なしている。

Rosemarie Trockel (Schwerte, Germany, 1952) appears in the German art scene, largely dominated by men, in the 1970s. Her art explores various work methods and materials, thus eluding stylistic compartmentalization. Through her creations she questions the categories that legitimise art, social order, gender identities; while exploring constants such as the contrasting conceptions of feminism, the metamorphosis of the subject, interrelations between humans and animals and the environmental impact of our species, the phenomena of fashion, fame, beauty and social icons, the body and also the social construction of the subject.

“Kosmos” was the title that Alexander von Humboldt (1769-1859) gave to his book on the discovery of America. Humboldt, when he attributes the merit of the discovery to Columbus, makes use of the argument of progress as the result of accumulated knowledge. The artist admires Humboldt for his independent and intrepid studies, and she situates him next to other authors she also believes are kindred spirits.

In this collection of objects, Trockel pays attention to lesser known artists, chosen out of the empathy she feels for the frankness and inventiveness with which they look at questions that she too asks herself. Either in another discipline or for independent causes, these nonconformists provide models of selfless and vocational dedication. They include self-taught artists such as James Castle, Judith Scott, Morton Bart¬lett and Manuel Montalvo, who worked in situations of near anonymity. In general, they were solitary artists who worked with humble materials and with great economy of means, and were committed to their search for a singular vision.

Other artefacts in the exhibition come from the sphere of natural history, such as the watercolours painted by Maria Sibylla Merian (1647-1717) about life cycles in entomology or the works of the Spanish botanist, José Celestino Mutis (1732 –1808), whose recognition came late because his studies were never properly published. At the end of the 19th century the Blaschka family created exact glass replicas of plants and marine invertebrates, which were used for research purposes by both amateur and professional naturalists. Today all of them are more appreciated for their aesthetic quality and the curiosity that their work inspires than for the scientific activity they carried out in various fields.

Rosemarie Trockel makes use of all of them, considering them to be exemplary and inspirational in her own work.

厚紙、段ボールなどでできた鶏たち。

この部屋は、壁がタイルになっていた。天井などは通常の高さ。

一抱えほどの大きさ。


カニはガラスの箱の上におかれている。だいたい実物大。

なんじゃかわからないが、セラミックぽい。

これも焼物。

思い出せないが、それほど大きくない。黒い面は、ひとかかえくらい。

たぶん、普通のソファに布などを置いている。

この下に蛍光管がある。

以下が、博物誌的に集めてきた、無名のアーティストたちの作品かもしれない。


臍の尾を連想してしまう.....


ガラス細工。



以下のようなノートが何冊も展示されていた。いろんなものの形。いろんなもの、と言っても、なんでもなではなくて、もちろん、選んでいるだろう。それは何だろう。感性的に気に入るかどうか、なのか、何かルールがあるのか? ガラスケース内だし、接写が携帯カメラではこれ以上無理だったので、ぼけてはいますが、雰囲気はつかめると思います。





11.9.12

個人的地政学ツアー Missing in cities

たった10日間ですが、行ってきます。

パフォーマンスフェスのためにバルセロナの近郊の村に行く他は、
マドリッドとビルバオ(グッゲンハイム美術館があります)に、一人で旅してみます。
観光に近いですが、町、ビル、人々、公共空間を意識して、
観察してみたいと思っています。
写真を撮ります。私のやすっちいカメラでどこまで撮れるか。
ひとりワークショップです。
叙情的ではなくて、観察のためのツールですが、私の内部を投影するでしょう。
私は、私の中の権威へのあこがれを「量り」たい。
ビルと都市はその意味がつまっていると思います。
揶揄するためではなく、...... なんだろう.... それを知るために。
もしかしたら、フランスのトゥールーズにまで、足をのばすかな。

兜町。東京証券取引所
東京証券取引所、裏道
西洋ドラゴンの羽根
構成主義
空の青が壁面に反映している
帝冠様式の野村証券。壁面のムラムラが絵のようだ
いくつかの違った物質。右は野村証券ビルの正面
国旗


私のチビ姫カメラ

8.9.12

Personal geopolitics 問いの起こる場所、個人の地政学

来週からの旅で、トランジットにドバイに寄る。ほんとにこんなビルがあるんですか。

おととしだったか、埼玉県の中学高校の美術教員の人たちの夏休みの座談会に、変わり者ゲストとして(だと思う)呼ばれた。その時、新人の先生たちがしきりに言っていたのは「最近、何がアートなのか、よくわからない。」ということ。別に、彼らが不勉強なわけではないと思う。話の文脈で言うと、様々な美術展がある中、「これが正道」というのが、みつからないという事だったと思う。それはよくわかる。そして、先輩の先生の考えを聞いていても、参考にならない、と正直思っているようだった。

今の社会の全部が「競争社会」な状態は、憂えるべきなのかもしれないが、案外、現代の美術にとっては、良い状況かもしれない。「自分の頭で考えるよりない」のだから。アートマーケット系、お金が回ってそうな大きな美術館や国際展系、それから、公的に支援されているコミュニティアート系ですら、それぞれ方向性が違っていて、何がアートの「正道」であるかとは、なかなか、いいずらい(同じメンバーでやっているようにも見えるけど)。一般の方たちの休日のお楽しみなら、そこらへんを回っていれば充分楽しめる。一方、それ以外の従来からの「中産系」はほとんど衰退している。アーティストたちは、はっきり言って生きにくいが、そんなことは世間には関係ないかもしれない。ある人々は「日本からアートはなくなっていくんだと思う」と言うし、ある人々は「今、とても活発です」と言う。

 前回、太田エマさんの企画で「疑問の状態」という展覧会にかかわった。私もキュレーターとして、どのように、来場者に関わってもらえるか、計画する役どころで参加した。そこでは、「まとまった、一環した主張のある作品」は提出しなかった。そして、意外に多くやってきた来場者の多くは、そこに作品らしいものがほとんどなく、言ってみれば、作りかけのような作品と、たくさんの問いがぶら下がっている空間に、とまどう様子はあまりなく「これがアートですかね」とも、聞かなかった。そして、多くは長く滞在して行った。中には、「作品としてはどうも」と思った人もきっといただろうけど。
 たぶん「問い」であることは、今、一番の「問い」なのではないだろうか。かわいいいものを楽しんだり、ささやかな財力を使って家に飾るものを選びたい人もいれば、気軽な仲間と時間を過ごすための場所を持つことを大事にする人も多いとは思うが、「何事かを考えざるをえない、その問いを分析し、分け合いたい」と思っている人たちが、案外に多いということではないだろうか。そして、それもアートであるということ。しかも、結構「旬」の。そのことをつくづく思い知る機会だったと思う。何かが始まってしまった、そんなことを私は感じている。


どんなことに問いを持つか。それは、たぶん、それぞれの個人が身体感覚として持っている「地図」の感覚によって変わってくると思う。コミュニティ毎の感覚もあるだろうけど、個人も実際、様々あるはずだ。それを私は「個人における地政学」と呼んでみている。私の「地政」空間が、少々特殊なのは自認している。ゆえに、仲間はあんまり多くないんだ。でも、負けないよ。
ラディカルであり続けるためには、自分のコンパスをいつも、さびないように磨いていなくては。

アーティストからの問い。壁に直接書かれた。
企画側から来場者に問われた質問票は書き込まれた後、展示された。
質問票に書き込む来場者の方たち。
ぶら下がるディスカッションのための10のトピックとパーティの様子。
トピックは譜面台に載せられた。