30.11.10

アイデア、が大事。

このブログには「統計」というツールがあって、その日に、どのページを何人が見たかがわかる。誰かまではわからないけど。
ずっと前の記事が、今日、2回も見られている。2つの計画のことが書いてあった。6月頃のこと。

「何かを企画して行う」ということは、何か同じようなセンスを共有していなければ無理なんだ。人間的信頼関係。やったことのない人とする場合は、彼らが私を信頼してくれてなきゃ、できない。私が信頼しなくてはできない。信頼は、どうやって、みつけるか。親しく話せれば、それで良いわけではない。


今は、主に、来年の計画のために仕事をしています。
出て行くのが、2つ。招待するものが1つ。だけど、わたしはディレクターとして仕事をしていきたいわけではないので、招待するにしても、自分の表現の表出の方法としてやることになる。どうやったらいいのか、考えている。いっしょに働くいい仲間が欲しいが、10年かけて1人いるか、いないか、なんだと、最近よくわかった。

シャトマルは、どこまでやっていけるか。本当にラボ(キッチン)になっているか?自分のやりたいことができているか?

アイデア、が問題。
アイデア、って思いつきって意味のアイデア、ではなくて、「思想」って意味のアイデアね。だから、変わらないもの。変わるとしたら、うねりのように変化するようなもの、あるいは、よっぽど強いショックで変わることはあるもの。
たとえば、「駅でやってみよう」というのは、アイデアではない。「駅を教会に見立てる」というのは、コンセプト。
アイデアは、もっと、深くて、広い。
そして、アーティストの命みたいなもの。たとえ、手や足や耳や目が使えなくなっても、なんらかの方法で、表現することができる。アイデアだけで、他は全部、他人にやらせたっていい、そのくらい、強いものだ。そういう状況って、あんまりないけど。

それを整理している、今。あほだから、できん、かもね。

28.11.10

グールド効果:演奏として

気がやはらかくなった。
音楽はちゃんと演奏ができるから、いいな。

アートだと、ちゃんと「演奏」することは、ないのかもしれない? 今時アートで人が集まるということは、かなり、気軽な次元だし、ひとつのパーティのようなものなんだと思う。考え方に、思いがけないショックを受けたり、気持ちが入れ変わるような体験ではなくて、何か、人との「いい関係」を経験する場所のようだ。

でも、グールドのように椅子の高さが「これじゃなくてはだめだ」という密度の表現を、行いたいのだ。
身体が本気でウオーミングアップして、そして降りてくる、というプロセスに、
表現の可能性を感じている。時間もかかる。
それを評して「古いタイプ」と言う人もいて、がっかりする。

けど、音楽では演奏家というのは、それをやっているのだ。音楽は古いタイプのパフォーマンスなの?まあ、確かに、ポップスは短い。


どっか、防空壕みたいなところで、ねっちり、「演奏するパフォーマンス」をすることを夢想している。そういうのをぜひ見たいといおもうだろう観客を黙って選出しておき、その人たちだけに手紙を送っておく。返信は、丸を書くだけ。私は前の日から、テンションを変えておく。しずかに会場に行き、しずかの準備をする。申し合わせたように黙って観客はあつまり、黙って私を見る。音なんか立てない。衣擦れが、静かに聞こえる。終わった瞬間、呪縛はほどける。簡単な食事をともにとって、別れる。

26.11.10

寄稿「イスラエルの文化ボイコット」への拙文

私が参加しているCannons and Muses の、ダブリンメンバーによって「文化ボイコット問題」がテーマのパブリケーションを作る事になり、私にテキスト提出の依頼があった。特に「イスラエル文化」へのボイコットのことだ。正直、荷が重い。しかし、「むずかしいから」とほっておけないと思った。
 去年から今年にかけて、アイルランドでは、ずいぶん、アーティストによるボイコットがあったようだ。しかし、そういうった動きのほとんどない、東京でこれを書くことができるか。だが、難しいなりに、知らないなりに、「部外者」として書けることもあると思った。本当に「部外者」かどうかも、考えながら。


<参考資料のリンク>
*パレスティナ発のボイコット
イスラエルの学術および文化ボイコットのパレスティナによるキャンペーン (英文)
2004年から、世界中でキャンペーンが張られていたことがわかる。
日本語で出ているキャンペーンサイト ボイコッティル 無印良品の出店を阻止しようとする動きもここから来ていることがわかる。
以下は、最近の記事。「デモクラシーナウ」というサイト。
イスラエルに対するボイコットは有効か。

*トロント映画祭(2009)でのボイコット
関連記事。キャンペーンの声明書(英文)。
映画祭の中でのテルアビブ特集が、イスラエル大使館のプロパガンダであるらしいということで、問題に。以下も、「デモクラシーナウ」のサイトから。
占領を祝うな、トロント映画祭でのテルアビブ特集に文化人等が抗議




<私の立場>
文化をボイコットするということと、プロパガンダに文化を利用することの両方を「ナンセンス」と考える。
芸術、文化には、地域性という背景は大事だけれど、本質的にはローカリティ(国家、民族)を越える。
でも、私は活動家でもなければ、どんなものにも属さない。C&Mは信頼できるアーティストとのコミュニケーションのために関わった。


<提出予定の日本語本文>
  日本において、「文化ボイコット」というと、中国政府が背景になっていると予想される、中国国内での、日本の文化紹介イベントのキャンセル事件のことを、多くの人はまず思いつくでしょう。先日の上海万博でも、領海に関するトラブルで、予定されていたポップグループのコンサートがキャンセルされるということがありました。でも、それは、世界中で行われているイスラエルの文化に対する昨今のボイコットとは、かなり違った性格のものだと思われます。

 私が、イスラエルの文化ボイコットキャンペーンの様子を知ったのは、今年になってからでした。去年の9月のトロント国際映画祭で、テルアビブ特集が企画され、それに対して、カナダやアメリカの文化人、芸能人が「占領を祝うな」というタイトルで、ボイコットキャンペーンを行ったという件です。たぶん、わたしより皆さんが良く知っておられると思うので、説明を省きます。私はインターネットで読んだだけですから。ここでは、「特集」そのものが、イスラエル政府からのプロパガンダだと言われていました。このことは、日本人で、パレスティナ~イスラエル問題を個人的に研究しているとある方からのメールで知りました。私が、東京の美術学生とイスラエルの若いアーティストのインターネットを通した交流イベントを企画していたの縁で、情報をくださいました。


 私は、大掛かりな国際的なキャンペーンになっていることに驚きました。しかし、そこで私が考えたことは、私がこれまで、考えていたことと全く変わりません。どんな意味でも「文化」をボイコットするというのは、ナンセンスだと思います。そして、「文化」を利用することも同じよう許すまじきことだと思います。
 アーティストの追求していることは、政治、国家、民族を越えて、交流、共有可能だと私は思います。勿論、人間は、育った、あるいは住んでいる場所をバックグラウンドとしていますから、アーティストの思想や作品は、土地の文化から影響を受けるし、影響もします。しかし、人はそれだけではないはずです。私たちは、想像力や感覚を共有しあえる人と、世界中どこに行っても、出会うことができるという経験を持っています。そして、アーティストはそれを作品という形で、他者を共有しようとします。そして、それは「共有の文化」となるでしょう。そして、そういった可能性のある「文化」をボイコットするというのは、まるで、ピントがはずれていると思います。そして、その「文化」を利用することも同じようにピントがはずれています。
  勿論、国家や固有の文化をアーティストの最も重要なアイデンティティとしている人もいると思います。そして、国家はそれをしばしば、保護しながら「利用」もします。「文化」は、それらのシンボルとも言えることもしばしばです。でも、真のアートは決して、それだけではないのです。個人をすら、越えて行くと思います。なぜなら、「個人」は、あまりに遠くにいる人や、許せないような経験を受け入れることができないから。しかし、「表現」や「想像力」の連動は、個人の場所にとどまることはできません。それを私は「直観」的に思うだけですが、それだけが、アートの本来の「希望」だと思っています。
  「直観」。政治や戦争の前では、そんなものは、甘いだろうとはいうこともわかっています。しかし、この「直感」のプレゼンテーションとネットワークが、人間を越えたエネルギーとなって浸透することを、私は期待しています。そして、それが、世界の人々の心を分断しようとする勢力に、歯止めをかけるものであると、私は「直観的に」考えます。

 今回のテキスト募集を受けて、ボイコット活動の一つもない、極東の東京で、それについて、感覚的に理解し、論理的に論ずることはほとんど無理ではないかと思いました。しかし、「遠い」ゆえに、言えることもあるのではないかとも思い、少しばかりですが、ペンを取ることにしました。甘い内容とお思いなるようでしたら、お許しください。

24.11.10

好きになれないことに向かい合う

ずっと前に読んだ、たぶん、ちょっと有名なアートコレクターさん(日本人)がおっしゃるに、彼は「これはきらいだ」とか「さっぱりわからない」という作品を買うんだそうだ。そうして、それはなんだろうか、考え続けると。

人間は「好きなこと」ばかりに向かいあっていると、感性が閉じて行く。あたかも、研ぎすまして行くに違いないと思うかもしれない。だが、研ぎすます人は、できないこと、むずかしいこと、苦手なことを、努力している。楽に楽しむ領域では、たいしたことを手に入れられない。

好きになれないことに向かいあおう。


私も、このところ、「こんなことわかんないよ〜」と思うことに直面して、始めはぶつぶつ言ってた。でも、なんとか、こなしている。5月のゲートプロジェクトもそうだ。しかも、今のところ、そういう辛抱が何か、私を成長させたかどうか、さっぱりわからない。成果も良いかどうかはっきりしない。
でも、たぶん、わかっていること、楽にできることをやっていると、生きながら死んでいくに違いないということだ。アートをやるって、好きなことを極めることかと言ったら、大間違い。

シャトー・パフォーマンスアート・マルゴーの第2回が日曜に終わった。来てくださった方たちに、心より感謝。ゲストの方たちの、努力にも、強い感謝を感じている。

デュレーションパフォーマンスを5人で行った。私は、受付をしていたので、少し、遅く始めた。会場に入って、ちょい、やばいと思った。観客とアーティストの区別がつかない。準備しているのか、はじめているのか、わからない人もいる。でも、観客は当然、どんどん入ってくる。こりゃ、あかん、という気持ちが先にたった。

学んだ事。パフォーマンスアートって、日常と変わらない、のりで行われているんだね。
私は、切り替えるけど、切り替えない人も多い。私が、学んで来たパフォーマンスアートでは、日常にきわめて近いが、やはり違うモードに行っているということになっている。普段とは別の集中力を出す。だが、ここではそれほどでもないみたいだ。私の方法は、時代がかっているのかもしれない。確かに、そんなことは、もう、どうでもいいのだとは、頭では判っているよ。この、ゆるゆるの感じが、たぶん、お客さんを楽にさせている。私のようでは、疲れるだろう。う〜〜ん。

これは、同時間、同空間であるから、真剣に考えることになる。「ワイナリー」(ラボ)をやっている本当の理由だ。

もうひとつ発見したことは、自分について。私は、パフォーマンス中、大変、わがままな人になる。音には敏感になるけれど、耳で聞く言語を聞き取れない。誰かが台詞のようなことを言っても、聞いていない。何か、頭の中で起こっているんだ。そういえば、ラジカセすら扱えなくなるという経験がある。たぶん、ある種の言語を理解できなくなるのだろう。記号化した字は読めるみたいだ。
音には敏感だから、いびきをかいて寝ている観客の一人であるダンサーの平野さんと、パフォーマンスで出たゴミをかたづけるために、ビニール袋を断続的にしゃらしゃらならせている、参加アーティストの関谷さんに対して、私はパフォーマンス中、怒っていた。でも、終わったら、その気持ちはさっさと消える。何がそんなに憎かったんだろうかと思った。

私の、理想の「美」なんて、幽霊みたいなもんだろうな。追い求めたり、追体験するために「美」があるわけじゃないって、わかるよ。


フクヤママサハルという歌手で俳優が、テレビのインタビュウものにでていた。一年間、大河ドラマの主役を務めた事について話していた。彼のポリシーにはあわないことを、いろいろさせられたようだ。能力を超えるようなことをさせられて「ほとんどいじめですよ」ということもあったらしい。でも、それをなんとか、やってきたと。私は、彼のことを、退屈な人だとずっと思っていた。歌もつまんない、どれも同じだ。役者としても、格好いい以外に何かあるようには見えなかった。顔の良さと、よくわからんミーハーな甘い歌声と歌詞から来る人気でやってきている感じ。しかも、半年くらい前の別のインタビュウものでも、まだ、つまらない人に見えた。人生、あがりまで来た、みたいなこと言ってたから。
でも、責任の重い仕事をさせられて、やりたくなかった感情表現を必死に行わさせられたことを通して、彼は変わったんだろうなと、とても感じた。余裕なんか、もう、見せていなかった。

うらやましいと思った。苦しんで、成長していることが体現できてる。ああ、彼になりたい。


嫌なこと、ポリシーにあわないことに取り組む。そうしないと、開けて来ない。フクヤマ氏のような「成果」はないかもしれない。でも、あきらめたら、死んじゃうから。

私はもしかしたら、ちょっとしたノリの違いや、ジャンル分けして、何かに出会うことをミスってみたかもしれない。これでも、好きになれないことにも、挑戦してきた。けど、それは違うやり方だった気がする。

きらいなことで、判っちゃっていることは、立ち向かえないかもしれない。だけど、判っちゃっているかどうかも、少しでも、疑問があったら、見直した方がいいかも。


たぶん、これに果敢に向かって行く。できたら、せめて、いい仲間とやりたい。信頼できたり、楽しかったり、愛すべき仲間がいれば、がんばれると思う。もちろん、一人でやるべきこともたくさん、ある。

20.11.10

「継続が同時」 <観察上の注意事項>


シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー
1121日「継続が同時」
<観察上の注意事項>

5人は、それぞれのパフォーマンスをします。元々は、相互関係はありません。しかし、もし、同空間、同時間で行っていることで、興味深い関係性、反発性などが起こり、それをあなたが目撃したなら、それは彼らのものであるとともに、あなたのものです。もちろん、別々のものとして、ご覧になっても良いかと思います。

椅子はご自由に使ってください。移動しても勿論かまいません。パフォーマンスの邪魔になる場合は、アーティストが、それと判るように移動をお願いすると思いますので、もし、側にお寄りになりたかったら、寄っても、大丈夫だと思います。

写真やビデオの撮影は基本的に自由ですが、パフォーマンスを見る他のお客さんの邪魔にならないように願います。ブログなどに載せる場合は、その際に、ご一報いただけるとうれしいです。こちらからもリンクさせていただくかもしれません。

会場のガラス窓にはよりかからないでください、あぶないです。

リアクション、参加は鑑賞の範囲で勿論歓迎ですが、飛び入りパフォーマンスはご遠慮願っております。

禁煙です。

カフェでご注文された飲食、持ち込みのペットボトルやお弁当などは、会場に持ち込んでもかまいません。リラックスしてください。

1700くらいまでに全員終わります。その後、トークタイムがありますので、お時間のある方はご参加いただけるとうれしいです。


19.11.10

生き続ける理由

わたしぐらいの年齢で、子供もいなければ、こんな風に考える人は少なくなんではないかな。

「生き続けなければならない理由はなんだ?」

リクルートのギャラリー、ガーディアンガーデンの20周年記念展覧会に小さな作品を出した。20年後をイメージして、という課題。これは、しゃれたことに、20年後に返却してくれるそうだ。その時の住所を書いて出すように言われた。ちょっと、ぞっとした。

わからないよ。20年後に生きてるかなんて。




死にたいわけでもないけど、生きなければいけない理由もあまりなくなった。稼ぐのも難しいし、老化で見た目は悪くなるばかりだし。今は、求められていることに、とにかく応じている。求められたら、ベストを尽したいとは思う。でも、人々とのいい関係が維持できているうちに、終わりにしたいと思ってしまう。


それほど、これから良くなるとは思えない。表現の腕があがったり、知識も増えたり、面白い友だちが増えるということはあると思う。でも、私の、世間的意味は、たいして良くはならないだろう。私がひとり生きているために、消費されているものの方が多いのではないかな。人口多いのだし、遠慮すべきなんではないかと思ってしまう。(意味かよ、あほだな



毎日の暮らしの中に、喜びを見つけている人って、自分が好きなんだと思う。かわいいグッズを買って、一人のお部屋を飾ったり、すてきな料理を作ってみたり。素敵な服装をしたり。


希望がないわけではなくて、希望を持とうと思えばある、みたいな希望だ。希望ってそういうものかな。あるいは、なくてはならない気持になるのが、希望かな。


でも、死ぬ理由さえもないもんね。死ぬってすごくエネルギーがいるし、いろいろな人を傷つける。だから、死なない。投げやりなわけじゃない。生きながら死んでるのも、やはり、全然別の意味で、まわりに迷惑だ。そういうのは、いやだな。


なので、今日、今日、やっておこうということを、とにかくやる。


今日は、あちこちでもらってきたフライヤーを眺めて、他の人たちのライブやらイベントやらにとても行きたくてなって、いろんな人に会いたくて、いろんな人の話を聞きたくて、手帖に書き込んでいたけど、よくよく考えたら、経済的に持たないみたい。


でも、
実のところ、私の年代でなくても、若くても、生まれて10年か20年かでも、もう、そんな気分になっている人たちがいるような気がする。それが気がかりなんだ。(嘘だね、良い人ぶってんじゃねえ)




わたしがそんな気分になっているのは社会の閉塞感からかもしれない。この国の経済をよくすることなんか、わたしにも、総理大臣にだってできない。


ならば、経済が良かろうと良くなかろうと、生きているのが楽しいねって、言えることを、作っていきたいじゃない? 経済は、よくなることを前提にしてはいかんと思う。


生きているのは、本来楽しいはずなんだから。






それって、とても、創造的な才能やエネルギーや努力が必要なんではないかな。それは、私にできる? やってみる? と考えると少し元気になれる。なんか、私に与えられた課題かもしれない気になれる。どう、どう? できる?



......じつはかんたんなんだ、といってみる。ちょっとしたことなんだ。





18.11.10

今と今後

今と今後。ちょっと脳がとろけてきた。何かやりたいが、気持ちが凍結している。でも、ことはどんどん押し寄せてくるのだ。整理をつけたい。(とろけているのに、凍結とは何を言っておるのか)

なんとか、できる限りのことはやったという感じているMediActions。反省は少なくはないが、手は抜かなかったという点で、ある種の達成感はある。
人との関わりが多かった。これは感謝だし、宝物だ。
だが、アートってなんだろうかと思うと、コミュニケーションだって簡単に言う人もあるけど、他のことでもコミュニケーションはできる。
だから
コミュニケーションができたからと言って、アートができたことにはならない。
甘えちゃいけないってこと。

それでも、
実感としては、今の世は、「戦う」よりも「協力する、シェアする」というのが、よりラディカルな気がするということを感じている。「戦う」のが、ヒロイズムとか、出来合いの正義感から来ていて、「戦う」人には仲間はいるけど、敵も必要とする文化のような気がする。
「戦い」を文化と言うのは、語弊があるかもしれない。でも、私には、イデオロギーも宗教も文化で、人間が発明したイマジネーションだと思う。まじめに、命かけている人から見ると、ふざけてやがると思うかもしれない。
でも、命かけて、想像力のことを、考えている人だっているんだぜ。

政治や社会がストロングであれば、制度と闘争する意味もあるかもしれない。でも、あの人たちはプライドが高いけど、力も知恵もないって感じだ。情けなくて、戦おうとは思えないんだ。

だけど、やはり「協力」や「シェア」が下手すると、甘い夢になる可能性もとても大きい。たとえば、自分の努力を、ぶんどられたらむかつくし、にこにこするよりないから、慇懃になったりもするね。ぶんどる方は、まったく悪気がないかもしれないけど、思いやりは欠けてるだろうね。それから、私に力がないからって、ただただ、何も見ず、話もせず、無視する人は少なくないだろう。そういうことのソリューションは思いつかないよ。損とか、得とか言うことにどういうスタンスでいたらいいかわからない。だけど、悔しいからって、彼らの家を燃やしに行く事もできない。皮肉の一つで済めばいいかもしれない、だから、少なくとも、冷静ではいたい。だから、血をたぎらせるのではなくて、一人を守るんではなくて、世界が関わりあう図を明確に想像し続けること、小さいところからでいいから、実現しようとする意志を続けることが、最もラディカルであると思う。地味な言い方だけど、戦う相手は、自分の中にある。だからって、自分をいじめてはいけない。その頃合いを掴むのが、かっこいいんじゃないかな。


まあ、いいや。それより、これからどうしようかって言うことだ。

つべこべ言ったり、哲学カフェが面白かったねとは言えるけど、結局、私は私の表現が看板なんだ。そこは、シェアできることと、できないことがある。責任もって出すってことはシェアできないし、出したものはシェアしよってわけだから。

<今後の予定>

ということで、今週末は、シャトー。
「シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー」@シャトー2F 武蔵小金井駅下車5分
  11月21日(日) 15:00  詳細はこちら
5人によるデユレーションパフォーマンス。参加5名が、同じ時間に同空間でパフォーマンスを2時間くらいする。動物園みたいな感じかな。企画は、私と村井元さんと直方平さんの3人。1500円。ワンドリンク込み。このシャトマルは、来年1月と3月にもある。

来月は、円盤。高円寺のレコード屋さんだ。川染さんの企画
12月8日(水)19:00 3〜4人が出る。私以外はたぶん、サウンド系。私は、レコード棚を背景に、私にとっての「サウンド」をやる。 場所はこちら
どんなのりになるか、想像がつかない。入場料1000円

来年は3月にスペインはジローナというところへ行く。フェミ系のパフォーマンスフェスと、ジローナ大学でもワークショップやらがある。スペイン初めてだから、楽しみ。バルセローナのバレンティンが、紹介してくれた。スペイン内の他の可能性もあるそうだ。何か、新作を考えて提出したい。

それから、バンクーバーでの、地域性を重視したレジデンス系イベントにも、内内のオファーが来ている。こないだ来日したランディが誘ってくれている。5月頃だっけな。ランディはパフォーマンスフェスのディレクターだけど、パフォーマンスフェスはもう飽きたって。これはウエルカムだな。パフォーマンスアートフェスは、閉じた世界になりつつある。90年から、00年代までの話ではないかな。

できたら、日本の地方に行きたいと思っているけど、この2年くらい、横浜と千葉(佐倉)より遠いところに行ったことがないです。たぶん、ホームページを日本語にしなくちゃいけない。それから、5月のインチョンでの「美しい校門」プロジェクトやMediActionsの成果などを、まとめる必要がある。

たぶん、「モバイルティーパーティ」と「公共哲学×アート」を合体させた動きができるんではないかと思っている。秋葉原でやったのは、ほんの序の口だ。始まりで、しかない。


収入源。編集デザインの仕事がひとつあります。それ以外に収入がないので、困る。何かあったら、お声をかけてください。



12.11.10

さらに思ったこと

MediActionはあと2日。GOGOが、「これはエマさんの学校。勉強してます」と言ったように、否おうなしに、巻き込まれて、別の身体になって、ぽろんと、外に出されつつある、という感覚がある。
それでも、
まだ、ふつふつ、熟成中のことがある。


きのうの公共哲学カフェでは、ワークショップという方法で、公共の場をつくっていくことについて、それが誰の作品かということとは別の「アート」の方法であると言う話題が前半。後半は、写真というメディアを扱った時の、被写体の立場という話題。様々な意見が、いい感じに出たと思う。前半では、みなさんが作品という概念からなかなか出られないということ、後半には、アーティストを保護する意見が多くて、意外だった。でも、良かったと思う。ディスカッションになっていた。皆さんに感謝だ。


写真ということで言えば、実は、私の頭にはもうひとつ、別のこともあった。「個人の死」を扱うこと。でも、この話は深すぎるので、別の機会にした方がいいと言うことになったので(打ち合わせで)、きのうは出さなかった。


以下が私の問い。

一週間程前に写真美術館で見た、ウイリアム・ヤンの写真について、だ。
HIVで死んで行く昔の彼氏の姿を、15枚くらい(だったと思う)ダイアリーを付けて、作品にしていた。1枚1枚、弱って行くアラン。痛々しい。苦しい。泣きたい。泣いた。このことで、いろいろなことを、思った。
私は、シャッター音を想像して、非情な気持になった。亡くなっていくアランの姿は、アーティストの成功(すでに成功しているかどうかということでなく)に、利用されているような気がして、私はもやもやした気持になった。HIVはゲイだけの問題ではないし(アフリカやアジアでたくさんの人が亡くなっている)、死はすべての人の問だ。だが、どうやら作品的には「一般的な死」とは捉えられてはおらず、現代的で、芸術的な問(ゲイって芸術的なテーマなんらしい)を扱った作品ということになる。なんか、死が利用されているように思った。


でも、今日、ふと思ったこと。
ウイリアムも、このことで、深く、傷つきながら、シャッターを押していただろうということ。自虐的な愛。そして、さらに、自虐的な快楽なのであろうということ。あるいは、加虐的? もしかしたら、究極の愛の方法かもしれないとすら、思った。傲慢な感じがしたのは、そのせいかもしれない。写真を撮ることが、愛の表現であるのかもしれない。

そう思うと、ふと、疑問はどうでもよくなった。疑問の答えには全くなってないけれど。トリッキーではあるね。


確かに、アーティストは作りたい作品のために、注目されるようなテーマをわざわざ選んだりして、他人を巻き添えにしたり、傷つけたりするのだ。そのことで、作品が、貧しいものになることもあるし、とてつもなく美しくなることもある。そこには「因果」はない。

芸術というのは、そういうパラドックスの中にあるんだね。そのパラドックスでもつれているものを感じるのもいいし、まるで感じないで、とにかく面白いぞと言うのもいいし、とにかくひどいぞと言うのもいいし、それぞれの勝手でもある。



写真は、アラン。インターネットの画像検索でみつけた。





2.11.10

レジデンスにとまってます+公共哲学カフェ

3331の裏にマンションがあり、そこの一室がレジデンスになっています。MediActionsのアーティストたちは、このひと月そこに泊まっていました。ジャスミンはあした帰る。ここを借りているのは、6日まで。ゴゴとピラもその日に帰ります。私は時々泊まっていたけど、押し入れしか、場所がなかったので、生活は困難だった。でも、あと数日。ジャスミンがいなくなるので、泊まることにして、東京を少し、ゆっくり過ごすことにしました。
観光客みたいにこれから、上野公園の横にある岩崎邸に行ってきます。


このところ、MediActionsのことばかり。主な行事は終わって、後は、公共哲学カフェを残すだけ。これは、もともと、ディレクターがプログラムしたイベントではなくて、私の興味から、そして友達のアライ=ヒロユキ氏の協力を得て、企画したものです。

公共哲学カフェは、2008年からすでに20回イベントをやってきています。公共哲学は、NHKで紹介されたハーバード白熱教室で、少し有名になりましたが、別にハーバードでなくて、この20年くらい前から、時代の変化を考えた研究が、始まっていたみたいです。とくに、この「カフェ」は、研究者たちのものではなくて、編集者や一般の人のメンバーがあって、本来の意味であるところの「市民感覚の哲学」を考えるために、集まりのようです。

これまで、私は、公共に対して、あまりポジティブな印象がなくて、たとえば、町おこし系イベントだと、アーティストのやることは制限されるというイメージでした。アートに特に関心のない人に、アートを楽しんでもらわなくてはならないなんて、どういう拷問なんだろうかと。

でも、状況は変わってきている。

私も変わるし、世界も変わる。


コアな表現もするし、オープンな表現もやってみて良いと思うようになった。


しかも、「官」サイドからのアプローチではない。3331アーツ千代田は、ちょっぴり「官」の場所かもしれないけど東京ワンダーサイドではない。しかも、MediActionsは、場所を借りている立場。いわば協力関係です。


11月11日(木)18:30〜
「公共哲学×アート」 参加料無料



http://public-philosophy.net/

1.11.10

モバイルティーパーティ

写真は、モバイルティーパーティ。10月30日に行いました。






警備員さん写っていると画面がなんかしまるね。