24.11.10

好きになれないことに向かい合う

ずっと前に読んだ、たぶん、ちょっと有名なアートコレクターさん(日本人)がおっしゃるに、彼は「これはきらいだ」とか「さっぱりわからない」という作品を買うんだそうだ。そうして、それはなんだろうか、考え続けると。

人間は「好きなこと」ばかりに向かいあっていると、感性が閉じて行く。あたかも、研ぎすまして行くに違いないと思うかもしれない。だが、研ぎすます人は、できないこと、むずかしいこと、苦手なことを、努力している。楽に楽しむ領域では、たいしたことを手に入れられない。

好きになれないことに向かいあおう。


私も、このところ、「こんなことわかんないよ〜」と思うことに直面して、始めはぶつぶつ言ってた。でも、なんとか、こなしている。5月のゲートプロジェクトもそうだ。しかも、今のところ、そういう辛抱が何か、私を成長させたかどうか、さっぱりわからない。成果も良いかどうかはっきりしない。
でも、たぶん、わかっていること、楽にできることをやっていると、生きながら死んでいくに違いないということだ。アートをやるって、好きなことを極めることかと言ったら、大間違い。

シャトー・パフォーマンスアート・マルゴーの第2回が日曜に終わった。来てくださった方たちに、心より感謝。ゲストの方たちの、努力にも、強い感謝を感じている。

デュレーションパフォーマンスを5人で行った。私は、受付をしていたので、少し、遅く始めた。会場に入って、ちょい、やばいと思った。観客とアーティストの区別がつかない。準備しているのか、はじめているのか、わからない人もいる。でも、観客は当然、どんどん入ってくる。こりゃ、あかん、という気持ちが先にたった。

学んだ事。パフォーマンスアートって、日常と変わらない、のりで行われているんだね。
私は、切り替えるけど、切り替えない人も多い。私が、学んで来たパフォーマンスアートでは、日常にきわめて近いが、やはり違うモードに行っているということになっている。普段とは別の集中力を出す。だが、ここではそれほどでもないみたいだ。私の方法は、時代がかっているのかもしれない。確かに、そんなことは、もう、どうでもいいのだとは、頭では判っているよ。この、ゆるゆるの感じが、たぶん、お客さんを楽にさせている。私のようでは、疲れるだろう。う〜〜ん。

これは、同時間、同空間であるから、真剣に考えることになる。「ワイナリー」(ラボ)をやっている本当の理由だ。

もうひとつ発見したことは、自分について。私は、パフォーマンス中、大変、わがままな人になる。音には敏感になるけれど、耳で聞く言語を聞き取れない。誰かが台詞のようなことを言っても、聞いていない。何か、頭の中で起こっているんだ。そういえば、ラジカセすら扱えなくなるという経験がある。たぶん、ある種の言語を理解できなくなるのだろう。記号化した字は読めるみたいだ。
音には敏感だから、いびきをかいて寝ている観客の一人であるダンサーの平野さんと、パフォーマンスで出たゴミをかたづけるために、ビニール袋を断続的にしゃらしゃらならせている、参加アーティストの関谷さんに対して、私はパフォーマンス中、怒っていた。でも、終わったら、その気持ちはさっさと消える。何がそんなに憎かったんだろうかと思った。

私の、理想の「美」なんて、幽霊みたいなもんだろうな。追い求めたり、追体験するために「美」があるわけじゃないって、わかるよ。


フクヤママサハルという歌手で俳優が、テレビのインタビュウものにでていた。一年間、大河ドラマの主役を務めた事について話していた。彼のポリシーにはあわないことを、いろいろさせられたようだ。能力を超えるようなことをさせられて「ほとんどいじめですよ」ということもあったらしい。でも、それをなんとか、やってきたと。私は、彼のことを、退屈な人だとずっと思っていた。歌もつまんない、どれも同じだ。役者としても、格好いい以外に何かあるようには見えなかった。顔の良さと、よくわからんミーハーな甘い歌声と歌詞から来る人気でやってきている感じ。しかも、半年くらい前の別のインタビュウものでも、まだ、つまらない人に見えた。人生、あがりまで来た、みたいなこと言ってたから。
でも、責任の重い仕事をさせられて、やりたくなかった感情表現を必死に行わさせられたことを通して、彼は変わったんだろうなと、とても感じた。余裕なんか、もう、見せていなかった。

うらやましいと思った。苦しんで、成長していることが体現できてる。ああ、彼になりたい。


嫌なこと、ポリシーにあわないことに取り組む。そうしないと、開けて来ない。フクヤマ氏のような「成果」はないかもしれない。でも、あきらめたら、死んじゃうから。

私はもしかしたら、ちょっとしたノリの違いや、ジャンル分けして、何かに出会うことをミスってみたかもしれない。これでも、好きになれないことにも、挑戦してきた。けど、それは違うやり方だった気がする。

きらいなことで、判っちゃっていることは、立ち向かえないかもしれない。だけど、判っちゃっているかどうかも、少しでも、疑問があったら、見直した方がいいかも。


たぶん、これに果敢に向かって行く。できたら、せめて、いい仲間とやりたい。信頼できたり、楽しかったり、愛すべき仲間がいれば、がんばれると思う。もちろん、一人でやるべきこともたくさん、ある。