19.11.10

生き続ける理由

わたしぐらいの年齢で、子供もいなければ、こんな風に考える人は少なくなんではないかな。

「生き続けなければならない理由はなんだ?」

リクルートのギャラリー、ガーディアンガーデンの20周年記念展覧会に小さな作品を出した。20年後をイメージして、という課題。これは、しゃれたことに、20年後に返却してくれるそうだ。その時の住所を書いて出すように言われた。ちょっと、ぞっとした。

わからないよ。20年後に生きてるかなんて。




死にたいわけでもないけど、生きなければいけない理由もあまりなくなった。稼ぐのも難しいし、老化で見た目は悪くなるばかりだし。今は、求められていることに、とにかく応じている。求められたら、ベストを尽したいとは思う。でも、人々とのいい関係が維持できているうちに、終わりにしたいと思ってしまう。


それほど、これから良くなるとは思えない。表現の腕があがったり、知識も増えたり、面白い友だちが増えるということはあると思う。でも、私の、世間的意味は、たいして良くはならないだろう。私がひとり生きているために、消費されているものの方が多いのではないかな。人口多いのだし、遠慮すべきなんではないかと思ってしまう。(意味かよ、あほだな



毎日の暮らしの中に、喜びを見つけている人って、自分が好きなんだと思う。かわいいグッズを買って、一人のお部屋を飾ったり、すてきな料理を作ってみたり。素敵な服装をしたり。


希望がないわけではなくて、希望を持とうと思えばある、みたいな希望だ。希望ってそういうものかな。あるいは、なくてはならない気持になるのが、希望かな。


でも、死ぬ理由さえもないもんね。死ぬってすごくエネルギーがいるし、いろいろな人を傷つける。だから、死なない。投げやりなわけじゃない。生きながら死んでるのも、やはり、全然別の意味で、まわりに迷惑だ。そういうのは、いやだな。


なので、今日、今日、やっておこうということを、とにかくやる。


今日は、あちこちでもらってきたフライヤーを眺めて、他の人たちのライブやらイベントやらにとても行きたくてなって、いろんな人に会いたくて、いろんな人の話を聞きたくて、手帖に書き込んでいたけど、よくよく考えたら、経済的に持たないみたい。


でも、
実のところ、私の年代でなくても、若くても、生まれて10年か20年かでも、もう、そんな気分になっている人たちがいるような気がする。それが気がかりなんだ。(嘘だね、良い人ぶってんじゃねえ)




わたしがそんな気分になっているのは社会の閉塞感からかもしれない。この国の経済をよくすることなんか、わたしにも、総理大臣にだってできない。


ならば、経済が良かろうと良くなかろうと、生きているのが楽しいねって、言えることを、作っていきたいじゃない? 経済は、よくなることを前提にしてはいかんと思う。


生きているのは、本来楽しいはずなんだから。






それって、とても、創造的な才能やエネルギーや努力が必要なんではないかな。それは、私にできる? やってみる? と考えると少し元気になれる。なんか、私に与えられた課題かもしれない気になれる。どう、どう? できる?



......じつはかんたんなんだ、といってみる。ちょっとしたことなんだ。