18日の朝。ザグレブのアパート前にBritish Councilの大きめのきれいな白いワゴン車がやって来た。
2時間くらいで、シュタグリネツに着いた。クモの巣にまみれた小屋。母屋と小さな小屋がある。ヴラスタの亡き父親が、縄をなう為の仕事場所にしていたと聞く。わたしの想像では、彼が仲間を集めるためのサロンだったのではないかと思う。政治活動もあったかも。それを思うと、ヴラスタがそれを引き継いでいることに意味がある。写真は、エントランスの壁を作っている作業中。エントランスの看板のMoja Zemljaというのは、「我が大地」といった意味。フェスティバルのタイトルである。積んでいる石は、アドリア海に面したイストラ地方からトラックで運んできた。実は、参加した地元のアーティストの多くはイストラの出身である。ヴラスタのアパート(私が泊まった)があるロヴィンジもイストラであった。
「わが大地、シュタグリネツ」というイベントタイトルになっているが、実は、実際のシュタグリネツという村は、あまり関係ないようだ。むしろ、メインのアーティストの出身地である「イストラ」こそが、彼らの「我が大地」なのだ、と私は気がついた。なので、現場の看板には、「我が大地、シュタグリネツ」とは書かれておらず、「我が大地」とだけ書かれてある。
2時間くらいで、シュタグリネツに着いた。クモの巣にまみれた小屋。母屋と小さな小屋がある。ヴラスタの亡き父親が、縄をなう為の仕事場所にしていたと聞く。わたしの想像では、彼が仲間を集めるためのサロンだったのではないかと思う。政治活動もあったかも。それを思うと、ヴラスタがそれを引き継いでいることに意味がある。写真は、エントランスの壁を作っている作業中。エントランスの看板のMoja Zemljaというのは、「我が大地」といった意味。フェスティバルのタイトルである。積んでいる石は、アドリア海に面したイストラ地方からトラックで運んできた。実は、参加した地元のアーティストの多くはイストラの出身である。ヴラスタのアパート(私が泊まった)があるロヴィンジもイストラであった。
「わが大地、シュタグリネツ」というイベントタイトルになっているが、実は、実際のシュタグリネツという村は、あまり関係ないようだ。むしろ、メインのアーティストの出身地である「イストラ」こそが、彼らの「我が大地」なのだ、と私は気がついた。なので、現場の看板には、「我が大地、シュタグリネツ」とは書かれておらず、「我が大地」とだけ書かれてある。
小屋には、4つくらいのベッドルームがある。キッチンと作業所、オフィス。奥に広がる緑の生い茂る庭が、パフォーマンスの会場。ブラックベリーの大きな木があり、スタッフのリベラが時々上って、実を取ってきてくれる。地面に隠れた倉庫があり、重い蓋の下にビールのストックがあった。
シュタグリネツとは村の名前であるけれど、教会、などの中心のあるいわゆるコミュニティではなく、道路に面して東西に連なる集落を指す。ヴラスタの小屋は、その東の端である。集落から離れたガソリンスタンドのさらに外側。超はじっこ。隣の村とのボーダー。村は車で5分もかからず端から端までまで行ける狭さ。役場、ポリスステーションもなく、ファイヤーステーションと呼ばれる小さな公民館の建物があるだけである。たぶん、消防の設備くらいあるのだろう。この地域は、Koprivnica(コプリヴニッツア)という市の一角である。この市から、イベントにサポートが出ている。地元の村の人たちは、一人くらいしかイベントには来なかったが、市長はやってきた。昨年もサポートしたという。写真は、市長のズボミール・ミルシッチェ(Zvonimir Mršć)氏。フェスティバルの前々日の18日、私たちを、市のセンターにあるレストランに招いてくれた。若いが、外見は強面と言った方が早い。顔立ちはかわいいが、表情がとても怖かった。感じが良くないと選挙民に投票してもらえない国のリーダーたちとは違うのだろうなと思う。アートには関心はなさそう。だが、何かの理由でバックアップしている。私はかつてポーランドで、ある町の市長と食事をしたことがあるが、一応、笑顔は絶やしてなかったのを思い出す。ミルシッチェ氏とは、テーブルが一緒だったので、土地の名産品などを聞いた。水が大変良いので、ワインに向いているとこのと。中世ローマ帝国の頃から、ワイン用の水を供給している土地だと話してくれた。レストランでは取れ立てワインをたっぷりご馳走になった。パフォーマンスのために地図が欲しいと言ったら、明日送ると市長。たしかに翌朝早く、市の案内印刷物とともに届いていた。写真で市長と並んでいるのがヴラスタ。
シュタグリネツとは村の名前であるけれど、教会、などの中心のあるいわゆるコミュニティではなく、道路に面して東西に連なる集落を指す。ヴラスタの小屋は、その東の端である。集落から離れたガソリンスタンドのさらに外側。超はじっこ。隣の村とのボーダー。村は車で5分もかからず端から端までまで行ける狭さ。役場、ポリスステーションもなく、ファイヤーステーションと呼ばれる小さな公民館の建物があるだけである。たぶん、消防の設備くらいあるのだろう。この地域は、Koprivnica(コプリヴニッツア)という市の一角である。この市から、イベントにサポートが出ている。地元の村の人たちは、一人くらいしかイベントには来なかったが、市長はやってきた。昨年もサポートしたという。写真は、市長のズボミール・ミルシッチェ(Zvonimir Mršć)氏。フェスティバルの前々日の18日、私たちを、市のセンターにあるレストランに招いてくれた。若いが、外見は強面と言った方が早い。顔立ちはかわいいが、表情がとても怖かった。感じが良くないと選挙民に投票してもらえない国のリーダーたちとは違うのだろうなと思う。アートには関心はなさそう。だが、何かの理由でバックアップしている。私はかつてポーランドで、ある町の市長と食事をしたことがあるが、一応、笑顔は絶やしてなかったのを思い出す。ミルシッチェ氏とは、テーブルが一緒だったので、土地の名産品などを聞いた。水が大変良いので、ワインに向いているとこのと。中世ローマ帝国の頃から、ワイン用の水を供給している土地だと話してくれた。レストランでは取れ立てワインをたっぷりご馳走になった。パフォーマンスのために地図が欲しいと言ったら、明日送ると市長。たしかに翌朝早く、市の案内印刷物とともに届いていた。写真で市長と並んでいるのがヴラスタ。
これまで、私は、地方都市がサポートしているフェスティバルにいくつも参加したが、だいたい、その地域で宣伝され、地元の人や若者が協力していて、観客としても集まった。横断幕まで張ってあることもしばしば。だが、ここでは、違っていた。当日まで地元の人はひとりも来なかった。いったい誰が観客なのだろうかと不思議に思った。不便なこの村に(電車の駅もとても遠い)、遠くから人が来るとは思えなかった。
実際の観客は、100人くらい。フェスティバル当日の20日の午後、都会の人たちが、ザグレブから2台の観光バスに乗ってやってきた。私は、心底驚いた。静かな村が一気に華やかになった。遠足にやってきた団体客といった感じ。ザグレブでのレクチャーの観客が含まれていた。子供たちもいる。バスはファイヤーステーションに乗り付けられた。これまで一度も姿を見なかった村のお母さんたちがそこに笑顔で集まって、私たちと都会からのお客さんにランチを用意してくれていた。ファイヤーステーションとは集会所のことであった。アーティストたちよりも都会からのお客様との交流がメインなのかもしれないと感じた。写真は、お母さんたちを紹介し労をねぎらうヴラスタの夫であるミラン(写真左端)、お母さんたち、それを写真に撮る都会の人たちの後ろ姿。食事は、市からのサービスかも。あるいはツアー料金に入っているのかもしれない。ここで、ヴラスタたちオーガナイザーの苦労がよくわかった。
ところで、村では女性はひとりで道を歩いたりしないらしい。わたしが、作品の材料や道具の買い出しのために、国道をひとりでとぼとぼ歩いている間に、道路脇の民家から、警察に通報が2本も入った。あやしい東洋人の女が歩いている、とのこと。通報を受けた警察は、パトカーを飛ばしてやってきた。「女性はひとりで道路を歩かないから」「外国人の難民だと思った」など、通報された理由はいくつかあるようだった。(最近わかってきたが、日本も随分、通報社会になってきている。おなじことかもしれない。)
とにかく、わたしは、だんだん、地元の保守性がわかってきた。観客のほとんどが、ザグレブから来たということを思えば、芸術を楽しむということが、田舎ではまったくないということも。因みに、通報者はふたりとも主婦であったという。わたしは、道路ではなくて、畑も歩いた。トラクターの農夫のおにいさんや、自転車のおじさんなどにも会ったが、彼らはフレンドリーだったし、通報もしなかった。自転車のおじさんは、農夫ではなくて、近所の工具屋さん。それから、アーティストの間でもそうだけれど、上の言うことは絶対、のようだ。自分流に解釈したりはしない。なので、ヴラスタのスタッフは、ヴラスタがだめだと言ったことに、逆らう人はいないようだった。そのために、何かと不便なことがあったのも事実。
とにかく、わたしは、だんだん、地元の保守性がわかってきた。観客のほとんどが、ザグレブから来たということを思えば、芸術を楽しむということが、田舎ではまったくないということも。因みに、通報者はふたりとも主婦であったという。わたしは、道路ではなくて、畑も歩いた。トラクターの農夫のおにいさんや、自転車のおじさんなどにも会ったが、彼らはフレンドリーだったし、通報もしなかった。自転車のおじさんは、農夫ではなくて、近所の工具屋さん。それから、アーティストの間でもそうだけれど、上の言うことは絶対、のようだ。自分流に解釈したりはしない。なので、ヴラスタのスタッフは、ヴラスタがだめだと言ったことに、逆らう人はいないようだった。そのために、何かと不便なことがあったのも事実。
スタッフは、ヴラスタ以外に3人。みんな個性豊かで、フェスティバルの顔そのものだ。(写真は左上がミラン、右上ヴラスタ、左下ピノ、右下リベラ。)みな50歳を少し越えているぐらいの年齢のように見えた。まずヴラスタの夫のミランMilan Bozic。本職は将校だが、アーティスト。英語がまるで話せない。写真を撮る。かなりの腕前らしい。まるで、連続写真のようにたくさん撮る。パフォーマンス中にシャッター音が少々ノイジーであった。でも、わたしが地図を必要としていると知ると、頼まなかったのに、拡大コピーを作ってきてくれたり、親切である。ヴラスタの部下という立場ではないので、自由に振る舞っている感じ。弾が何発か入ったままの、大柄でマッチョな身体と、男前なのが自慢のようだ。ウィンクは何回も送ってくれた。その彼が2日かけて木材を組んで何か作っていたので、彼の作品かと思ったら、ヴラスタの作品だった。ピノPino Ivancicが公式上のスタッフ。ピノは、アーティストとしても、国内外で活発な活動をしている。PAの用意などで、かけずりまわっていた。外国からのアーティストの面倒をひとりで行おうとしていた。だが、実際はとても手が回らない。道も迷うし、よくわからない変わり者という印象。アナーキストで、哲学者のマルクーゼに傾倒している。できないプランを毎朝立てる。悪いけど、だんだん信じなくなってしまう(笑)。もうひとりのスタッフである画家のリベラは、落ち着いた性格と社交的なこともあり、3人のうち精神的には最も頼りにはなった。主に食事の用事やピノの仕事のまわりの用事を淡々と口笛をふきながら手伝っていた。車を持っていないので、会場内のことだけになる。なぜ、私の村人インタビュウを手伝えないか、話してくれた。その他、いろいろと話した。クロアチアの社会的状況も彼から聞いたことが大きい。再び「アルマゲドン」が来るのを待っているというのが彼の思想である。クロアチアの人間は皆そうだと言う。何にも未来に希望を持たないし、国だけでなく、人間にも失望していると言う。だが、アーティストたちだけは別だと彼は言う。アーティストたちは愛することができると。「シェルターとしてのアート」というこのレポートのタイトルは、彼の話が参考になっている。彼の名前の意味は、「自由」だ。本名かどうか聞かなかった。