なにげなく見ているけど、テレビや映画のキャストは、役者の質感の配置を考えるところが、たぶん、とても大事なんだろうと思う。業界では当たり前の技術だからわざわざ言わない。
だけど、予算やコネのないアーティストが、フィルムやパフォーマンスなどで、人をセットアップすると、どうしても、選択肢がせばめられて、質感のレイアウトが、だめだめになってしまう。
これは、いわゆる「しろうと」っぽいと言われてしまう理由のひとつだ。
配置する人の質は、それなら、お金をかけて優秀な役者やパフォーマーをつれてくればいいという結論にはならない。
限られた人材ならば、その人材の配置方法で、作品を作ればいいのだ。
問題は、その質感に敏感かどうか。
音の質感。
失礼ながら、映像やダンスなどの人の多くは、音楽音痴だと思うことがある。なんとなく、音がついていれば、見る人が楽になるとでも思っているみたいだ。あるいは、踊る人がのりやすい? 音質、音量、そして、その音楽が指し示すものを、そんなに考えているとは思えない。だから、音に配慮がないなら、いっそのこと、音など入れなければいいといつも思う。音があると集中して見られないことってあるでしょう?
おとといみた、マシュー・バーニーのクレマスター9は、ビョークの音があっているとは思えないところや音量が大きすぎると思うところがあった。面白いところもあるけどね。ものを動かす音、そのものを聴きたい場合が多々あった。映画館で見た時はあまり感じなかったんだけど。お金があっても配慮がなければ、こうなる。
最近、あるポップ系ミュージシャンに凝っていて、移動の時間はいつも聴いているし、評論を読んだりしている。実際の曲の中の音の配置や声の使い方に、突っ込み入れている評論なを読むと、ほんと細かくて驚く。それで曲を良く聴く楽しみも出てくる。ポップの世界は売れる売れないが尺度なのはきついけれど、そこには、案外、厳しい修練があるのだ、ということを、しみじみ。でも、知ってしまうと面白くなる。勉強になります。
がんばんなきゃな。気がついているなら。
今日は、学生さんがインフルエンザで来られないので、最悪、わたしと独協大のタカハシ先生のふたりになってしまうかもしれない。そうすると、年格好からして、カップルみたいになってしまいそうだ(笑)。中年で、どちらもへっぴり腰ぎみだろう。ならば、それでどんな配置にするか。来た人間の顔見て、即興的に考えなくてはならない。きつい。でもやる。
音の件は、渋谷に実際にある音が効果音なので、そのノイジーさに対して、パフォーマーの内面的でパーソナルな、見ている人には聞こえない、個人の中の音をどう配置できるか、にあると思う。どうやればいいのかな。