30.3.10

きのうのは全然だめです

きのう絵をアップして、見た人もおられると思いますが、アップを下げました。だめだよ〜。あれでは。

修行し直しです。
能書き言ってないで、描くことにしたいです。
相変わらず、寒いですね。しんしんと冷えます。皆さん、お身体大切に。


ずっと前にお世話になった方が亡くなり、明日、お通夜に参ります。ずっとご無沙汰していたのが、悔やまれる。いつでも、また会えると思っていました。

28.3.10

絵画など

友達と長いSkypeトークをした後、ふと思ってインドのヒンズーミニアチュールの画集を見た。
作品が残るってすごいことだ。多くは、作者不詳なわけだけど、作者の身体やその社会(ようするにコミュニティ・パフォーマティブなこと)はもう過去のもので、消えてなくなっているわけだが、その絵は残りつづけ、私のような文脈の違う人々によって鑑賞される。それは「売れる作品」といったことと関係ない。偶然、空爆にも、洪水にも、火事にもあわず、身近の人に破棄されることなく、残り続けたわけだ。まあ、売れたから残ったということもあるかもね。


もう過ぎ去った時間のものを眺める喜び。鑑賞するってこと。自分がやりたい人ばっかりの世界になってきた。つまんない。参加せずに、遠くから眺めたり、こっそり覗いたりすることを、復権したい。時間をかけて。


27.3.10

祝福する息

なんだか、今日は、もやっとワンダララ計画のことが思い出され、どうして、あんなに理解されなかったか、不思議でならない。わたしが「アートにおいて思考されること」と考えていることと、多くの皆さんがそういう場合に「思考する」ことの間に、深い深い溝があるに違いない。わたしが間違っていて修正すべきかどうか、ずっと考えていたけど、結局、直さないことにする。世界でひとりだけになっても、その考えを通すのが、自然というものだろう。なんらかのわけがあって、私の場所に集結したアイデアなのだから。それが特殊なのであれば、それを打ち出せばよいと思えるようにようやくなった。でも、キュレーターとしてやってゆくのは困難ですね。理解する能力のあるキュレーター、ディレクターを探すよりない。

TwitterをFacebookにリンクしているのだけど、リアクションがあって面白い。やっと、ネット上での「そういう感じ」を味わっている。mixiではあんまりなかった。

インチョン行きのチケットを予約した。5月3日発、5月23日帰国予定。アーティストインレジデンスです。小学校に泊まるらしい。画家として呼ばれているので、そうだな、4月は画家気分にひたって、そののりで行くことにしようかしら。

その韓国からパフォーマンスの写真を30枚送ってくれと言うので、整理している。そんなにあるかよ、と思ったが、結構ありそうだ。なつかしいのを貼っておきます。
芸大でのパフォーマンス。こんときは、よかったなあ。ああいう「かたい」場所が好きなのよ。だから、銀行のATMも好き。え?違うじゃないかって? いやいや......  役人とか銀行員型の血中度高いんだ。

「祝福する息」というタイトルの作品です。芝田文乃さん写真。


職業と言えない事

今日は友達ののぎさんのオープニングがあって、ちょっと参加した。これまで作ってきた作品群からセレクトされたいかした回顧展になっています。タイトルは「やくたたず」。手触り良し、時に恐ろし。触ってよいそうです。
http://www.outofplace.jp/TOKIO%20OoP/Current.html


 ところで、........ どうやら、今日に限らず、最近私は、画廊のオーナーさんやキュレーターさんに会っても、どうも、何か私に関係のある方、という感覚をあまり、持たなくなった。なんか、曖昧な言い方だ。気分の曖昧。当たり前だけど、知っている人は当然知っているし、知らない人は知らない。わざわざ、誰かの心を、わたしの手を持ってゆらして、「わたしはアーティストなんですよ」と強調しても、たいして、世界とわたしの関係が変わるわけでもなと、とこのごろの気分。作品がわかる人にとって、わたしが芸術家であればそれでいいし、そうでなければ、ただのオバハンでかまわないのかもしれない。作品を先に知ってもらい、あとで、人間という順番が好ましい。ま、理想だけど。

それは、「芸術家ということが、実際、職業とは言えない理由」かもしれない。
言ってみれば「癲癇持ち」かどうかみたいなことかも。「癲癇持ち」を、なんでもない時に他人に知らせてもしょうがないでしょう? 相手が困るだけじゃない? 症状が出た時に「ええ、癲癇持ちなんです。すみません」と言えばいい。「そうなの?お大事に」.....これでよい。芸術は、そのように、制作されるのが、よいと思う。社会貢献するものではないと思う。こっそり、影響しているだろうとは思う。

その前に、原美術館で、ヤン・フードンの映像作品を見た。あんまり、面白くない。意図はわかるけど、それだけなのか?と思ってしまう。たぶん、風景画に若者が立っていたり、作業したりしている絵でよいものを、映像にしているのかもしれないと思ってしまった。その上、映像に出て来る女子たちが皆AV系の表情、服装なのには違和感。そういう役ならわかるけど、そうでもないらしい。作者の女性へのセンスが丸見えで、はずかしい。ところで、中国のアーティストって、とても、期待されているよね。デビュウして、あっという間に、かなり費用のかかる機材が使えるようになるんだね。「将軍」についての映像は、ヨーロッパの人が見ると、興味深いのであろうと思った。共産主義社会への偏見まじりの視線。テーブルの上の映像は楽しい。話の内容やら、ピアノの音やらが、特殊に皮肉な気分を誘った。リアリズムと演出の境界が移動するかゆさ。例によって女の子たちがいやだったけど。複雑に感覚を刺激されたので、この作品は、見てよかったと思った。「芸術家ということが、実際、職業とは言えない」というのは、ヤン・フードンがインタビュウで言っていた言葉だ。

ウエスタンスタンダードのことを考えていた。わたしのパフォーマンスの作品は、かなり、西洋よりだと思う。なぜだろうかと考えた。小学校に上がる前から、ピアノを習ったからでかもしれない。ピアノだけでなくて、子供用ではあるが、楽理もやった。時間を構成や幾何学として考える訓練がされていたのだと思う。コンセプトといっても、社会主義みたいなやつではなくて、構成のためのもの。エモーションを、♪や図形に換えている。

ところが、わたしのドウローイングやイラストは、全然、ウエスタンではない。どちらかというと、一筆書きの禅画とか、落書きとか、文字に近いし、説明のつかない感覚的なものでやっている。子供の時から見ている本の挿絵が源流だと思う。西洋絵画みたいに、画面全部が塗りつぶしているあるのは、くどくて、好きにはなかなかなれなかった。でも、やらないと大学生になれないらしいので、一生懸命、塗り塗りしていたけど、あんな、面倒なの嫌いなの。さっと描いてキマっていれば、いいではないの?と思っている。この辺の自分の美意識を最近、探っているのよ〜。

26.3.10

作品リスト

数えたら、作品は、35くらいあった。最初の頃のは、カウントするのもどうかと思うものもあるけれど。
最近は、若くても、回顧展をする時代だから、ちょっと振り返ってみました。作品が作品らしくなったのは2002年くらいからかな〜。
新しいHPには、年代順ではなくて、作品別がよいでしょうね。

Saare Souare さあれさうあれ Tokyo(谷中)1991
Topaz Singapore1992
More plates 皿なる試み Singapore1992, Tokyo(アート倉庫)1992
Caprice  Tokyo(アート倉庫)1992
Tornade Project Tokyo1993~1996, Nagano+Pusan1994 
Seven Seeds 公州1995  
Northing for nothing 清州1996
岸辺のピアニスト 清州1997
Fruites and Flower Tokyo1997
Practice for Rolling Down Bytow1997, Sandmiesz1998, Warsaw1999, Yokohama(女性フォーラム)1999, Essen2000
Hundred Bakets of Daily Life Munch1998
Greeting with Green Leaves Munch1998
Second Situation Tokyo(Big bamboo)1998
Swinging Walks Limerick1999, Lublin1999 
Mininal Distance of Peerformance Art Tokyo1999~2003, Kawaguchi2004
Bless Breathing Tokyo(芸大)2000, Osaka2000, Piotrkow2001
Expatriates Tokyo(パラグローブ)2002, Piotrkow2002,
Garden Novesamky2002, Koln2003, Osaka2003, Bialystok2003, Minsk2003, Plague2003, Krakow2003, Kawaguchi2004, Omiya2004, Kimchon2004, Tokyo2005
Listen!  Pitrokow2003, Koln2003
Rolling clothes Soul2004, Tokyo2004
This is My Sound Plague2004, Soul2004, Manila2005
Triptique of Memories 記憶の三面鏡 Kawaguchi2004
Red Marking Tonghae2004
Handmill Tabor2004,Dresden2004, Essen2004, Singapore2004, 
Tokyo(プラットフォーム)2004, Manila2005, Tokyo(トキ)2006, 
Action for Cancer Tokyo(プラットフォーム)2005
さなぎピアノ曲 Yokohama2005
A Navel for the world 世界のへそ Yokohama2006
Drill Tokyo (outlounge) 2006  Helsinki 2006 Boston2006, Mexicocity2006,
Tokyo(Toki)2006, Glasgow 2007, Tokyo(Shibuya) 2009
Best place to Sleep / Come with Me Essen2007, Hannover 2007,
Tokyo(UFJ Ginza,Shibuya,Marunouchi,Kyobashi, X’mas)2007, ChaingMai2007,  
Tokyo(ShinanoMachi )2008, Poland(Warsaw, Piotrkow, Krakow) 2008
Watarase 2008, Yokohama(Sakuragicho) 2008, Boston 2008,Toronto 2008,
Tokyo(Yanaka) 2008, Photo(Obama&Me)2009, Tokyo(Ginza)2009  Zagreb 2009
We are Elegant Indonesia2007, Croatia2009
Wind on Castle  ChiangMai 2007, Warsaw 2008, Yokohama(Wandarala) 2008
Missing in Yokohama Germany2007, Yokohama2007~2008
Wind from Sky Pitrkow 2008,Toronto2008, Tokyo(Ginza)2009, Tai-Tung 2009, Tokyo (TurnerGallery)2009
Blind Game Taipei2009, Taitung2009

以下は2枚ともシンガポール1992年のことです。上のは、地下鉄の中で勝手にパフォーマンスを行っておる。その下は、Hong Bee Warehouseという倉庫でのイベント会場。行っておるのは、More Plates( 皿なる試み)という作品。
その下は、Minimal/Distance of Performance Artというコラボレーションもの。国会議事堂の前で、相棒のパフォーマーをひっぱたいている。1999年。
救出されたハードディスクから。


25.3.10

homeページ改善計画

わたしのOS9が壊れたのは、数ヶ月前かな。それ以来、ホームページが更新できずにおりました。きのう、書きましたようにハードディスクが救出されました。また、今日、友達のAに聞いて、Page Milll というソフトで作ったページは、GoLiveで読み込めるということがわかりました。同じくHTMLだからなのですね。これはすばらしい。別にデザインを替えなくても、新しいソフトに変換できます。それを知って機嫌がまたよくなり、思い切ってドメインをとってしまいました。http://www.sakikoyamaoka.com 。まだお金を払ってませんから、使えません。1ヶ月以内には、なんとかしたいです。

今日は雨の中、父のお墓に行きました。墓参り、はじめてのことです。父は、身体は壊れたけど、頭は壊れていなかったので、脳だけ救出して、わたしのハードディスクみたいに、何か別の「身体」に外付けできればよかったのにと、母と話しながら、歩きました。朝、PCか何かの「本体」に電源を入れて「おはよう」と言えば「おはよう。今日は、新しい川柳を作ったよ。」と返事してくれる。電源は消すわけにいかないかな。ビールを注ぐと、調子こく。あるいは、生命保険を使ってロボットを一台買い、そこに入れるとか。アトムみたいにかわいくてもいいいかもと思いました。ねえ。

あたたかい相槌くれる第三者  

はい。


韓国の方とコンタクトが始まっていて、画家として呼ばれているけれど、やはり、パフォーマンスに関することもあって、写真をできるだけたくさん送れと言われました。あんまり、整理していないので、めんどうだった。やんなきゃね。

なつかしい写真があったので、アップします。

2006年。都電にて。写真は、芝田文乃さん。このとき、このパフォーマンスが大嫌いだったけど、もっと、堂々と楽しんでもよかったと今は思っています。タイトルあったかな。Handmill だったかも。



24.3.10

HDDを救済

旧PCからHDDを取り出して、それを外付けHDDにする、ということを思いつく。98年に買った重たいiMacを、キャリアーにくくりつけ、ソフマップ川越店まで歩く。そこで、解体してもらう。わたしの思いついたことは、すでに行っている人もいるらしく、そのHDDを収納するプラスティックケースも売っていた。そのケースには、電源をとるケーブルも用意されているし、USBにつなぎやすいように、ジャックの形を変えるケーブルもある。便利〜。

家電(ファミリー用ビデオカメラ含む)の世界は、なんか、「だからなんで?」ということが多いのだけど、こちらのデジタルは、確かに、ユーザーとデザイナーの境界がなくなる、という理想が、うそでもないのだなと思う。

韓国の小学校のことは、案外、楽に考えてよいもののようだ。行く方向で、決まってゆく。C&Mのエルサレム展示の直前コーディネートは、韓国からすることになるのかな。絵の仕事のポートフォリオを作らなくてはならない。パフォーマンスもさせてもらえれば、うれしいのだけど、その件についての返事はない。もしかして、パフォーマンスアートなんて全く知らない人たちなのかもしれない。仁川芸術文化財団というところの人たちは。

今日の午後は、HDDのことが面白くて、ちょっと浮かれた。明日は、じっくり生きるぞ。

以下はなんだかわからん。わりといやな想い出。つっぷしているのがわたし。ヨゼフボイス通りというところだった気がする。後ろに丹羽君。




23.3.10

red marking

今日は、姉に頼まれて、池袋のbic cameraで、ビデオカメラを買うのを手伝う。今は、内蔵メモリーが主流になり始めているらしい。だけど、DVminiカセットの時代と違い、iMovieなどで、編集できるものは、よく吟味しないといけない。使えないものも多いらしい。姉の場合は、子供の卒業式や発表会を撮るのが目的なので、編集せずに、そのうちDVDに焼くか、PCに外付けHDをつけて、やはり編集せずに、流し込めばいいみたいなので、問題ないけど。appleのサイトで、調べてみたけど、ややこしい時代になったものだ。もう少し、ミニカセットを使うので、様子を見たい。

昼は、姉と、立教大学の近くでトルコ料理を食べた。


夜遅く、韓国から電話があって、レジデンスプログラムに招待された。小学校のプログラムと連動するらしい。子供は、どちらかというと、かなり苦手な方だけど、行っておくかな。5月に20日間。パフォーマンスアーティストとしてではなくて、画家として。でも、パフォーマンスも作っていいかしら?とメールしておいた。いくつか条件の確認。

以下の写真は2004年、東海市のビーチでのパフォのドキュメント。文字は「私たちの愛する海」と書いてある。

行くなら、6年ぶりだなあ。

21.3.10

行き来



イワサキく〜〜ん。これでよいのですか? あなたは、奉行所の門に落書きをした方ではないですか。まあ、わかります。それより、約100年後には、爆弾しかけられたんだもんね。こうなるのは、当然だ。攻撃したり、守ったり。立場が、行き来するのが、世界というものですね。


ところで。
いろいろ考えた。ソロパフォーマンスをしても見に来ない人が、企画ものをすると見に来たりする。たぶん、わたしのものだけを見るのは、重荷なんだろうなと思う。ちぇ。わかんなくもない。でも、企画ものは、来ないで、ソロイベントの時は、来てくれる人もやはりいる。ありがたい。両方来てくれる方々は、わたしがあの世に行っても、忘れません!
だが、人気の度合いで、やっていくべきこと決めるのは、違うのだろう。
今後もディレクターとアーティストを、行き来していては、中途半端なのりから、出てゆけない。なので、決断することになるのか?

以下は、ドイツの19世紀から大きくなった重工業の「クルップ」の20世紀初頭ごろ〜中頃の社長の銅像。近代国家主義の興隆とともに、各国の兵器製造の御用達となったわけ。この会社の社長は、第二次大戦の後、ナチに協力したので戦犯として、しばらく投獄されていた。その後、会社は盛り返したけど、今はそれほどでもないらしい。因に、徳川の最後のころも、明治も最初頃も、日本は、この会社から、大砲などの兵器を買っていた。

......う〜んと。誤解されがちなんだけど、わたしは、そういう制度を批判しようとは思っていません。関係とか、構造とか、そういうことに関心があるのです。ですから、ミツビシファミリーを攻撃したり、迷惑をかけたいとも思わないし。むしろ、その歴史の厚さや、歴史の皮肉に興味があるのです。

19.3.10

Blind Game

昨年11月に台北の大安公園で行ったパフォーマンスを、やっとこさ、アップしました。
Blind Game 記録映像アップしました。 以上、ArtiTへのリンク。説明はこちらにあります。

17.3.10

エレクトロニカ後

少しネット状況の進展。すべてのメールをG-mailで見ることにしました。そうすると、電車の中などで、メルマガを読んだりできます。iPodは、free wifiでもないと、新しい情報は入らないし、返信はできないけど、読んでおく、ということはできます。大事なファイルやとっておきたいメールなどはPCに向かった時に、ダウンロードしておく。このことで、PC内が重くなることを、自然に阻止できます。ま、ずっと前からそうしている人も多いでしょうね。

最近、パレスティナの人とFacebookを通じて知り合いになりました。全く知らない人ですが、わたしのパフォーマンスのビデオを使って(たぶん、YouTube)パフォーマンスアートについての、プレゼンをしたんだそうです。積み重なる死体をイメージしたものだったので、それ知っていたのかしら〜と、不思議な気分になりました。Listen! という心臓音を聞くパフォーマンスです。

Twitterは最近、「活用術」講座がたくさんあって、とても、期待されているみたいですね。わたしも、たまに、耳より情報があるにはあります。でも、何百とフォローしている人は、返って見逃しているんではないかな。実際、早く知らなければならないことなど、それほどないですよね。ただ、目次としてはいいかもしれません。それから、親しい友達のリアルタイムなつぶやきが見られるのは、楽しいかもしれませんね。でも、わたしは、それほど、いろいろ親しい人はやってないみたい。政治には、有効だと思います。常に、誰かとつながって、情報を出し合う必要のある人には。

でも、自分に集中するためのまとまった時間が、ものつくりの人間には必要だし、孤立した感じも大事よね。どんな「エレクトロニカ」なつながり体験よりも、悠久で、隔絶した時間の方が、ずっとラディカルだと今は感じています。
っっっどよ〜〜〜んと、時間の厚みを感じる、何かをみたいし、やりたいです。

孤独な人。その自分の声を、自分の身体の中で、こだまさせているのだろうと感じさせるような人。人間という異常な生物の邪悪さが、裏返しに見え隠れする。密度のある身体です。しっかり丸めたお団子のような感じでもある。内面的であるかどうか、とは別の意味で。それが、制作には必要。

たぶん、エレクトロニカなことを知った後と、知る前では、違う感覚になるにちがいありません。妙なところで、妙な出会いがある、という点で、エレクトロニカな世界も、捨てたものではありませんから。知覚の感覚に影響がないはずが、ありません。

以下、Art iTヘのリンク。上記とほぼ同様の内容。
つながり/孤独な時間の大事さ

生の意識の感覚について

「生の意識」の感覚についてのパフォです。ユーモアも感じられれば最高。
(以上は、ART iTヘのリンク。以下の文と完全に同じではないです)

現在準備中のパフォです。どこで行おうかと考えています。

今、行おうとしているパフォーマンスは、今年の1月に亡くなった父のいまわのキワのアクションがヒントです。「生の意識」ということの感覚の、作品です。ユーモアも感じられれば最高です。

「どこかでできませんか?」などど、甘ったれた問いかけをしてみたけど、やはり、どこからも「どうぞ!うちでしませんか?」とは言われなかった(あたりまえか)。

こうして、私はこの20年近く、国内でパフォーマンスする場合の8割くらいが屋外でした。スペースはすべて、誰かの持ち物なので、「場所」というより「人」との関係が、影響します。今のところ、まだ、「人」との良い関係が築けてないのですね、私は。レンタルスペースは、モノとしての気配がどうもよくないのです。誰かの大事な場所を、無理矢理頼んでさせてもらっても、気まずくなるし、昨今のコミュニティアートの方たちの意見を聞けばわかるように、「彼らのためになる」ことが、大事なのでしょう?アーティストの自由さなんて、わがまま、そのものみたいだから? わたしも、悪い子なので、何か、計算高かったり、いじいじした気配の場所に立ち会ってしまうと、皮肉を投げかけたくなるのを、止めることができないです。
きっと、そのうち、.......わたしにとっても、彼らにとってもよい、という場所がみつかるだろうと思っています。想像力のためにだけある、といったような、美しい場所。
営業マンのようになって、プレゼンしてまわるというのは、何か、違っているような気がするので、あせらないことにします。そうこうしているうちに、屋外パフォーマンスのエキスパートになってきましたね。

さて、....... 地下鉄の通路がとても好きなので、いいところを検討中です。特に、副都心線の近辺は、新しいので、気持ちいいですよね〜。多少、人々が行き来している中で、行いたいです。

ところで、このところ、TVで、もう亡くなっている方や年長の方々のインタビュウを見ることがあったり、古い本をたまたま見たりしていて、はっとすることが多いです。彼らは、ゆっくりとしたぺースで、恐ろしく気長に落ち着いて、制作をし、深く深く思索をしておられました。

価値ということを、浅く考えてはなりません。即物的な価値に走りすぎているかも。「今ここ」とか「未来」とかに、このごろの方々は、気を払い過ぎではないですか?なぜ、若気の至りみたいなアートばかり、見せられちまうのでしょう?元気だけが、取り柄ですか?それは、日本に元気がなくなっているから?短絡的。古い歴史を持つ国には、似合った方法があるのでは?キュレーターが私の世代であることに、そのヒントがあるのかもしれません。うすっぺらな未来志向はちょいといやであります。オブセッションではないでしょうか?

写真は、高島屋の中の三菱東京UFJのATM。カメラは丹羽良徳君。

15.3.10

新しい作品

行いたいパフォーマンス作品があります
(Art iTへのリンク)

行いたいパフォーマンスがあります。新作。
空間の面積、屋根の有無、床の状態、問いません。ステージがシアターぽく高くなっているところは、NG。
一切の道具を使いません。時間は、1時間以内。
ギャラはいりません(あたりまえか?もちろん、くれたら感激)。

どこか、あったらご紹介くださいませ。(図々しいか)

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最近、「この人はえらい!」と思っている人が、ぞくぞく、所属先をやめて「新たな出発」をされていて、驚きます。こちらは、水没溺死寸前なのに、まだ、飛躍できるなんて!! 境遇格差社会ですな、やはり。でも、まあいいや。 自分の場所をきちんとやろう。


空間をゆううっくり、動きます。


以下の写真は1991年。まだ、パフォーマンスでも絵を描いていました。ふたりの男は、懐かしいガネーシャ商会。そういう人たちいましたね〜。

ぴょんぴょんぴょん

アルスエレクトロ二カ展、つまらなかった。けっこう、楽しみにしていて、アルスエレクトロ二カ、アルスエレクトロニカ、アルスエレクトロニカと、朝から歌っていたくらいなのに。
それについては、短いけど、Twitterにも書いたので、このページ右のTwitterを見てください。

それから、C&M Tのミーティング。皆さんは、今後も続くものと考えているのか、いないのか、まったくわからなかったので、その辺を聞いてみる。すると、まだ、「はじまったとこ」と考えているらしいということがわかる。それはOK。
次に、「もっと面白くするには?」と言う問。面白い展開でなければ、と、阪中君の意見。むずかしくも大事なところ。今のところ、同じ大学の学生であること以外に、彼らには、実は共有するものがあるように見えない。つまり「面白い」の意味が、同じかどうか。たとえばチンポムみたいにみんなで同じ作品を作るということはないと思う。
Artists initiative だとか、Real time crisisにおけるArtistsの役割、と言っても、抽象的すぎるのだろうな、と思う。そういうことでなければ、死んでしまった方がましだと思うほど、切望してはいないんだろう。プロデューサーに便利に使いまわされる芸人になるのは、どうも、いやだ、というところはあるみたいだ。
5月にエルサレムに行くグループが何を感じて帰ってくるか、で、続きが始まるのかもしれないし、それでも、何も始まらないかもしれない。だからと言って、わたしは強制はできないからね。わからないことを、わかったふりをしない、という頑固な正直さが彼らのよい所であり、じれったい所でもある。何かやって、何か一緒に強く感じることがあって、ついに「これをやろう」と思うのだと思う。
尊王攘夷のようなわけには、いかんいかんいかん(土佐のピエール瀧)。

わたしは、と言えば、自分に課したことがあって、それがまだ、目に見える形になっていないので、自分のことは、まだ、なあんにもいえんいえんいえん。


ぴょんぴょんぴょん。

12.3.10

白いキャンバス

久しぶりに一日家にいる。

DVDの中の映像を取り出すフリーソフトが、あるなんて、知らなかった。少なくとも、2007年にはなかったね。それで、 今、作業中。
それに味をしめて、もしかしたら、あれも、あるかも、と思ったソフトもあった。それも今、使用中。
便利になったといえばなった。でも、忙しくもなったかな。

猪熊弦一郎というもうずっと前に亡くなった画家のインタビュウが、TVであった。絵を描くってことの、わたしが勉強し始めていたころに行っていた、なつかしい感性。白いキャンバスから、絵が浮かび上がってくるということ。著名な画家から、学生まで皆ほぼ同じ事を考えていたのだ。そういうことを考えなくなって久しい。あれは、役に立たない考えか? それとも、原点は同じか? 

利休のことなど考えてしまうと、「いい絵」とか「魂のこもった本物」とか、そういうことが、もやっとしたもののような気がするのだ。わたしは、そこを行き来している。

8.3.10

モノとしての作品

モノのことを考えた。

禅画や茶の湯の感じなら、かっこいいと思えるかもと。でも、禅ってなんか、おっさんぽいし、ガイジン好みみたいなもんだし。どうも、まだ、しっくり来ない。だから、禅画はいやだな。では茶の湯でしょうか? その「どれ」と指差せないのがよいな。こういうのを、外国で見せるのではなく、日本専用として考える。ガイジン、遠巻きでしょ、これは。

自分の文脈考えたい。

モノ以上になるモノのこと。

左上は、ケントリッジのドュローイング。このおじさんの水により、次の人魚は溺れかけている。「溺れ人魚」というタイトルなんだけど、そういえば、人魚って溺れるんだっけ。








7.3.10

自分という範囲のなさ

今日はどこにもでかけない日だったので、一日、これからのことを考えて過ごした。あまり、何もはかどらなかった。

以下は、C&MダブリンのMoranの作品。

5.3.10

壊すこと、隠すことが多い

C&Mのもえちゃんに頼まれて、先日の対話展の写真をどこかにアップしようと思い、でも、1枚1枚アップするのもめんどうなので、思い切ってPicasaのアプリケーションをダウンロードしたら、............ PC内のすべてのシャシンを検査されていて、どれほど、たくさん入っているのか知らないけど、まだ、続いている。怖い。デジタルは心底怖い。

今日は友達の内装工事の手伝い。壁紙はがしと壁紙はり。あしたもやります。で、友達と話をあれこれ。彼は、アートがしたくて上京して、あれこれしているうちに、今は、良い夫良いパパになり、毎日とても精力的にはたらいていて、家も車も買って、充実している。でも、アーティストでありたいと今も思うし、その気持ちと闘い続けているらしい。生計が成り立たないことや、社会性を考えると、まじめに働き、大事な家族を持つことを選ぶ事になったわけだが、「ものを作って表現をしたい」という気持ちをどう整理したらいいのか、わからない、という。

そんなことを聞きながら、わたしは「作りたい」という言葉の前で、ちょっと戸惑う。わたしは作りたいか?
たぶん、作りたいのとは、違っている。
「何か強いセンスを表出したい」という感覚なのではと思う。それをどう行うか。
わたしの絵も作ったものというより、紙を傷つけることでできている。エンピツのドゥローイングにしても、紙を削っている感覚だ。だから、塗りたくる絵の具が苦手だし、使うときは「こぼす」ようにしか使わない。
パフォーマンスも、何かを、壊していることの方が、組み立てているより、断然多い。

そんなことに気づき、よくわからないけど、わかったようなわからないような気持ち。
強いセンスを表出、というのは、やはり、焼き付ける感じ。
ものをつくる人たちとの、大きな差を感じた。ある意味、マイナスだし、ある意味、そういうももありでしょ、と言ってみたい。

そうして見ると、モノを作ることの、神聖さ、あるいは、通俗さというのも、感じてみたりする。通俗なんていうと、作っている人に悪いけど、すでにこの世には、モノがいろいろあるので、付け加えることもない、ということを、感じている自分の事も思う。


写真は東京都現代美術館での探し人。いなくなる、とか、想像だけで行うとか、そういうのに、惹かれる理由も自分でわかってくる。やってるふりと思う人もいろんだろうけど、わたしが信じたいことって、その辺にあるような。目に見えることしか、信じない人とはいつも話が平行線。


4.3.10

ひしゃげた犬

本日のお気に入り。梶山俊夫さんの書票作品。このひしゃげた犬が最高。しっぽの巻き方が不思議。書票というのは、自分の愛蔵書に、「自分のものである」ことをしめすために貼る切手みたいなものです。今時はあまり、聞かないことばですが、大正、昭和にかけて、蔵書家のしゃれた趣味として、使われていました。ルーツは、ヨーロッパですけどね。
これは、「ムラヤマ」という人のものです。梶山さんは、その人のために描いたというわけです。因に、ムラヤマさんは犬を3匹飼っていて、いろいろな画家に犬の絵を注文していたみたいですが、わたしの目ではこれが最高!!
因にわたしの世代なら、ほとんどの人が、子供の時、梶山さんの絵本を見たはずです。正直子供の時は、わからんかった、このデフォルマッション!!

書票を描いた人で有名なのが、たぶん、武井武雄さんや、芹沢銈介さんあたりなのでしょうが、わたしには、けっこう、つまんないです。品はあるとは、思うけど。デザインののりなんだと思う。なぜ、私が「へんな絵描いちゃった!」といった絵が好きなのか、自分でわかりません。同病の方、おられると思います。

3.3.10

自殺対策強化月間だそうです

(さっきまで、自殺強化月間って、書いてました。大間違いです! 自殺対策ね。)

実は、OS9のパソコンが壊れて、ホームページがアップできなくなっています。1万円くらいなら、直して使おうと思っていますが、愚かでしょうか。
あのホームページのソフトでできることは、現代のホームページになれてしまっている人たちには、低すぎる。見にくいと思う。醜いほどでもないが。

ところで、twitterはじめて、1週間ちょい、経ちました。
NHKで特集を見たのをきっかけに、ユアサさんをフォローしてみたら、ユアサさんのまわりの方々が、続けて、わたしをフォローし始めました。どんどん来るのかと思ったら、でも、2つで止まった。でも、それでも、なかなか、いい宣伝になっています。3月1日から自殺対策強化月間「いのちを守る睡眠キャンペーン」なんだそうです。それが伝わった。失業者でなくても、ストレスで、苦しんでいる人はとても、多いですよね。「眠れてますか?」



話変わって。今日は、「待ってみること」もとても、大事だし、その時間を味合うこと(振り返る)は、なかなか素敵だということを感じました。

今日から、「他人の絵を描く」ということをしばらくしてみようと思います。言ってみれば、模写なのですが。他人はイメージの宝庫なので。「自分をわかってもらう」ということにさく時間より「自分が進化して行く」時間を感じる方が、かっこいいと感じる。自分の意識の届かないところに、自分の技が行っているときが、一番、良いのです。


写真はまったく関係なく、「マサチューセッツ州議会ビルで倒れ込む」わたし。このブログのタイトルに、この写真があると、「そういう」意味みたいに見えてくる。


1.3.10

この世で確かなものは死と税だけである

この世で確かなものは、死と税金だけである。In this world nothing can be said to be certain, except death and taxes.
(ベンジャミン・フランクリン)


今日は、父の税金の申告を書く。医療控除を計算する作業がなんと言っても多い。年金のほとんどを医療関係で使ってしまっている。でも、結局のところ、たいして結果(還付金)は変わらない。数万多いくらい。税金のしくみってすげい。税金は人間の世界からは消えない。

ワシントンさんの足下で。