17.3.10

生の意識の感覚について

「生の意識」の感覚についてのパフォです。ユーモアも感じられれば最高。
(以上は、ART iTヘのリンク。以下の文と完全に同じではないです)

現在準備中のパフォです。どこで行おうかと考えています。

今、行おうとしているパフォーマンスは、今年の1月に亡くなった父のいまわのキワのアクションがヒントです。「生の意識」ということの感覚の、作品です。ユーモアも感じられれば最高です。

「どこかでできませんか?」などど、甘ったれた問いかけをしてみたけど、やはり、どこからも「どうぞ!うちでしませんか?」とは言われなかった(あたりまえか)。

こうして、私はこの20年近く、国内でパフォーマンスする場合の8割くらいが屋外でした。スペースはすべて、誰かの持ち物なので、「場所」というより「人」との関係が、影響します。今のところ、まだ、「人」との良い関係が築けてないのですね、私は。レンタルスペースは、モノとしての気配がどうもよくないのです。誰かの大事な場所を、無理矢理頼んでさせてもらっても、気まずくなるし、昨今のコミュニティアートの方たちの意見を聞けばわかるように、「彼らのためになる」ことが、大事なのでしょう?アーティストの自由さなんて、わがまま、そのものみたいだから? わたしも、悪い子なので、何か、計算高かったり、いじいじした気配の場所に立ち会ってしまうと、皮肉を投げかけたくなるのを、止めることができないです。
きっと、そのうち、.......わたしにとっても、彼らにとってもよい、という場所がみつかるだろうと思っています。想像力のためにだけある、といったような、美しい場所。
営業マンのようになって、プレゼンしてまわるというのは、何か、違っているような気がするので、あせらないことにします。そうこうしているうちに、屋外パフォーマンスのエキスパートになってきましたね。

さて、....... 地下鉄の通路がとても好きなので、いいところを検討中です。特に、副都心線の近辺は、新しいので、気持ちいいですよね〜。多少、人々が行き来している中で、行いたいです。

ところで、このところ、TVで、もう亡くなっている方や年長の方々のインタビュウを見ることがあったり、古い本をたまたま見たりしていて、はっとすることが多いです。彼らは、ゆっくりとしたぺースで、恐ろしく気長に落ち着いて、制作をし、深く深く思索をしておられました。

価値ということを、浅く考えてはなりません。即物的な価値に走りすぎているかも。「今ここ」とか「未来」とかに、このごろの方々は、気を払い過ぎではないですか?なぜ、若気の至りみたいなアートばかり、見せられちまうのでしょう?元気だけが、取り柄ですか?それは、日本に元気がなくなっているから?短絡的。古い歴史を持つ国には、似合った方法があるのでは?キュレーターが私の世代であることに、そのヒントがあるのかもしれません。うすっぺらな未来志向はちょいといやであります。オブセッションではないでしょうか?

写真は、高島屋の中の三菱東京UFJのATM。カメラは丹羽良徳君。