27.3.10

職業と言えない事

今日は友達ののぎさんのオープニングがあって、ちょっと参加した。これまで作ってきた作品群からセレクトされたいかした回顧展になっています。タイトルは「やくたたず」。手触り良し、時に恐ろし。触ってよいそうです。
http://www.outofplace.jp/TOKIO%20OoP/Current.html


 ところで、........ どうやら、今日に限らず、最近私は、画廊のオーナーさんやキュレーターさんに会っても、どうも、何か私に関係のある方、という感覚をあまり、持たなくなった。なんか、曖昧な言い方だ。気分の曖昧。当たり前だけど、知っている人は当然知っているし、知らない人は知らない。わざわざ、誰かの心を、わたしの手を持ってゆらして、「わたしはアーティストなんですよ」と強調しても、たいして、世界とわたしの関係が変わるわけでもなと、とこのごろの気分。作品がわかる人にとって、わたしが芸術家であればそれでいいし、そうでなければ、ただのオバハンでかまわないのかもしれない。作品を先に知ってもらい、あとで、人間という順番が好ましい。ま、理想だけど。

それは、「芸術家ということが、実際、職業とは言えない理由」かもしれない。
言ってみれば「癲癇持ち」かどうかみたいなことかも。「癲癇持ち」を、なんでもない時に他人に知らせてもしょうがないでしょう? 相手が困るだけじゃない? 症状が出た時に「ええ、癲癇持ちなんです。すみません」と言えばいい。「そうなの?お大事に」.....これでよい。芸術は、そのように、制作されるのが、よいと思う。社会貢献するものではないと思う。こっそり、影響しているだろうとは思う。

その前に、原美術館で、ヤン・フードンの映像作品を見た。あんまり、面白くない。意図はわかるけど、それだけなのか?と思ってしまう。たぶん、風景画に若者が立っていたり、作業したりしている絵でよいものを、映像にしているのかもしれないと思ってしまった。その上、映像に出て来る女子たちが皆AV系の表情、服装なのには違和感。そういう役ならわかるけど、そうでもないらしい。作者の女性へのセンスが丸見えで、はずかしい。ところで、中国のアーティストって、とても、期待されているよね。デビュウして、あっという間に、かなり費用のかかる機材が使えるようになるんだね。「将軍」についての映像は、ヨーロッパの人が見ると、興味深いのであろうと思った。共産主義社会への偏見まじりの視線。テーブルの上の映像は楽しい。話の内容やら、ピアノの音やらが、特殊に皮肉な気分を誘った。リアリズムと演出の境界が移動するかゆさ。例によって女の子たちがいやだったけど。複雑に感覚を刺激されたので、この作品は、見てよかったと思った。「芸術家ということが、実際、職業とは言えない」というのは、ヤン・フードンがインタビュウで言っていた言葉だ。

ウエスタンスタンダードのことを考えていた。わたしのパフォーマンスの作品は、かなり、西洋よりだと思う。なぜだろうかと考えた。小学校に上がる前から、ピアノを習ったからでかもしれない。ピアノだけでなくて、子供用ではあるが、楽理もやった。時間を構成や幾何学として考える訓練がされていたのだと思う。コンセプトといっても、社会主義みたいなやつではなくて、構成のためのもの。エモーションを、♪や図形に換えている。

ところが、わたしのドウローイングやイラストは、全然、ウエスタンではない。どちらかというと、一筆書きの禅画とか、落書きとか、文字に近いし、説明のつかない感覚的なものでやっている。子供の時から見ている本の挿絵が源流だと思う。西洋絵画みたいに、画面全部が塗りつぶしているあるのは、くどくて、好きにはなかなかなれなかった。でも、やらないと大学生になれないらしいので、一生懸命、塗り塗りしていたけど、あんな、面倒なの嫌いなの。さっと描いてキマっていれば、いいではないの?と思っている。この辺の自分の美意識を最近、探っているのよ〜。