29.4.11

先週のひとつめのイベント、「橋」ということ 



4月21日のDressHallでのイベント、4月24日のシャトー2Fでのイベント、来てくださった方たちに感謝します。
   今回は、どちらも、皆さんの御協力もあり、気持ちよくとり行うことができました。勿論、アーティストとしては、反省や今後の課題もありますが、プラスの意味の勉強もあります。まずは、一つ目。http://kokucheese.com/event/index/9976/
 藤原伸介さん企画の「職業探訪記」というイベント。ギターで情熱的に歌を歌うジョフィー・ランデブーさんと私が、司会者である藤原さんに呼ばれて、職業を選んだ経緯や考えについてのインタビューを受けたり、パフォーマンスをしたり、です。

<ジョフィーさんとのトーク>
ジョフィーさんは、打ち合わせや、楽屋で会っている時と、ステージに上がってマイクを持った時が、あまりに別人なので驚きました。突然、ジョーク飛ばしのMCモードってやつになってしまった。楽屋では、生真面目で、かなりシャイな人でした。彼は、とことん、観客に対してサービスする立場として、ステージに上がるんですね。お笑い芸人さんの付き人の経験があり、「観客が喜ばなくては意味がない」と彼はいいます。なるほどです。でも、そういうステージを見たことがないので、私には何が起きたのか、ほとんどわかりませんでした。ちなみに、彼はステージとそれ以外とでは人柄は変わるけれど、どちらも、けっこう、いい奴なんです。最終的に、どっちも嘘ではないと感じました。むしろ、ステージだと解放されるのかもしれません。

ジョフィーさんからすると、私に対する驚きは、それ以上だったかもしれないです。見た事もないものを見た、という感じ? イベント終わってから、一緒に、食事に行き、私が冗談飛ばして陽気にしていたら、「ステージでもそうだったらいいじゃないですか?」と彼は言いました。固そーな人だったと思ったらしい。面白いです。つまり、私だってモードチェンジしています。

確かに「つくって人に何かを見せる」ということにおいては、同じなのです。何も作らないということはできない。シャトーマルゴーで仲間である、直方平さんは「つくらない会代表」をしています。「つくらない表現」を目指している。でも、私が思うに「つくらなくする」には、「人間以前」になるしかないかもしれない。人間の行為は、すべて、他者との関係によってできています。では、一人でいる時はどうか?と言う質問があるかもしれません。しかし、それも、人間が成長する段階で、回りの人を見て、覚えたことです。その時に誰かに見せていないということが、見せている状態とそれほど、違わないかもしれないし、だから、その問はあんまり意味がないようにも思います。

以前、観客をわざわざ呼ばない屋外イベントというのを、何回かしたことがありますが、その後、観客がいる室内イベントをしたら、する事が全く変わるパフォーマーがいました。私には、観客のいるいないに違いがあるとは思ってませんでした。「観客は呼ばない」と言っても、知っている人は少数は来る予定だったわけですが「公演」でなければ、「本番」とは思わない、という感覚があることを、その時知りました。

ところで、この日観客は4人だったけど、ジョフィーは一生懸命やっていました。彼は、いい成長をする人だと思います。まだ、25歳です。にもかかわらず、歌のテーマは「昭和」です。なぜかなつかしい歌声です。ギミックですね〜。

<パフォーマンス「白い時間」>
さて、私ですが、パフォーマンスの前に、DVDで過去の作品を2つほど見せました。その日行なうのとは、全く違うタイプのものです。

それから、その場でのパフォーマンス。冷蔵庫のコンセントなども抜いていただいて、なるべく「静寂」を作り、細かい音に集中できるような状況をつくりました。と言っても「音のパフォーマンス」がしたいわけではありません。「息」を意識したかったです。今年に入って声を使うパフォーマンスを2回ほどしましたが、私にとってそれは、「音声」である前に「身体からの音」というところに意識があります。息は、不思議な事に、それが聞こえると、むしろ、息がない、状態を連想してしまいます。そうではない? その付随物として、薄葉紙がかさかさ鳴る様子も加えました。衣擦れのようだから。私のポケットの中から、折り畳んだ紙を出し、ゆっくり広げました。その時なる「音」は、これも「音楽」としてではなくて、物質感です。

前半は一人で行ない、後半からは参加型です。私のポケットから出た紙は、折り鶴に変身しますが、その後、鶴の腹のところに吹き込む私の息で、すぐに、ただの広い紙になってしまいます。それをその場にいる人の人数分の倍の紙に、はさみで切り分けます。ひとり2枚ずつ受け取っていただきます。エンピツを配る。

私は「誰か亡くなった方を思い出してください」と言いました。「会った事のある人でもない人でもかまいません」。「1枚に紙にはその人へのメッセージを、もう1枚にはその人の思い出を書いてください。発表はしませんから、好きなことを書いてください。」「メッセージの紙は私のところのテーブルへ、思い出の紙はポケットに。」

私のところに集められた紙は、丸めて私は、私の口にほおり込みました。口の中で、唾をよく出して、ゆっくり丸めて行きます。それから、空也上人みたいに舌の上にのせて外にだす。空也上人の出したものは、念仏でしたか?(最中じゃないよ〜)

口から出した白い玉(直径3cmくらいでした)を手にとり、皆さんと一緒に神田川に行きました。この時、川越の土産物屋で買ってきたきつねの面を、観客のひとりに方に被っていただき、川までの行列の先頭を歩いてもらいました。Dress Hallのある秋葉原の地の神様は、火伏の神様であるお稲荷さまだと聞いたことがあります(秋葉神社ではありません)。地の神様に守っていただき、川まで行き、橋の真ん中の欄干から、その玉を、川に落す。落した白い紙つぶて玉が、下流にゆっくり流れていくところを、みんなで見送りました。時刻はもう9時過ぎていて、夜のしじまに薄れてゆきました。

今回は、けっこう象徴的な要素を使いました。今の時期「喪」ということを感じてやまなかったので、アーティストの身体のひとつのあり方として、もっとも古典的な「シャーマン」の要素を意識し、小さな、小さな、儀式を執り行いたかったのです。ベーシックな感じのするパフォーマンス。(というか、アート作品ってみな「喪」ではないかとすら、思っています。)
 要素として使ったものを列記してみます。

ポケット
折り畳まれていること


呼気と吸気
衣擦れ


舌の上に載せる
空也上人
唾液
白い玉
紙片
2つの紙片
書き込む

ねり歩く

引き潮
きつね面


行方を追う
見送る
持ち帰る


<コミュニケーション不可能な存在への恐れ>
後で気がついたのですが、川に落ちたものをみつめるという行為は、特に言わなくても、人はしてしまうようなものですね、思った以上に。そして、それが消えて見えなくなるまで、まるで「みんなの出来事」かのように、見送ることができました。確かに、皆さんの書いたものですから、みんなの出来事です。読み上げることもなかったので、それを知るのは、川のお魚くらいです。あるいは、私の舌かしら。


静かに流れる川も、津波も同じ、自然活動なのです。秋葉原あたりだと川の流れは、地の高低ではなく、河口の潮の満ち引きが影響します。そう思うと、ゆっくり流れているけど、それは、有無も言わさず流されていると感じられて、恐れを感じてしまいます。特に何かをした訳でもないのに、白い紙の玉は確実な速さで流れてゆきます。私たちの立っているすぐ近くで、ガソリンで動かされている車、電力で光らされている電球と比べて、その白い紙の玉の動きは、とてつもなく、違った「もの」の動きです。それは、コミュニケーション不能な存在によってなされている。(車は止めれば止まるし、電気も消せば消せる)

コミュニケーション不能な存在。人間のことなど、関係ない存在。

   かつて、あるアーティストが言った言葉を思い出します。「私たちアーティストは、人間など必要としない神様の存在を示すのが仕事だ。」これはいわゆる例の神様が、人間に支持されて存在していること、つまり「あなたは神を信じますか?」なんてことを言う活動に支えられて存在していることへの揶揄ってことでもないのでしょうが(そうかな?)、まあ、そういう「社会活動」に関わる「神」は、その一部でしかない、ことを表していると思います。人間の社会も、人間ということの一部でしかないと言うこともできます。(そうすると、さっきの「つくらない」とはどういうことでしょう?)

皆さんが「ポケットに入れて持ち帰った」のは、紙に書いていただいた「思い出」の方です。それは、その人が書き、誰にも見せず、一人で持って帰っていただきました。それはその人の心にだけ、畳まれて残る。それは、そういう「コミュニケーション不能な存在」に対して、人間と言うちっぽけで、短い命の存在が、唯一「誇れる」勝利としての「想像力とそのフェティシズム」といったことを示したいと思いました。ちょっとだけ、カズオイシグロさんに影響を受けてみましたよ。フェティな面があるところが、文学ではなくて、アート。



アートは「橋」なのだと思います。能の舞台にある「橋」はとっても興味深いものですね。


20.4.11

アーティストの分?

私は悩んでいる。



アート作品って何なんだ? お金にすることができる。そして、それを義援金にする。それは一つの側面だし、それは意外とストレートで「分」をわきまえた考えかもしれないと思う。

一方、アーティストは、アートのアイデアを社会活動にしたい、表現活動として人々の役に立ちたい、と思うかもしれない。アートのお客さんを対象とした展覧会などで行なうのは、きっとやっている人もいるし、もっとあってもいいと思う。
  しかし、現地に入って行き、現地の中で、「義援」として行なうのはどうだろう。アートは本来、そういうことに深く関わっているはずだから、そういう役割は担えるだろうと私は思う(私は思いつかないけど)。ところが、友だちなど数人の人たちには、今はアートの出番ではない、アートは落ち着いてからだという意見が多い。もちろん、今すぐではないにしろ、準備している人はいてもいいかもしれないと私は思っている。もしかしたら、1枚のカレンダーに描かれた絵画が、誰かを癒しているかもしれないと思う。反対する人たちは、アートは「余裕のある時に楽しむもの」と考えているのではないか?と私は考えてみた。それとも、私が、アートに過剰な思い入れがあるからなのか? わからない。


さて。とある、有名国際アーティストがアースワークという形で、東北で作品のプロジェクトをしたいと言っている。そのアイデアには興味はあるけれど、だんだん、考えるにつけて、アートのアイデアを、こういうところで生かすには、たくさんの矛盾が出てしまうのではないだろうかと私は思うようになった。単純に「善意」と言いきってしまうことはむずかしいのではないか?と。喜んで受け入れられるか?の問いだけでなく、プレゼントとして贈ったとしても、そのプロジェクトの成功は、彼のキャリアなのだ。
そして、私は感じてしまう、アーティストの仕事の成功は、本人と、その回りで仕事した人のものにしかならないのではないか?しかも、彼の輝かしい実績の上にさらに、のっかってゆくことになる。世界最悪の惨事がきっかけになって。
それを、一般の人たちの多くと、本気で共有できるだろうか?「無名」の地元の被災したアーティストはどう感じるだろう?
やはり、アートは余裕のある人のためにあるのだろうか?
(マスターピースの発想がその可能性を阻んでいる。なぜ、遠くからやってきてそれをするのか。日本の為に何かしたいという言葉をそのまま聞くには、アーティストという生き物は名誉を求めすぎる。きれいごとは似合わない。地元の被災したアーティストから発せられたものに、賛同するという形なら腑に落ちるけど。あるいは、被災した地元にアーティストにアドバイスして、手伝うよというのも、良さそうだけど。)

社会彫刻。うん、わかっている。でもそれも、アート関係者にしか、通用しない概念なんだ...........


う〜ん。......................アーティストは、自分の表現に、あまりに多くを求めてはいけないのではないかな。たとえ、パフォーマンスのアーティストであろうが、「社会を変える」ようなことを考えるのは、どうか。やはり、アートとは「アーティストとアートファンの世界のことであり、それを文化と呼ぶのは、やはり、それが文化だからだ」。「人間の感情を扱っているからだ。」それは、誰にでも、うれしいものとは限らない。だから、アートスペースがあり、アートイベントがあり、観客は、それらの中から選ぶことができる。そして、被災地で、お客を選べるかどうか。


  たとえば、カズオイシグロの小説を読んだ人は、それを読んで感じた自分の心に、賛辞を贈るべきだと思う。たとえば、その小説のフレーズが、身近な人を亡くした後の心の痛みを癒してくれるかもしれない。カズオと出版社に対しては、本代を払い、小さくサンキュウを言うだけでいい。むしろ自分の心の動きをじっくり味わうべきだろう。それを選んだ偶然や、それを想像力を持って読み込んだ自分のセンスを、しみじみと感じるのが大事だ。アーティストは、その「発見」のために、いくばくかの報酬をもらう。それだけの「分」でいいのではないか。


-------

  あした、秋葉原のDress Hallという、小さなライブハウスで、パフォーマンスをする。人が忘れてしまうような、ささやかな「喪」のアクションをしたいと思う。しかも、これは、今回の災害の死者たちだけでなく、すべての、これまで「逝った」、身近の人たちに届けたい。そして、参加した方たちには、それは「ちょっとしたこと」という程度に、記憶してもらいたいと考えている。

19.4.11

絶望してはいけない 失望してはいけない

目に見えない、影響がはっきりわからないものに対して、パニックになっている。反原発や原発養護派の戦いだけでなく、反反原発やら、嫌反原発ってのも、ある。結局のところ、放射能そのものだけでなく、かねてよりの政府や大企業への反発ということがあるようだ。いつも思っていることが、つもりつもって、奮発している。そっちはあっちを××××と飛び、あっちはそっちを××と呼ぶ。反対側の発言をすると、こいつは××だとか決めつけて、二度とつきあわない!みたいになる。そんなの、悲しいじゃないの。人間は、情報に踊らされてしまう生き物なんだ。どちらにしても。

政府や大企業を信じないと決めている人は、どんな時にも信じないんだろう。そして、「市民派」をクレーマーだと思っている人々は、どんな時にも、情報を隠すんだろう。

ふう。

ジョークの一つでもかましてみたくなる。でも、思いつかない。



それにしても、アナーキストだって言っている人について行く人たちは、どうなってもいいってことかな。関東大震災では、どさくさに紛れてアナーキストの大杉栄が殺された。朝鮮人虐殺もたくさんあった。阪神大震災は大丈夫だったって言う人もあるけど、すぐ後に、地下鉄サリン事件があった。どれも、アナーキスト絡みだ。高円寺のデモに行った人は、アナーキストの意味を、いますぐ、辞書で調べた方がいい。「怒り」をどんな形で表現、あるいは昇華するか、冷静に決めようよ! 絶望してはいけない。踊らされちゃいかんよ。



おととい、カズオイシグロの特集番組がNHKであった。とても良かったと思う。
「記憶」は、死に対する勝利の証、という発想。すばらしい。ノスタルジーもそうだけど、そういう弱さゆえの想像力を「勝利」という言葉で表した。別の意味でのアジテーターだ、彼は。こういうアジが、私は好きだヨン。


ホームページにいろいろアップ中。古いヘチマのホームページはもうなくなりました。
おととし書いた身体論のこと、アップしました。こんなんじゃ、研究とは言えないけど、案外面白いと思います。よかったら見てね。

http://sakikoyamaoka.com/study%20body.html

17.4.11

来週の2つのイベント

来週の2つのイベントです。よろしくお願いします。


秋葉原Dress Talk Sawing Set vol.6 職業探訪記
日時:2011年4月21日(木)19:00 入場 19:30 イベントスタート 22:00 終了予定
料金: ¥1000(+1drink)
場所 秋葉原ライブホールDRESS
http://www.dress-tokyo.com/JR秋葉原駅昭和通り口より、歩いて30秒〕
企画::フジシンこと藤原伸介
内容:様々な職業の人を呼んで、トークをする。今回のテーマは、アーティスト。
ミュージシャンのジョフィー・ランデブーさんと山岡佐紀子が、フジシンと話す。パフォーマンスも行う。
因にジョフィーさんは、日本人です。アコースティックギターを弾くそうです。



シャトー・パフォーマンスアート・マルゴー 第4回パフォーマンス公演  "小金井で話す"

日時:2011年4月24日(日)14:30 受付開始  15:00-17:00(6名同時に開始)
                                         17:30- 報告&交流会(シャトー2F、約30分)
江戸東京野菜のスープが用意されるかもしれない。
場所:武蔵小金井駅周辺 数カ所
受付場所・インフォメーションデスク(マップ配布)小金井アートスポット シャトー2F  
       インフォメーションデスクでマップと情報が得られます。
       現在のそれぞれのアーティストの動きはツィッター、携帯電話などでの通信手段でも確認できます。
参加料:500円
出演者と内容紹介 :
山岡佐紀子
「こがねい」にはなぜか大学と畑が多い。「いがねこ」さんは、食(野菜)を通したコミュニティづくりをめざす大学生たち。野菜好き♡山岡。まずは、武蔵小金井で一番渋い純喫茶にて、彼らに会います。目印は、江戸東京野菜です。
村井元
日常生活につながりつつズレていく行為を作る私。あまり縁のなかった小金井に通うようになって、見回すと路上にさえも面白いズレかたをするものがいろいろ 。それらを撮った写真帖を片手に、何か話そうと思います。
直方平ひろと
こんにちは!直方平ひろとです。
今回は自分をフリーで公開、話さなくても見るだけで、どこか心に響いてくる、そんな存在論なパワーをぜひ召し上がれ!!! (注:会話可)
小林橘花
はじめまして。こんにちは。いい天気ですね。
今日はどちらからいらっしゃいましたか?通り抜けて行く場所で、耳を傾けます。あなたと、だれかの話でもしながら。
門倉緑
最近ある人に「きのこ」の本をプレゼントしました。その人は山できのこを探すと思います。私は小金井でキノコを探してみようと思います。今はまだ想像できないひとり言をつぶやきながら。
内田聖良
皆がそれぞれの場所で話します。そこから生まれる音や言葉を送ってもらって、シャトーにインスタレーションします。話の盛り上がりが、何となくわかるかも。
鈴木眞里子
友情特別出演。インフォメーションデスク担当。
   

10.4.11

ひとつにはならない

「にっぽんはひとつになる」キャンペーンが、ひと月近く続いて来ましたが、(震災直後はそうは言わなかったかも、ならば、3週間くらい?)そろそろ、「それはできないけど」空気が始まったのではないでしょうか。
今日の都知事選で。

Twitterで、私は、右でも左でも、文にそれなりの情報力や魅力のある人をフォローしているので、見ていると、「選挙」「原発」への意見は、確実に、割れているのはわかります。でも、こうしてこうもありありと「選挙」について、数字で表されると、気持ちははっきりきます。東京の多くの人は、「変化」が受け入れられないのですね。ならば、どの候補なら良かったか、ということは、私は正直わからない。けれど、もう少し「迷って」欲しかったと思います。
本当は、選挙は延期すべきだったと思っています。さっき、石原氏の会見を聞いていて思ったのは、彼以上の「パワー」を持った人物がいないってことが、問題なんだろうなと思いました。彼は、当選して、「怒っています」。当選を喜んでいる場合ではない、ということだと思います。(いくらかはポーズだろうけど)

それから、本日のデモ。楽しかったですか? こっちは、Ustreamなどを見ましたが、完全に祭りになってしまっているように見えました。なんか、楽しそうだ。なぜ、高円寺なんだ?誰に訴えているのか? 気持ちを同じくする人が集まっている??


当選して怒っている人。一方、怒るべき人たちが、笑って行進している。
すごく、へんだと、私は思う。日本人は「ひとつになる」ことが大事なのではなくて、ものごとを受け止める力が必要なのでは?


それから、私が参加している海外でのチャリティイベントの実行委員のボランティア活動の方。こちらも、ちょうど、節目です。一応、まだ私は協力はしますが、やることは、頼まれ事だけになると思います。なかなか、企画進行がうまくいかないこと自体は、やろうとしていることの難易度の高さから、やむをえないと思い、理解しています。なかなか興味深い方達が集まっているので、刺激的です。しかし、アーティストは何もできないと思われているみたいです。もう少し信頼して欲しかったな。

そして、そろそろ、私自身の表現として、私自身のメッセージとしてどうしていくか、考えをまとめる時が来たのだと思います。その上で、あらためて、ともに動ける方に出会えればいいし、出会えないなら出会えないなりに、自分へのおとしまえをつけていこうと思います。それによって、私は「責任」というものを感じ始めています。やはり、アーティストとして、呼ばれているところで、それを示すことになるでしょう。(だけど、その肩書きでしか、人を見られないなんてつまらないよ)


私は、人は、「人間」のことばかり関わりすぎていると、感じます。しかも、目に見える、近くの人のことばかり気にし過ぎなんじゃない? つまり、自分の、目に見える範囲の身体の、小さな村に、住んでいるのだと思います。そうではなくて、遠くにいる人、会った事のない人、それから、自然に起きていること、さらに、目に見えないこと(オカルトじゃないよ)、手に届かないことやその考え....... 月と自分の意識が同等に思えるほどの、想像力を持つことができる....... というのは、芸術ではない、易経の考えだけど、そういう意識は大事です。たぶん、近代以前の人間には、それがありました。有限の人生なんか、のりこえちゃえ。
そして、自然への畏怖を、どう定義するか。どう関わるのか。どう受け止めるのか。そういうことを考えています。
とはいえ、私のすることには、限りがあるが。(でも、気持ちは月まで行きたい)



とにかく、

皆さんも、ひとつになる、なんて言葉は、あまり信じてなかったと思います。ひとつになることなど、できませんよね。もともと。
でも、協力しあうことはできる。



<余談>

そういえば、母は石原氏と同じ年です。母は言います「あの人、あれで小説も書いているのよ、すごいわ」。「じゃあ、何か始めれば? 知事はできないけど、小説は書けるよ。」と私。「ネタはいっぱいあるのよ〜」と母はにっこり。まあ、年長者に、希望を与えたという一点において、都知事選は意味があったかもしれません。私の年齢でも「役立たず」扱いになるような「若年信仰」社会ですから。

6.4.11

フロンティア



小金井でいちばん「フロンティア」な純喫茶へようこそ。さて、ここでは、来たるべき未来の人間の生き方を考える。どんな空の下に住み、どんな空気を吸い、どんなものを食とし、どんなことを感じて、どんな人に会い、何を分け合い、どんな風に一生を終えるのか。安全の意味は何か。選択は可能か。シャトマルシュール山岡と、いがねこクール山中*1が司会をする。店の常連さんたちとも話せればいいな。座席は江戸東京野菜*2が目印。

*1いがねこクール山中 小金井周辺の大学生が集まり「食」を通して小金井まちづくりを模索しているサークルの代表。*2江戸東京野菜  東京地方に伝統的に栽培されていた野菜の在来品種。一度は姿を失いかけたが20年ほど前から、保存活動が始まった。小金井でも栽培を推進している。

4月24日 15:00~17:00 
まずはシャトー2Fでマップを手に入れてください。

シャトーパフォーマンスアートマルゴー 第4回パフォーマンス公演 http://chateau-pa-margaux.blogspot.com/

1.4.11

母の疲労

考えてみると、うちは2008年の暮れに父が倒れて以来、ずっと、同じような空気が続いていたみたいだ。この地震が、父が倒れる前だったら、私たち家族の「びっくり」はもっとだっただろう。たのしくて、のんきな日々に突然やってきた、という感じになっただろう。でも、うちの50 年は続いていた「のんき」な生活は、とっくになくなっていた。父が倒れて、寝たきりになった日から。

今年の1月は、父の喪があけて、母はようやく、何かを始めようとしていたところだった。確かに、我が家では、私の部屋の本と書類がひっくり返ったこと以外に、さほど、被害はなかったと思う。だが、78歳の母にしてみてば、節電で風邪をひいたり、買い物に気を使わなくてはならなかったり、テレビが毎日、不幸で不安なニュースばかり送ってくるのでは、疲労するばかりだ。だからって、テレビがおもしろおかしい番組をしてくれればいいというわけではない。社会の不安は、ごまかせない。
母は、疲労している。母が、第5くらいの人生を楽しみ直そうと思った矢先に、より不安の多い世界になった。
しかも、市役所から「介護予防」と銘打った「プロジェクト」のお知らせが来て、これから、彼女が直面するかもしれない、「衰退」の可能性がびっちり書いてある「介護予防手帳」が送られてきた。つい、2〜3日前に、彼女は本のかたづけをしていて、私が生まれた頃の「母子手帳」を見つけて、読みふけって、とても楽しかった、ばかりなのに。
その「介護予防手帳」は、彼女にとって、「不幸の手紙」みたいなものだったみたい。一晩眠れず、起きてみたら「5歳はふけた気分」だったそうだ。

だからって、私には対策はない。かわいそうだけど、彼女の試練かもしれない。せめて、彼女の好きな推理小説を次から次へと買ってきたり、おいしいものを作ってみたり、失敗してみたりするくらいしか、することが思いつけない。

明るいふりをして、だまされるほど、母は馬鹿ではないから。

そして、私は私を試し続ける。
アーティストだとかいう言葉に甘えない。
アーティストとは、職業ではないし、芸のできる人でもなく、「体質」なのであるから、もし、わたしの疑問が「おまえはくずか」であるならば、「くずでない」証明をするために、何かをする。もし、私のすることが、ものをつくることではなくて、パフォーマンスであり、それが、ショーケースにとどまるつもりがなく、Missing in Yokohamaみたいに、「生活空間」の中で問いてみたいと思うならば、それを、実践するしかないのだ。

それは、
これを読んでいる人が、想像しているかもしれない「東北のために役立つ」では、実はない。結果的にはそうなるだろうけれど、私が、私に課しているのは、別のこと。

それも、また、母の疲労のもとなんだろうな。

..........せめて、ジョークを。
よし、あしたから、ジョークの連発にきめたぞ。
おとうさんのまねをして。(あの人、ちょっと軽い人だったのよね、と母は言う)