31.8.09

サマーセミナーを受けておった

実は、イメージフォーラムの今年はじめての企画「サマーセミナー」のうち、2つの企画に、生徒として参加した。「フィルムヒストリー」と「濃縮講義:映像アートの最前線」。合計20日間。1回2時間くらい。勉強になった!!
フィルムヒストリーは、これまでちゃんと勉強したこともないし、あまり見たこともなかったので、知っておいた方がいいなと思ったからだし、濃縮講義は、様々なアーティスト、キュレーター、編集者などが作品を紹介しつつ、話をしてくれた。これもすんごい刺激になった。
知り合いがひとり、講師になっていて、彼女からのメールで、知った企画。
なんとなく、これまで、イメージフォーラムは遠かった......。

今、ノートを制作中。忘れないうちに。

(映画系は3日ほどあったが、まあ、わたしはあんまり興味ないかも。映画は映画でしかないと思う........って、映画好きの友達にメールをしたら、「そう?」と返事がきた。ちょっと説明できないけど、「そう」なのよ、わたしには。たぶん、多くの場合はドラマだから。)


テズカ氏が、8ミリフィルムから、16ミリ、32ミリとやってみて、8ミリに戻り、人物を映すのではなくて、イメージを動かす方向、しかも、手作りで「ひとりで作り込む」方向に戻っていったのは、感性的によくわかった。


最後の講義の石田タカシさんの、強烈な論理性と、しゃべればしゃべるほど、だんだん熱くなっていく情熱的な講義が、本当、千秋楽としては、最高キャスティングだと思いました。IFのディレクターさんにメールしとこ。


彼らの、ちゃんとした仕事(企画、講義の仕方、作品)に触れて、今年は本当に、日本にいてよかったなあと思った、夏である。知らないことが一杯ある、死んでいる場合ではないと思った。


関係ないけど、この夏読んだ本をひとつ紹介。

28.8.09

レポートの補足

前に出したレポートに対して「力作」というコメントを何人からかもらった。
つまり「長い」という意味なのだ(笑)。国際交流基金の人以外は、誰も全部は読んではいないと思う。
でも、内容も少しは認めてもらっているかもしれない。ありがたい。

なぜ、そうなったのか。
レポートはひとりで集中して仕上げることができるから。

短く書けば「オーガナイザー側の目的はわかってきた。でも、わたしはやりにくかった。」だけの話になってしまう。


アーティストの自由、については、ナイーブではもういられないと思っている。

21.8.09

クロアチア滞在レポートintroduction

Google Documentにアップしたりしたけど、なかなか、見られないようなので、オーソドックスにブログアップすることにしました。




















クロアチア滞在レポート
「シェルター(避難所)としてのアート」


2009年6月12日から22日までの10日間、クロアチアに滞在した。目的は、首都ザグレブのクロアチア美術協会でのレクチャーを行うことと、シュタグリネツ(Staglinec)という村で行われるパフォーマンスアートフェスティバルに参加すること。このうち、12日から15日までは、アドリア海に面した古都ロヴィンジ(Rovinj)に滞在し、クロアチアの田舎町を体験した。13日は船でベネチアへ行き、ベネチアビエンナーレを5時間だけ見た。
6月11日 成田発   6月12日 クロアチア、ザグレブ着
6月12日〜16日 ロヴィンジ(Rovinj)滞在 13日はベネチア日帰り
6月16日〜18日 ザグレブ滞在 17日レクチャー
6月18日〜21日 シュタグリネツ滞在 フェスティバル参加、20日パフォーマンス
6月22日 ザグレブ発  6月23日 成田着

因みに、国名のCroatiaをクロアチアと読むのはちょっとおかしいらしい。何度も「は?」と聞き返された。英語では、クレィシアと発音するらしい。国内では、Republike Hrvatska(ヘルバツカ共和国)という。このHrvatskaという国名は、1991年のユーゴスラビアからの独立以降のもの。第二次世界大戦前にも一時期、その名前であったこともあるそうだ。左写真は、地元のアーティスト、アントニオ・グレギッチ(Antonio Gregič)がシュタグリネツの会場の小屋に展示した作品。1860〜1914年のオーストリアハンガリー時代から数えて、この国が、計5つの国名に変遷してきたことを、ストリートネーム(ULICAはストリートのこと)の看板に見立てて表した作品。字体が、その時代の文化のカラーを表している。左端は、オーストリア=ハンガリー王国。右端の2Bは実際の番地。拡大してみてください。



















 オーガナイザーのヴラスタ・デリマー(Vlasta Delimar)とは、2005年頃に東京で会った。彼女が日本のあるアートイベントに参加していた時、わたしはお客としてそのイベントを見に行き、知り合った。その時、わたしは、挨拶代わりに私の作品紹介のプリントを渡していた。彼女は帰国するとすぐにメールをくれて、私の作品の写真と、そのテキストがとても気に入ったので、他の資料も見せて欲しいと。確か私のwebsiteを知らせたのではなかったかと思う。その後、会うことはなかったが、昨年の夏頃、今回のための招待を送ってくれた。彼女のフェスティバルは、今年で8回。国内のアーティストが中心で、若干のヨーロッパ内のアーティストが参加する。たぶん、アジアからは今回が初めてだろう。写真はヴラスタ。ちょっと若い頃だ。



















 わたし自身、ヨーロッパのフェスティバルはかなりたくさん参加した方だと思う。しかし、今回は、招待アーティストの立場から見て、正直を言っていろいろと疑問なことがあった。できるだけ、プロフェッショナルに行いたくてもそうはいかないことが多々あった。だが、その疑問を日々集め、日々考え、アーティストたちと話し、観客と接し、最終的には、ヴラスタたちのアートの考え方、フェスティバルで行おうとしていることがだんだんわかってきた。

戦争、トラブル、厳格な制度、抑圧は、世界のどこにでもあることだが、このクロアチアでは特別に厳しい経験がある。経験のみならず、今も残る抑圧とその痕跡、そして、未来への不安。今の「クロアチア共和国」になってまだ、たったの18年。いつ別の体制に変わるかわからないと言う。もうさっさと次のもの変わってもらいたいくらいだと皮肉を言う人もいる。制度に対して、個人の力の小ささを心底味わって来た人々。だが、そんな中でもアーティストたちは、活動の場所を確保し続けてきた。人々は他の仕事を持っていても、たとえ軍人や役人として働いていても、アーティストとして集まる時、アートという言語で話をする時だけは、アーティストも観客も平和で自由で友達でいられる。それが一時的なことはわかっている。それでも、その時を充分に楽しみ、人間の可能性に希望を持っていたい。そういうことだと思う。若いクロアチアのアーティストは、チャンスの多いスイスやドイツなどに出て行く。フェスティバルの時は、戻ってくる。国際的なアーティストは、その場所を刺激してくれる存在として、招待している。アートによる自由な表現と交流の場所をつくり、確保するということ。
























それは、今、わたしが住む場所のアートが求められていることとは違うかもしれない。また、わたしが割と頻繁にでかけてきたドイツやイギリスのアートの場所とは違うかもしれない。だが、基本のスピリッツは同じではないか?アートの可能性について考えるのにとても参考になる。わたしは、それを避難所=シェルターと呼んでみたい。逃避ではない。厳しい生存競争の社会、政治闘争や危機の生活、想像力が抑圧されている中で、人間がその可能性や希望、愛、知性などを失わないでいるため、取り戻すための場所「シェルター」。隣にいる人に親しみを感じ、協力しあい、何事かを創造し、共感を語るための場所。このことは、ベネチアビエンナーレであろうと、日本で行われている様々なスタイルのアートイベントでも同じだと感じた。
 おしゃべりの時間がかなり多かったので、主にクロアチアのアーティスト、その友人、家族などと話がたくさんでき、彼らの状況などが理解でき、良かったと思う。日本に興味のある人は少なくなく、年配者は小津安二郎、クロサワ映画、禅や空手、また、アニメ(ナルトと遊戯王)にかなりはまっている子供にも出会った。特に、宗教について語ったのは有意義だった。カトリックと共産主義は、両極端だけど、とても似たところがある、という考え方など、大変、興味深い。一神教以外はどうしても、受け入れられないという人とも話した。そうしたことがざっくばらんに話せることはいいことだ。
このレポートは、時系列で書くつもりなので、不満や疑問も正直に書いて行ってみようと思う。そして、経験、会話などを通して、わたしがそれらを理解していく過程が記録できればいいと思う。

クロアチア滞在レポート Zagreb

1.ザグレブに着く



















 16日午前中までロヴィンジに滞在し、バスでザグレブへ戻る。ヴラスタの娘が迎えに来てくれ、「ギャラリー」に向かう。「ギャラリー」とは、Croatian Association of the Fine Art (Hrvatsko društvo likovnih umjetnika略してHDLU) のことで、一応、クロアチア芸術協会と私は訳している。ザグレブ市の中心部の東の入り口付近にあり、ランドマーク的な建物である。1920年代に、ひとりの彫刻家によって建てられたのだと職員は語ってくれた(芸術協会は1868年に設立されている)。1945年以降の共産主義政権では、政府の建物となっていた。1991年の独立の際に、解放されて、現在はNPO法人の「芸術家たちの家」(Home for artists)として、親しまれているそうである。中心に吹き抜けの展示室があり、2階は、廻廊になっている。私が行った時には、2階は地元アーティストの現代的な作品、吹き抜けには、現代建築のプランや写真が展示されていた。私がレクチャーを行うのは、廻廊の下の1階のオープン会議室のようなところである。

ロンドンからのアン・ビーン(Anne Bean)、ベルファーストからシネイド・オドネル(Sinead O’Donnell)、テルアビブからエフィ・ベン・デイビッド(Efi Ben Daivid)がすでに来ていて、熱心に議論をしていた。彼女たちは、ヴラスタとともに、ペイヴス(PAVES)というユニットを組んでいる。私は、そのすべての人と初対面だった。彼女たちを、British Councilがバックアップしている。
 PAVESは今年のロンドン公演からはじまった。今回はクロアチア、次回11月はベルファーストで行うようだ。他にもうひとり、イラクのアーティストがいるのだが、今回は来ることができなかった。予定が狂ったので、その替わりに4人でパフォーマンスをしようということになったようだが、どうも、持ち時間45分を4人で行うのは、短すぎると感じたらしい(長くなったような気がするけど)。それで、ヴラスタが、わたしの45分のレクチャーを30分に削って欲しいと言った。シネイドは、その理由を、「4人で45分なのに、あなたが一人で45分というのは、バランスが悪すぎる」と説明する。計画をしたのはオーガナイザーであり、そう言われても困るなあと思った。実のことを言うと、こっちは1時間くらいになりそうで、長くさせてもらえるかな、とさえ思っていた。渡航3ヶ月前までは、このHDLUではパフォーマンスもすることになっていたが、「シュタグリネツとお客が同じだから」という理由で(この意味は後でわかる)、レクチャーだけになったので、せめて、ばっちりとしたレクチャーをしようと考えていた。スピーチの原稿も練りに練って、東京に住むネイティブのイギリス人宅に3日も通って手直しをしてもらったのだ。パフォーマンスの準備より力をいれたぐらいだ。やはり、首都での発表が大事だと思ったし、わざわざ東京から来ているのだから。でも、イラクのアーティストが来られなくなったのが原因なら、やむをえないとも思った。ちょっと考えて、快く譲る姿勢を見せようと「OK、レクチャーは即興まじりでやりましょう」と私は言った。それに対してヴラスタはThank youではなくて、Why notと言ったので、わたしはちょっとがっかり。

 PAVESのメンバーと一緒に宿へ帰る途中に、いくつか銀行があったので、2007年から続けているわたしのプロジェクト『Best Place to Sleep』を3カ所にて行い、エフィに写真を撮ってもらった。銀行の内外で、寝転んで少しだけくつろぐというアクションパフォーマンス。ビデオや写真の作品にする。ある銀行では、警備員(あるいは警察官)が出て来てぎろりと私を睨む。ヴラスタは「サキコは、この国のセキュリティをまだ知らないようね」と言った。そうかもしれない。なら、知りたいと思う。このアクションは、セキュリティや市民感覚のリトマス試験紙のようなものだ。そして、銀行のあり方を見るのは、その土地の経済状況がわかってくるのだから。このプロジェクトは、私が銀行を見ても何も感じなくなるまでは続けたい。








































その日の夜は、ザグレブ教会の近くのバーベキューレストランで、ヴラスタがおごってくれて、軽いパーティとなった。少し、ワインを飲んだ。アーティストたちとは自己紹介を様々に行った。女性ばかりなのでフェミニズム系なのかな、と思ったりもしたがそうでもない。アンが中心になって、集まったメンバーのようだ。


宿は、PAVESのおかげで、British Councilが用意した、とてもモダンで素敵なアパートに便乗できた。吹き抜けの真っ白な空間にセパレイトされたベッドルームが3つ。わたしの寝床は、リビングの一部に置かれた臨時べッドだったが、居心地が良くて満足。ザグレブの最も中心の賑やかなストリートを見下ろす窓、外見はウィーン風の古風な建物であった。

 アパートには、自分たちで、料理ができるように、簡単なキッチンがついていた。ところが、買い出しに行こうと誘っても、誰も興味がないらしい。だが、ザグレブは、カフェはたくさんあるけれど、レストランのない町。翌日の昼は、町中レストランを探して歩いてへとへとになり、やむなくマクドナルドに入った。たぶん、普通のレストランは、建物の奥の方にあって、私は一人ではわからないし、見えたところもあったがちょっと近寄れなかった。そのあと、小さなパン屋をみつけたので、自分用の非常食を買っておいた。後で、聞く所によると、ザグレブでは多くの人は、家に帰って食事をするらしい。本当だろうか。マクドナルドには、若者がいっぱいだった。テイクアウトのピザを買って、ストリートのテーブルで食事をするという方法もあった。後で、サンドイッチショップも一軒みつけた。そこは、中で食事ができるようになっていた。


クロアチア滞在レポート lecture

2. ザグレブでのレクチャー

6月17日。昼はアンのパフォーマンスの準備を私は手伝った。夕方になり、私は自分の準備をしていたら、シネイドが、サキコのレクチャーの途中からパフォーマンスを始めていいかと聞いてきた。わたしがひとりでレクチャーすることをよほど、不公平に思っているみたいだ。さすがにこれには、賛成しかねて、はっきり断った。それは、相手を試す、彼女流のパフォーマンスかもしれない。わたしだって、やりたいことがあれば、ゴリ押しすることがあるから、わからないでもない。こっそり愉快な気持ちになった。

30分では、用意した原稿の全部(3つのパート。⑴イントロダクション身体について、⑶作品について)を読めそうではなかったので、それらテキストがアップしてある私のwebsiteのアドレスや、作品の記録ビデオはアップしてあるYouTubeのアドレスを書いた紙をコピーして、聴衆に配ってもらうことにした。興味のある人はあとで、見てくれればいいと思った。HDLUのスタッフのアレキサンドラは、テストで私の作品のビデオを見て、気に入ってくれたら、急に、てきぱきといろいろな用意を手伝ってくれた。
 レクチャーは19:00より始まった。聴衆は、およそ30人くらいだっただろうか。HDLUからのオフィシャルな招待状をもらっていたので、堅苦しい感じの観客が来るのかもしれないと思っていたが、そうでもなかった。観客は、アーティストやライターが主だと思う。日本でみかけるような「権威」のありそうな感じの人たちではなくて、フレンドリーな仲間という感じ。私はいくつかのメインの作品のビデオを説明しながら見せて、コンセプトや私がパフォーマンスアートに興味を持った経緯などを話した。30分ほどすると、ヴラスタが突然、聴衆と私の間に立ちはだかって、終わりにするように言った。もうひとつ映像を見せたら終えると言って、私は少し抵抗した。
 私のレクチャーが終わると同時に、PAVESのパフォーマンスが始まった。パッション性が強いが、ハートとしては繊細なパフォーマンス。アンは、しゃがれた声でシャウトするのが個性のようで、印象に残った。シネイドは床を匍匐前進し、エフィは小声で歌を歌っていた。
 聴衆は少なかったが、わたしのパフォーマンスの映像を面白いと言って話しかけてくれる人が何人かあり、やりがいはあったと思う。特に、『Garden』(2003)という身体と音の関係を表す作品、銀行ATMに関する作品「Best Place to Sleep」(2007〜)。
準備が万端だったのでリラックスして話せてよかったと思う。こういう場合の即興でも、準備があってこそ、生きるのだと、よくわかった。全部話すための原稿はできているので、どこかで、ちゃんと行いたいと思う。今回のために特別に書いた「身体について」のテキストの紹介ができなかったのが残念。

 その夜は、食事をとれずにアパートに帰る。シネイドがビールやお菓子をキヨスクから買って来てくれたので、遅くまで3人と話をする。だんだん、いいチームになって来た感じがした。HDLUの中で記念に5人で写真を撮った。下から、アン、ヴラスタ、シネイド、エフィ、そして私。

クロアチア滞在レポート festival

3. シュタグリネッツへ


















 18日の朝。ザグレブのアパート前にBritish Councilの大きめのきれいな白いワゴン車がやって来た。
 2時間くらいで、シュタグリネツに着いた。クモの巣にまみれた小屋。母屋と小さな小屋がある。ヴラスタの亡き父親が、縄をなう為の仕事場所にしていたと聞く。わたしの想像では、彼が仲間を集めるためのサロンだったのではないかと思う。政治活動もあったかも。それを思うと、ヴラスタがそれを引き継いでいることに意味がある。写真は、エントランスの壁を作っている作業中。エントランスの看板のMoja Zemljaというのは、「我が大地」といった意味。フェスティバルのタイトルである。積んでいる石は、アドリア海に面したイストラ地方からトラックで運んできた。実は、参加した地元のアーティストの多くはイストラの出身である。ヴラスタのアパート(私が泊まった)があるロヴィンジもイストラであった。
「わが大地、シュタグリネツ」というイベントタイトルになっているが、実は、実際のシュタグリネツという村は、あまり関係ないようだ。むしろ、メインのアーティストの出身地である「イストラ」こそが、彼らの「我が大地」なのだ、と私は気がついた。なので、現場の看板には、「我が大地、シュタグリネツ」とは書かれておらず、「我が大地」とだけ書かれてある。




















小屋には、4つくらいのベッドルームがある。キッチンと作業所、オフィス。奥に広がる緑の生い茂る庭が、パフォーマンスの会場。ブラックベリーの大きな木があり、スタッフのリベラが時々上って、実を取ってきてくれる。地面に隠れた倉庫があり、重い蓋の下にビールのストックがあった。
 シュタグリネツとは村の名前であるけれど、教会、などの中心のあるいわゆるコミュニティではなく、道路に面して東西に連なる集落を指す。ヴラスタの小屋は、その東の端である。集落から離れたガソリンスタンドのさらに外側。超はじっこ。隣の村とのボーダー。村は車で5分もかからず端から端までまで行ける狭さ。役場、ポリスステーションもなく、ファイヤーステーションと呼ばれる小さな公民館の建物があるだけである。たぶん、消防の設備くらいあるのだろう。この地域は、Koprivnica(コプリヴニッツア)という市の一角である。この市から、イベントにサポートが出ている。地元の村の人たちは、一人くらいしかイベントには来なかったが、市長はやってきた。昨年もサポートしたという。写真は、市長のズボミール・ミルシッチェ(Zvonimir Mršć)氏。フェスティバルの前々日の18日、私たちを、市のセンターにあるレストランに招いてくれた。若いが、外見は強面と言った方が早い。顔立ちはかわいいが、表情がとても怖かった。感じが良くないと選挙民に投票してもらえない国のリーダーたちとは違うのだろうなと思う。アートには関心はなさそう。だが、何かの理由でバックアップしている。私はかつてポーランドで、ある町の市長と食事をしたことがあるが、一応、笑顔は絶やしてなかったのを思い出す。ミルシッチェ氏とは、テーブルが一緒だったので、土地の名産品などを聞いた。水が大変良いので、ワインに向いているとこのと。中世ローマ帝国の頃から、ワイン用の水を供給している土地だと話してくれた。レストランでは取れ立てワインをたっぷりご馳走になった。パフォーマンスのために地図が欲しいと言ったら、明日送ると市長。たしかに翌朝早く、市の案内印刷物とともに届いていた。写真で市長と並んでいるのがヴラスタ。


















 これまで、私は、地方都市がサポートしているフェスティバルにいくつも参加したが、だいたい、その地域で宣伝され、地元の人や若者が協力していて、観客としても集まった。横断幕まで張ってあることもしばしば。だが、ここでは、違っていた。当日まで地元の人はひとりも来なかった。いったい誰が観客なのだろうかと不思議に思った。不便なこの村に(電車の駅もとても遠い)、遠くから人が来るとは思えなかった。
実際の観客は、100人くらい。フェスティバル当日の20日の午後、都会の人たちが、ザグレブから2台の観光バスに乗ってやってきた。私は、心底驚いた。静かな村が一気に華やかになった。遠足にやってきた団体客といった感じ。ザグレブでのレクチャーの観客が含まれていた。子供たちもいる。バスはファイヤーステーションに乗り付けられた。これまで一度も姿を見なかった村のお母さんたちがそこに笑顔で集まって、私たちと都会からのお客さんにランチを用意してくれていた。ファイヤーステーションとは集会所のことであった。アーティストたちよりも都会からのお客様との交流がメインなのかもしれないと感じた。写真は、お母さんたちを紹介し労をねぎらうヴラスタの夫であるミラン(写真左端)、お母さんたち、それを写真に撮る都会の人たちの後ろ姿。食事は、市からのサービスかも。あるいはツアー料金に入っているのかもしれない。ここで、ヴラスタたちオーガナイザーの苦労がよくわかった。



































 ところで、村では女性はひとりで道を歩いたりしないらしい。わたしが、作品の材料や道具の買い出しのために、国道をひとりでとぼとぼ歩いている間に、道路脇の民家から、警察に通報が2本も入った。あやしい東洋人の女が歩いている、とのこと。通報を受けた警察は、パトカーを飛ばしてやってきた。「女性はひとりで道路を歩かないから」「外国人の難民だと思った」など、通報された理由はいくつかあるようだった。(最近わかってきたが、日本も随分、通報社会になってきている。おなじことかもしれない。)
 とにかく、わたしは、だんだん、地元の保守性がわかってきた。観客のほとんどが、ザグレブから来たということを思えば、芸術を楽しむということが、田舎ではまったくないということも。因みに、通報者はふたりとも主婦であったという。わたしは、道路ではなくて、畑も歩いた。トラクターの農夫のおにいさんや、自転車のおじさんなどにも会ったが、彼らはフレンドリーだったし、通報もしなかった。自転車のおじさんは、農夫ではなくて、近所の工具屋さん。それから、アーティストの間でもそうだけれど、上の言うことは絶対、のようだ。自分流に解釈したりはしない。なので、ヴラスタのスタッフは、ヴラスタがだめだと言ったことに、逆らう人はいないようだった。そのために、何かと不便なことがあったのも事実。

























スタッフは、ヴラスタ以外に3人。みんな個性豊かで、フェスティバルの顔そのものだ。(写真は左上がミラン、右上ヴラスタ、左下ピノ、右下リベラ。)みな50歳を少し越えているぐらいの年齢のように見えた。まずヴラスタの夫のミランMilan Bozic。本職は将校だが、アーティスト。英語がまるで話せない。写真を撮る。かなりの腕前らしい。まるで、連続写真のようにたくさん撮る。パフォーマンス中にシャッター音が少々ノイジーであった。でも、わたしが地図を必要としていると知ると、頼まなかったのに、拡大コピーを作ってきてくれたり、親切である。ヴラスタの部下という立場ではないので、自由に振る舞っている感じ。弾が何発か入ったままの、大柄でマッチョな身体と、男前なのが自慢のようだ。ウィンクは何回も送ってくれた。その彼が2日かけて木材を組んで何か作っていたので、彼の作品かと思ったら、ヴラスタの作品だった。ピノPino Ivancicが公式上のスタッフ。ピノは、アーティストとしても、国内外で活発な活動をしている。PAの用意などで、かけずりまわっていた。外国からのアーティストの面倒をひとりで行おうとしていた。だが、実際はとても手が回らない。道も迷うし、よくわからない変わり者という印象。アナーキストで、哲学者のマルクーゼに傾倒している。できないプランを毎朝立てる。悪いけど、だんだん信じなくなってしまう(笑)。もうひとりのスタッフである画家のリベラは、落ち着いた性格と社交的なこともあり、3人のうち精神的には最も頼りにはなった。主に食事の用事やピノの仕事のまわりの用事を淡々と口笛をふきながら手伝っていた。車を持っていないので、会場内のことだけになる。なぜ、私の村人インタビュウを手伝えないか、話してくれた。その他、いろいろと話した。クロアチアの社会的状況も彼から聞いたことが大きい。再び「アルマゲドン」が来るのを待っているというのが彼の思想である。クロアチアの人間は皆そうだと言う。何にも未来に希望を持たないし、国だけでなく、人間にも失望していると言う。だが、アーティストたちだけは別だと彼は言う。アーティストたちは愛することができると。「シェルターとしてのアート」というこのレポートのタイトルは、彼の話が参考になっている。彼の名前の意味は、「自由」だ。本名かどうか聞かなかった。

クロアチア滞在レポートmy plan



















写真は、黄金色にか輝く麦を刈り取った後の畑。写真ではわかりにくいが、本当に黄金色。直接見ると目がやられそうだった。

4.プラン

 作品は『Wind from Sky』と『We are Elegant』の2つを用意していた。前者をザグレブで、後者をシュタグリネツで行おうと計画していたが、ザグレブではパフォーマンスなしになったので、どちらもシュタグリネツで行なうことにした。助成団体に申請する時には、「My land, Staglinec参加計画」といったタイトルで出したのだけれど、助成が出る時に「山岡佐紀子Wind from Skyクロアチア公演」というタイトルに換えるように指示された。それで困ったわたしは、両方をシュタグリネツですることにした。ところが『Wind from Sky』は明確に閉じたスペースがないと行えない作品である。シュタグリネツの会場は完全に屋外である。そこで、『Wind from Sky』は全く新しいバージョンを作ることにした。
 作品『Wind from Sky』は、これまでは、フィールドパフォーマンスの部分と、ホワイトキューブのギャラリーでのパフォーマンスという2つのパートに分けて行っていた。今回は、パフォーマンスの日程が1日だけであることと、農村部であること、上演の会場が屋外であるということから、新しいバージョンを考えることにした。
村の端から歩き、会場を「通過」、さらに反対側の村の端まで歩く。約2時間30分の予定。ジャンル的にはデュレーションパフォーマンスにあたる。その「通過」の時に、 観客が直接見る、いわゆるショーケース・パフォーマンスをする。良い水がこの村の特質であると聞いたので、水を強調したいと思った。歩くだけの時は、観客とともにいない。イベントの最初にアナウンスをしてもらい、わたしは出発する。後ろ姿だけ見てもらう。
 前日に畑を歩いてみて、実際どのくらい歩けるか確認。南から北へ歩くというプランをとった。南は豊かな黄金色の畑地が延々続く。北は畑もあるけど、鉄道があったり住宅があったりで、町へとつづく気配がする。世界における「南」の意味を、あてはめることができそうだ。
 必要な材料をどう調達したらいいか、わからなかった。ピノに聞いても答えがない。「はさみ?どんなはさみ?」とだけ聞いて、説明すると「わかった」と言うだけだ。売っているところを教えて欲しい、あるいは連れて行って欲しいということなんだが。地元のアーティストが、ホームセンターがある場所を教えてくれる。畑のずっとむこうにその建物は見えた。ものすごく日差しが強い。でも、歩いていくことにした。このために、警察に通報されてしまうのだが。歩いている途中で、ザグレブから車で来ていたアーティストが拾ってくれた。パフォーマンスに必要なロープ、カゴ、リボン、はさみを買う。この代金は、あとでヴラスタが払ってくれた。
 ホームセンターというものは、世界中、印象は違わないのかもと思った。カフェがついている分、日本のよりいい感じ。


 また、「村人」へのインタビュウで作られる作品『We are Elegant』は是非やりたかった。だが、ヴラスタは、はっきり言わないが、なんとか、「村人」へのインタビュウをさせないようにしていた。通訳を頼んだスタッフは、ごまかして逃げてしまう。「村というのは、どこでも保守的なものよ。やってみたら。」と、はじめはPAVESのアーティストたちもわたしに味方してくれた。この村がどれほど保守的か、ヨーロッパのアーティストでも想像できなかったのだ。
 結局、短いバージョンではあったが、即興的にフェスティバルのラストに行えたのは、本当に良かった。結局私はゲリラ的に行うよりなかった。頑固場ヴラスタも最終的には、笑顔で受け入れてくれた。



クロアチア滞在レポートperformance1


5-1.パフォーマンス作品

 当日は、朝から雨で、とても寒かった。宿で準備をしているうちに、予定より1時間早い4時からイベントが始まっていた。なぜなら、観客が寒い中に待ちきれなかったためだそうだ。わたしが会場に着いた時は、もう2人めのアーティストのパフォーマンスになっていた。PAスタッフのピノに、わたしが南に歩くことを後でアナウンスしてもらうよう頼んで、わたしはさっそく南に歩き始めた。
















Wind from Sky, Red Ribbon

 私はMy land, Staglinecの場所から南にまっすぐ歩き始めた。観客は私の後ろ姿を見送ったかもしれない。私は、小麦ととうもろこしの畑を歩き、小さな川を横切った。草はみなぐっしょり濡れていたが、色が美しかった。通った後には、印として赤いリボンをつけた。そして、30分後、折り返した。1時間後には、背中のバスケットを花や植物をいっぱいにして、場所に戻った。戻った時は、誰かのパフォーマンスが行われていた。わたしは、ステージの端で待っていた。参加アーティストのひとりが私に気がついたので、ピノに私が戻ったことを伝えて欲しいと言った。しばらくして、パフォーマンスが終わると、アナウンスが流れた。
 そして、わたしはステージの真ん中のテーブルまでゆっくり歩く。テーブルの脇にしばらく佇む。そしてテーブルの上の、水をいれた大きな鍋に植物を一本一本浮かべた。植物にリボンを足してゆく。さらにわたしは、テーブルを揺らす。それから、その鍋とテーブルをゆっくり傾ける。鍋から水がこぼれ始める。こぼれる音にじっくり耳を傾ける。やがて、鍋とテーブルと植物が倒れ果てる。私はそれらを乗り越える。横になったテーブルがみしみし言って、少し壊れた。ゆっくりゆっくり時間をかけて進む。なぜなら、わたしは「南からの風」だから。これを行うのに、20分くらいかけた。そして前へ進み、少しの間、土の上に倒れ込んだ。突然、ピノのアナウンスがあった。終わったわけではないけれど、そう思ったのだろう。起き上がり、わたしは観客の輪を割って、さらに北へ向かい、会場を出た。拍手が背中に聞こえた。
 わたしは、幹線道路を渡る。さらに、線路を乗り越え、別の細い道路に出る。犬に会った。目の前に民家があった。ひとりの女性が彼女の家の窓からわたしを見つめていた。やがて、急いで家に入ったので、たぶん、彼女は警察に電話をするだろう。しかし、警察は「私=風」を捕らえることはできない。わたしは、彼女の家の横を通って歩いた。きれいな花を集め、ブーケを1つ作った。1時間後、わたしは、My land, Staglinecのステージに戻って、オーガナイザーであるヴラスタにブーケを渡した。
 南方からの収穫物は、繁栄のシンボルである。ゴッホは、南仏の光に憧れ、アルルへ移住した。ドイツ人たちは、クロアチアの海岸に太陽を求める。この地域は、シュタグリネツの水と南の山で育てられたブドウで、何世紀も間、極上のワインを作ってきた。いくつかのヨーロッパの国は、アフリカに資源を求めて、旅に出た。そして、戦利品で国土を飾った。長くて複雑な南との歴史。これから、また新たな世紀が始まる。「南へ」そして戻ってくる、旅。

以下は南下中。まっすぐゆっくり南に歩くデュレーションパフォーマンス。ひとりで歩き、通った道の植物にリボンをつける。さらに収穫してバスケットに取る。1時間で戻る。自分で写真を撮るので、自分は写らない。
























会場に戻り、20分くらいのパフォーマンス。ものすごくゆっくりのスピードで行う。ミランのカメラがコマ送りみたいに、撮り続けていた。

























ひたすら北上。鉄道、民家もあるし、花も美しい。1時間で、戻ってヴラスタに花束を贈る。










クロアチア滞在レポートperformance2

5-2 パフォーマンス作品

We are Elegant, Staglinec

それは、もともとインドネシアの村ゲムブラーガンに住んでいる一人の女性のアクションである。2007年、その村で行われたアートイベントに参加したわたしは、村を歩いて、人々と話した。アジアではよくあるスタイルの村で、家々が集まった外に田んぼが広がっていた。わたしは、通訳の学生と歩いて、「21世紀に相応しいエレガントなアクションとは?」と聴き、見せてもらいスケッチした。そのうちの6つを、村の墓地に集まった人々と行い、写真におさまった。このうちに1つが、「My land, Staglinec」の告知として新聞に載った。私は、シュタグリネツでも同じくインタビュウをしてまわり、シュタグリネツの「エレガント」をみつけようと思っていた。だが、それはかなわなかった。「村」が、わたしが知っているようなアジアのものとはとてつもなく、違っていた。皆、扉をしっかり閉め、女性はひとりでは出歩かない。村を訪れる外国人や都会の人々と、立ち話をするようなムードではなかった。農業地域は、共産主義の管理社会が強く残っているのではないかと思った。わたしは、あきらめた。
 
フェステイバル当日。午後4時から始まって、終わるころには、午後8時30分をまわってきた。雨はやんでいたけど、暗くなり始めていた。観客たちはどれほど、疲れていただろう。だが、終わりに近づくにつれて、私は「もしかしたら、できるかもしれない」という気持ちになってきた。
 インドネシアの女性の考えたアクションをひとつだけ、その日の観客とともに行うということ。プログラムが終わった。ピノの終了の挨拶があと、わたしはヴラスタを捕まえて「あれをやってもいい?たった1つだけのアクションだから」と聞いた。ヴラスタはにっこりして、やりなさい、と言ってくれた。わたしは、さっそく大声を張り上げて「Everybody ! I need your help! Please help me!」とわたしは叫んだ。疲れているはずの観客たちが、好奇心いっぱいの顔になった。ぞろぞろと集まり始めた。わたしは脚立の上に上がって大声で観客に説明した。もう既に夜になり始めていて、とてもわたしのカメラでは映りそうになかったので、「カメラお願いします!」と叫ぶと、ヴラスタはうれしそうに「サキコ!見てご覧!」と、小屋の2階の窓を指差した。そこにはテレビ局のカメラが既に上ってスタンバイしていた。なんというチームワーク。
 私は脚立を降りて、皆の最前列になって、アクションを指示した。そして多くの人が、従ってくれた。「We are living in the 21st century. We are elegant. We are not aggressive anymore. We can believe our peaceful future!」とわたしは叫んだ。みんなに聞こえたかどうかわからない。ところが、頼みもしないのに、「お〜」という不思議な声が皆から上がった。わたしは、とても驚いた。観客は、わたしの意図を理解してくれたのか? それとも、わからないなりに、楽しんでくれていたのか。わたしが考えた以上のことになった。たった1つのアクションだけど、まるで、日本の一本締めのように、びしっときまった。涙が出そうになった。「この映像は、インドネシアの村に。贈ります!」と私は言うと、もう一回、「お〜」という声と拍手。














そのテレビカメラの映像はまだ届かない(多分届く)。多くの人が写真を撮っていたけれど、私の手元にはない。PAVESのシネイドが撮っていてくれたビデオ映像だけが今、手元にあるので、それから撮った画像をここに添付する。
 薄明かりの中であるが、明るい未来が見えるかもしれない。


下の写真はインドネシアでの『We Are Elegant』(2007)



















6.観客の反応

遠足のような感じで来て、長時間、小雨がちの会場で過ごす観客の体力と好奇心には、こちらが感心したくらいであった。メインのパフォーマンス『Wind from Sky』が終わって、会場に戻ると、にこにこして話しかけてくる人々に囲まれた。タイトルが提示されていたこともあって、「コンセプトが明確で、余計なことをいれないパフォーマンスがわかりやすくて良かったわ」という若い女性、演劇をやっている青年は「映画のカットのひとこまひとこまの動きを見るようで、面白かった」というのは、わたしがゆっくり南から北への一直線の動きをしたからだと思う。日本映画ファンだという年配のアーティストは、「動きのひとつひとつに、オズの映画で見た日本人らしさを感じて良かった。」という感想。俳句、禅といった観点から、内容を深読みしようとする人々も見られた。『We are Elegant』は、ともに興奮して終わった。「なぜ、アクションはひとつだけだったの?皆はもっとやりたかったのが、サキコにはわからなかったのか?」とリベラに言われた。未来を全く期待していないと言いながら、毎日、会場で楽しそうに働き続けていた、リベラに作品は捧げたい。

クロアチア滞在レポートartists

7.クロアチアのアーティストの作品 






















  

クロアチアのアーティストの作品を少し紹介しておきたい。私は、自分のパフォーマンスが長かったので残念ながら多くのパフォーマンスを見ていない。左上はDuje Juricの『Tribute to the Snail』。噂に聞いて写真を見ると、面白い。どう身体につけたかわからないが、体中にカタツムリをつけている。ショーの後もしばらくそのままだったそうだ。彼はザグレブの作家で、静かで穏やかに話す人だった。右上はAntonio G Lauerの『Motion』。声とナンセンスポエムのアーティストで、クロアチアのパフォーマンスアートと映像アート界の重鎮だそうだ。話しかけると「マリア・アブラモビッチは私の生徒だったのだ」と目を細めて言う。パフォーマンスは裸で歩きまわりながら、「あ〜」「か〜」「お〜」など、たぶん意味のない音声だけを言う。言葉のヌードと身体のヌードがマッチしていて、ストレートなのに、どこかロマンチックで不思議だった。
左下は、スタッフのピノ。クロアチアの民謡をかけて、くるくると踊りながら、カラフルなスカートを一枚一枚脱いで行く。夕焼けに映えて楽しかった。タイトルは『The Buttefly‘s Elect/r/ic Dreams in the Winter』。
右下はヴラスタ。私は見ていないパフォーマンス。Excentric、Echologicalなどいくつかの観念的な言葉を書いた棒状の鏡の立てかけられた囲いの中で、彼女ベリーの実を食べているのか? タイトルは『Erzszebet Bathory 』ハンガリーの哲学者であるBela Hamvasのテキストがベースとなっている。今回のイベントのポスターのモデルになっていたスヴェンというザグレブの演劇青年が、Belaの詩を読みながら、囲いの回りを跳んだりはねたりしていた。


以下は、スエーデンの舞踏家、SU-EN(スーエン)。日本の白桃房で修行して、スエーデンに帰って、カンパニーを設立している。ここにはひとりでやってきた。キャベツをちぎっての円錐形に並べた中に寝ながらのパフォーマンス。シュタグリネツでは、ルームメートだったので、日本語でいろいろな会話をした。彼女も、






















8.まとめ

 21日にスペースの掃除をして、解散である。午後、ザグレブに帰る。
 ザグレブの国立劇場でEuroKazというシアターパフォーマンスのフェステイバルが開かれていた。チケットを買って一公演だけ見た。オーストリア=ハンガリー時代に出来たとおぼしき大変優雅な美しい劇場であった。チケット売り場の職員のあまりに官僚風の威張り方に驚いたりする。こちらがお客なのにと感じてしまう。
 
 10日くらいクロアチアにいたからと言って、クロアチアについてはわかったつもりには当然ならない。でも、ヴラスタたちが作ろうとしている場所については、少しだけわかった。大変、興味深いと思う。彼女という女王(シンボル)を中心に、男どもが楽しそうに集まっている。彼女は、若い頃に、ヌードで白い馬に乗ってザグレブの町中を歩くパフォーマンスをしたり、エロティシズムをずっと扱ってきた。
旧東欧の様々あるフェスティバルの系譜だと思う。ルーマニアやスロバキア、ポーランドなどでは、80年代末頃から90年代にかけて、いくつかあった。社会状況が変わって行く中で、それらのほとんどは、行われなくなり、違った形のアートイベントが開かれるようになっている。だが、クロアチアは、それらの国より自由化が遅れている分、今、必要とされているのだろう。
 そして、そこで、わたし自身のアート作品が、うまく生かせたどうか、正直、わからない。手探りだった。少なくとも、私としては、今までにない経験の中で、自分の幅を広げる機会になったと思う。地元の方たちには、わたしに、そしてわたしの作品に出会ったことが、記憶に残ってくだされば、ありがたい。


以下の写真は、イントロダクションのところで紹介した、クロアチアの国名変遷の作品を作ったアントニオと、その息子。アントニオは日本の禅を研究している。息子は、日本のアニメの大ファンである。

立場

クロアチア滞在レポートは、以下です。
レポート




きのう、ふと。研究者であるローズリー・ゴールドバーグが、エスタブリッシュした後、保守化して、演劇、ダンス方面に行ってしまった理由を考えていた。お金があるようになると人は変わるのかもしれない。
人は、自分を、表すようなものに関心がむくものだ。それを守りたいし、それ以上に見せられるチャンスがあれば、逃すわけはない。

作る側と、それを所有している、あるいはマネージメントしているまたは研究している、という立場でも違う。

作る側は、どうあがいても、自分の背丈以上にはなれないことを知っていると思う。でも、所有したり、マネージメントしている人たちは、それを権威として、再定義し直すことができるんだ。だから、うんざりするけど、そういう人たちとつきあわないことには、仕事が成立しないことも事実。
なので、今は、わたしは成立してないのに、等しいけど、だからって、ダメってわけではないと思っています。

19.8.09

クロアチア滞在レポート

予告だけしてなかなか投稿しなかった6月のクロアチア滞在のレポートです。助成機関に提出した(今日送った、汗)ものとほぼ同じものです。写真減らして圧縮したにもかかわらず、データが重くて、私のwebsiteにアップできなかったので、Google Documentにアップしてみました。

どなたにも、共有できるかどうか、よくわかりません。すみません。

読みたい方はトライしてみてください。

タイトルは「シェルターとしてのアート」にしました。


レポート1 フェスティバル概要、作品プラン

レポート2 作品

17.8.09

レイジーの後に

2007年ごろから、レイジーになっていて寝転び系のパフォが楽しかったけど、そろそろ、あきたのか、身体をいじめたくなってきた。健康具合は、変わらないけど、半身不随の父を見ていると、動けるうちに動いておこうと思った。
どこまで、行けるのかなと思ったりする。

こんなことが、アーティストとやらの、制作の動機になるなんて、イージーすぎるのかもしれない。
最近は、
もう、アーティストなんかではなくて、くだらないことを思いついていろいろやる人、でしかない気がして来た。
たとえば巡礼を、アートにしたいと思っている。
いっしょに苦労してもらう。
そんなのに、人はついて来ない。恐ろしく物好きな人だけか。
でも、そう思うからしょうがない。ちょっと、つまみ食いみたいに楽しむことは、できないようなやつ。

それでも、配置とか、構成とか、気にしてやっているなんて、皆さんにはわからないかもしれないなあ、と思う。しょうがないな。
人のやっていることに、文句つけたりする、立場じゃないだろうとか、思う。


「キング牧師とマルコムX」なんて本など、読んでいる。学ばなくてはならないことが多すぎて。このところ、勉強もしてなかったんだ。知らないことが多すぎて。

こちらから見るアーティストもいろんなアーティストを、あれこれこれ見るのではなくて、一人の作家をぐっと追ってみたい。退屈、マンネリ。カモン。そこまで来ると急に、ぐっと深くなる。人の行い、として見る。

16.8.09

ジャンプロープ

縄跳び。

渋谷の丘を、もうひとりと、跳びながら上る。途中で、一人合流、また去って行く。
2時間。

健康と美に対する世間の強迫観念には、いい加減、いやになる。
身体をいじめるのは、むかつくけど、妙に、楽しかったりする。
誰の為でもないはずが、誰かのため。
くせになってきて、今朝も家の前の駐車場で跳んだ。明日も跳ぶだろう。

路上で会ったお祭り気分の若者たち、外国人旅行者たちは、芸でもない私たちに、しきりにカメラを向ける。
上りきった場所は、 Beauty&Youthを売るショップ。インスタントでいやになる。
何か、達成感があるわけでもない、アガリの場所。


いっしょに跳んでくださった方、
矛盾した感情を、共有してくださってありがとう!!












15.8.09

人の質感、音の質感

なにげなく見ているけど、テレビや映画のキャストは、役者の質感の配置を考えるところが、たぶん、とても大事なんだろうと思う。業界では当たり前の技術だからわざわざ言わない。
だけど、予算やコネのないアーティストが、フィルムやパフォーマンスなどで、人をセットアップすると、どうしても、選択肢がせばめられて、質感のレイアウトが、だめだめになってしまう。
これは、いわゆる「しろうと」っぽいと言われてしまう理由のひとつだ。

配置する人の質は、それなら、お金をかけて優秀な役者やパフォーマーをつれてくればいいという結論にはならない。
限られた人材ならば、その人材の配置方法で、作品を作ればいいのだ。
問題は、その質感に敏感かどうか。

音の質感。
失礼ながら、映像やダンスなどの人の多くは、音楽音痴だと思うことがある。なんとなく、音がついていれば、見る人が楽になるとでも思っているみたいだ。あるいは、踊る人がのりやすい? 音質、音量、そして、その音楽が指し示すものを、そんなに考えているとは思えない。だから、音に配慮がないなら、いっそのこと、音など入れなければいいといつも思う。音があると集中して見られないことってあるでしょう?

おとといみた、マシュー・バーニーのクレマスター9は、ビョークの音があっているとは思えないところや音量が大きすぎると思うところがあった。面白いところもあるけどね。ものを動かす音、そのものを聴きたい場合が多々あった。映画館で見た時はあまり感じなかったんだけど。お金があっても配慮がなければ、こうなる。

最近、あるポップ系ミュージシャンに凝っていて、移動の時間はいつも聴いているし、評論を読んだりしている。実際の曲の中の音の配置や声の使い方に、突っ込み入れている評論なを読むと、ほんと細かくて驚く。それで曲を良く聴く楽しみも出てくる。ポップの世界は売れる売れないが尺度なのはきついけれど、そこには、案外、厳しい修練があるのだ、ということを、しみじみ。でも、知ってしまうと面白くなる。勉強になります。

がんばんなきゃな。気がついているなら。


今日は、学生さんがインフルエンザで来られないので、最悪、わたしと独協大のタカハシ先生のふたりになってしまうかもしれない。そうすると、年格好からして、カップルみたいになってしまいそうだ(笑)。中年で、どちらもへっぴり腰ぎみだろう。ならば、それでどんな配置にするか。来た人間の顔見て、即興的に考えなくてはならない。きつい。でもやる。
音の件は、渋谷に実際にある音が効果音なので、そのノイジーさに対して、パフォーマーの内面的でパーソナルな、見ている人には聞こえない、個人の中の音をどう配置できるか、にあると思う。どうやればいいのかな。

14.8.09

渋谷アクション

明日の渋谷でのアクションは、なぜだか、男子ばかりが集まるようだ。知らない人も来るので楽しみ。縄跳び、します。
渋谷警察署20:50集合。歩道橋の上や下、ガード下を抜けて、駅の反対側に出て、そのあたりで少し。それから、ハチ公前交差点を通り、センター街、パルコ、ラストは、Beauty and Youth, United Arrowsの前で終わる予定。巡礼の旅なのである。

11.8.09

7都市アクション

告知です。


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ストリート・アクションパフォーマンスの参加者、記録者、傍観者の募集です。御協力くださるとうれしいです。

ベルファースト、ロンドン、ザグレブ、テルアビブ、バグダッド、北京、東京で行う同時多発系アクション
2009年8月15日(土)東京は、夜9時〜11時 (日にちに意味はありません)
UK PM 1:00 to 3:00 / Croatia PM 2:00 to 4:00 / Israel and Iraq PM 3:00 to 5:00
China PM 8:00 to 10:00 / Japan PM 9:00 to 11:00

企画は、PAVESという5人のパフォーマンスアーティストたちのグループ(イギリス、北アイルランド、イスラエル、クロアチア、イラクから1名ずつ)によるもので、
わたしはたまたま、クロアチアで、彼女たちのその企画の最中に近くに座っていたというだけの理由(!)で、参加することになりました。
それぞれのアーティストのファーストネームの頭文字をとったグループ名なので、今回はSAKIKO が加わり、PAVESSなんだそうです。

以下がそのメンバー
Sineed O'Donnell (Belfast), Anne Bean(London), Vlasta Delimar(Zagreb),Efi Ben David(Telaviv+Beijing), Poshya Kakl(Bagdad),Sakiko Yamaoka(Tokyo)

共通テーマはありません。単に同時に行うだけです。日にちに意味はありません。上記アーティストはすべて女性ですが、男子も、東京では参加できます。

東京で行うアクションは、タイトル及びテーマは『Drill vol.6 なぜ私たちは健康な身体を持たなくてはならないのか』

渋谷の駅近くで行います。
参加したい方は、縄跳びを持って来てください。跳びます。
現在の予定では、9時からばらばらの所で跳び始め、9時30分頃にどこかに集合します。ひとりで跳ぶ勇気のない方は、友達とふたりで跳び始めるか、集まってからでもいいのです。
通行人に気をつけてください!
(山岡のダウンサイジングも兼ねています.....。)

集合場所は追ってお知らせします。
ひとりで行ってもよかったのですが、渋谷のあちこちで、ひらひら、蝶のように縄跳びが行われていて、集まってくるのを想像したら、面白そうな気がしてきました。
とりあえず、参加希望者はメールか、電話をください。集合場所とトラブル防止のための集団アクションの心得など、連絡します。


時刻が遅いのでごく少人数の集まりになってしまうかもしれなけど、まあ、のりかかった船なので、やろうと思います。
御協力いただけると大変うれしいです!!


関連ビデオ(Drill vol.5の一部)

10.8.09

「表さない人たち」

この夏受けようと思っている映像の授業の前半が終わった。とっても勉強になったけど、ちょっと気になるのが、参加者や講師の人々の冷静すぎる様子。おかしくて笑いたくなるような映像を見ても、笑う人もない。誰も笑わない!!! 講師もたんたんと進める。仕事熱心なのは、わかる。
こういう人たちが、わたしのパフォーマンスに来たらどうなっちゃうんだ? あの落ち着いたな空気は、辛いと思う。5パーセントくらいの笑顔のまま、ずっと過ごしていられる人々。
「表さない人たち」
なぜですか? 

1.それでもやってこれた
2.表すのは、下品だとかんじている
誰か、教えてください。

それでも、私には有意義でした。

震度4の地震が来ても、それまでどおりの態度でいられる人々は、わたしには、同じ人種、同じ民族、同じ文化を共有しているとは思えない(なんのこっちゃ)。わたしは、建物が歪んで、出られないなるときのために、ドアを開放したいと思いました。(過剰反応なのだわ)

9.8.09

コミュニティ2

自分の好きなことなどを、公共の場で言うなんて、たぶん、はしたないことなんだと思う。
だから?
というのが、他人の反応でしょう。
だからって、
誰かと共有できる「好きなもの」を提出すれば、それが芸術なのでしょうか? (技があるとか、そういうことはまた、別のこととして)
なんだか、そんなもんなのかなあと思う。

世間はだんだん、保守化していると感じます。相容れないなら話さない、意気投合できそうだったら話す。
それって、オタクですよね。

ならば、感性のことを考えるってどういうことなのか、どうもわからない。
「結局好きかどうか、なんだよね〜」で、会話が終わるとき、なんか、真っ暗な気分になったりします。

だけど、また、「純粋に楽しみたいだけなのに」という人に、「これにはこういう政治的背景があったりするんですよ!」と言えば、いわれた人は叱られたような気がしてくるのかもしれません。

ストレスの多い世界に住んでれば、人は話さなくなってきますね。無難なことで過ごそうとしますね。本当にそれでいいのかな。自分の利益を共有できる人とのみ、分け合おうとします。利益の少ない人は、多く持っている人たちに、分けてくれと言います。権利がある、と言ったりします。「話」ではなくて、「闘争」になります。

話すことはできないのか。

でも、人間はそれほど甘くないのだろうとも思います。「甘くないよ」と言うのが保守系で、「可能性がある」と言うのがリベラルなんだと思います。


写真は、We are Elegant、クロアチアバージョン。ビデオから切り取った写真。もう午後8時をまわっていたので、暗い。
やっときのうビデオが手に入りました。ちょっと言っただけで、あっという間に、みんな参加してくれてびっくりしました。その上、頼みもしないのに、「おう〜〜」という声を。ビデオ、近いうちにアップします。団結力、あるのって、すごいと言えばすごい。因に、このイベント、4時間近く、小雨の中、続いていました。

7.8.09

ミニマル好き

今日の映像ヒストリーの授業では、はじめの方は、ずっとギャグかエロのイメージものが続いて、好み的にいやになった。へたな演劇的な感じもいやだった。講師の先生は、クールのてきぱき進めてくださるので、好感が持てたが、あの日本の60年代フィルムたちを見ている間は、死にたいくらいの気分だった。70年代のものの紹介になって、たぶん、ミニマルアートの影響だと思う(先生はそうは言わなかったけど)、一気に楽しくなった。幸福感がみなぎってきた。すっきり頭に入ってくる。目が心地よい。フィルムという方法そのものを考える構造を作ったりするのも、面白い。日本に良い道具がなかったので、アーティストが自分で工夫して、手仕事していたという話もいい。それぞれ短いので、もっと何度も見たいと思った。ミニマル好きなんだな、わたしは。

どうも、暑さのせいか、年のせいか、きらいなものに我慢する努力は、怠るようになってきた。
好きなものには、限りなく没頭し、受け付けないものには、距離を置く、というのは、ちょっと卑怯なやり方だと思う。
そんなことでは、パレスティナとイスラエルの相互理解のことなんか、話題にする資格もないのかもしれない。

困った。だが、まずは、そういう自分の感覚に、逃げずに、向き合ってみよう。

5.8.09

コミュニティ

「アメリカンコミュニティ」(渡辺靖著)という本を読んだ。
人はできる限り、似たような考えを持った人たちを、隣人にして暮らしたいんだろうな、と思いました。
理想郷として作った町、たまたまあった町を再生して住み良くしたケース、島、などいろいろなケースがあるけれど、取材されていた場所は、どこもほとんど、保守系に属していました。自然そうなるんだろうなあ。理想郷は、白人が多い。
たぶん、「コミュニティ」というものは、保守にならざるをえないんだろうな。
ひとつだけ、ボストンの近くの荒廃しきった町の再生(再生というからには、かつては良かったということだ)についてのレポートだけは、例外だったが。

地元、というののすべてがコミュニティだとは思わない。地方自治が、進めば、選んで住みたくなる場所もあるのかもしれない。今は、都心に近い方が地価は高いけど、今後はそうとは限らなくなるかも。生活条件が、自分の志向にあった町、というのが、あれば、「市民」になりたいと思うかも。

そういえば、「市民」と「国民」を分けて書いてあったのが、面白かった。
市民、とは、国政への選挙権のある国民のこと。東サモア島の人たちは、アメリカ国民だけど、市民ではないそうです。それでも、アメリカにいろいろ守られているから、選挙権はいらない、と多くの人は考えているそうです。

日本も分けてみると面白いかも。せめて選挙に行かない人は、市民権を剥奪するとか(ひどいかな)。市民ではない人は、図書館の本も借りられない。国道を歩けない。.......ははは、たいしたことないか。

4.8.09

勉強のことなど

映像の勉強に行きました。ちゃんと勉強したことなかったので、目からうろこなことばかりでした。明日も行きます。毎日、渋谷なんてほんとめずらしいことだわ。

その前に行ったAppleのFinal Cut Proのワークショップは、ちょっとがっかり。あんなくらいの、マニアックなことなら、iMoiveで充分だなと思いました。結局、エフェクトよりも、何を撮るかなんだし。10万円かける意味があるか。これが問題です。


家庭内のことで、びっくり事件がありました。あったのは、先週の木曜日のことなんだけど、受け入れられずに、今日まで来ました。友達に話してみて、やっと、密室のできごとでなくなり、受け入れなくてはならなくなりました。血筋を思えば、私という人間の形成とも関わるかもしれません。こんなことで、表現者を続けていいのか、と思ったりする。でも、だからこそ、意識的になるチャンスだと思います。阪神大震災の後に、人生がリアルになったと私に話してくれた、大阪の人の気持ちにも似ているけど、もしかしたら、もっと深刻かもしれない。

  人間は、とほうもない生き物です。社会とか、法律とかでは、解決つかないとんでもないことがありますね。芸術なんて、阿呆の空ごとなのかもしれません。

別の友だちに、別の件でメールで話したことがありました。やさしくされると、つい、いろいろ話してしまう。いい年なのだから、ためることはためなくちゃね。ごめんね。


今年は、アフリカブームなのはよいことだ。それから、
この夏は、勉強に主に費やすことのしたのは、良い選択だったかもしれません。


父は、ロウケンで、たぶん、元気です。川柳の生徒さんが、お見舞いに何度も行っているし、帰ってきて、生徒さんたちと語らうのを楽しみにしています。

2.8.09

3人のおじさん



3人のおじさんたちが、楽しそう。

田中宇のニュース解説
2009年7月7日 アフリカの統合
2005年12月6日 政権転覆と石油利権

ナイジェリア8月2日のニュース

1.8.09

デューク・エリントンの硬貨

上は、自由勲章というものを授与したリチャード・ニクソン大統領と、受けたデューク・エリントン。1969年。

今年、コロンビア特別区から、エリントンとピアノをあしらった25セント記念硬貨が発行された。アフリカ系アメリカ人が硬貨に描かれるのはこれがはじめてだそうだ。すごいじゃない。

あたしの頭に、何がやってきたのか、わかりませんが、とっつぜん、アフリカとアメリカが気になって、気になってやまない。
クロアチアの畑を歩いている時に、頭の上を飛んでいた雀のせいかもしれない。見ました? きっと地中海を飛んできたんだ。
実は、わたしは気がついてなくて写真をアップしたら(7月28日の日記参照)、友達から「君の頭の後ろに飛んでいる鳥が空に描いた楽譜で、君は歌を歌ったかい?」といった気取ったメールをもらって、気がついた。

別の友達は、「なんでアフリカなんだ???君にはついていけないよ。突飛なんだもん」という感想。


あたしにもわからない。