31.10.11

パブリックアクション チャート

きのうアップしたものを、いただいた感想をもとに、アップデートしました。今のところディスロケードが中心みたいですけど、これを考えるきっかけを作ってくれたので、そのようにしています。
だんだん大きな図にしようかな。参加希望者が書き込めるといいのだけど。





30.10.11

ハッピーハロウン

今月は、これでたった2回のブログです。最近は、twitterも減ったし、いい具合に内省的になっているんではないでしょうか。ネットでも露出が多い時は、一見元気そうですが、実際は、頻繁に他人とのコンタクトをしていないと不安だと言う事の証だと思います。実は、不安な気持ちは今も同じですが。

この3日にほどは、Facebookにつくった研究会に意識が向かっていました。シャトマルとバクスイレンの出演者や観客の一部の、今はおよそ8名でやっています。運営方法のアドバイスをくれる方もあって、今は、やりながらルールを作っている時期で、ばたばたしていますが、割と楽しくやっています。目的は、日本語言語力を鍛えること、これは主に作品の鑑賞のリテラシー力を高めるためです。一日ひとつくらい新しいお題を出し、それについて、書き込みたい人が書いています。数日持ち越しのものもあります。
興味のある方は、こちらへ。非公開なので、申請してください。特に資格などはいりませんよ。http://www.facebook.com/groups/ChateauPAMargaux/

3〜4つ掛け持ちで勉強しています。と言っても、なかなか、そのモードにならなくてようやく昨日くらいから、集中できるようになりました。アウトプットばかりの日々でしたから、インプットをやる冬かな。自分のパブリックパフォーマンスのあり方を、少し整理してみたいとも思っています。アウトプットでもインプットではない、何て言うのかしら........。ディスロケードのエマさんと少しその辺を、リフレクションしてみようと思ってます。
以下のチャートですが、今日私の頭に浮かんだものなので、よく考えるとかなりバランスを欠いているかもしれないけれど、ある意味、あたっているのでは? 
私の作品は、このうち、ディスロケードの「デ」の字あたりから、もう、左上くらいになると思います。「Best place to Sleep」は、かなり、左に行きます。でも、 「Love or Not」はもともとディスロケードのために考えたものなので、まさにディスロケードと同じ位置。少し、それまでよりも、公的な利益を考えたんですよ。バンクーバーでの「We are Elegant」もそのあたりかな。どこが出したお金でやったかも、結構大事です。私は、クライアントであるフェスティバルの期待に応えたかどうか、わからないんですよね。



パブリックアクションのチャート


25.10.11

このごろ

ひと月近くもブログを書いていませんでした。
家(マンション)の改装、のせいだと思います。色々なものを捨てました。それから、そのせいで少し広くなりましたから、家の隅々まで、気持ちを払うことができるようになり、飾りつけたり、見直したり、意外と充実していたかな。

季節もあっという間に、秋深く。ベランダの花たちもその主役が移り行く過程。ラベンダーが今、一番元気です。

この秋は、タイのアートフェスティバルに行く予定でした。行くのをやめたのは、費用がないと言うのが最大の理由で、二番目の理由が母の精神的不安定。アジア行きの場合、自費で行かなくてはならず、なんのために行くのか、覚悟がいります。...... ところが、それを先方のオーガナイザーに連絡しないうちに、タイの方が、深刻な洪水となり、水が未だにまったく引かず、被害が広がる一方です。それで、イベントが延期になると、連絡が先ほど入りました。


それにして、今年は、いったい、どうなっているのでしょうか?これから、こんなことが続くのでしょうか?






家の中のいらないものを片付けていると、古い本なども出て来ます。70年代の小説って、あらためて読むと、とても新鮮ですね。今、それで、遠藤周作の小説をちょこっと読んでいます。人物描写が、近頃の流行の小説とは全く違う。今のいわゆる映画調ではなくて、細かな人物観察の方法が違っている。まるで、パフォーマンスアートを、そう眺めて欲しくなるような観察眼。振る舞い、服装の着方、表情、欠点。その背景の外見的要素、階級、文化コード、政治的な影、などを丁寧に書き込み、世界を作っている。
そう、欠点のある人物しか、出てこないのがすごい。
美形かあるいは人の良さそうなほのぼのダンサーによる表現でなければ、アートパフォーマンスとは認められていない、昨今の日本です。つまんないですね。
でも、ビジュアルアートって、もともと、もっと、ぎらぎらしていたり、もやもやしていたり、ぬらぬらしていたり、ぞっとしたりするものじゃなかったっけ。インスタレーションでも絵画でも。なんか、最近は、デザイングッズ屋とか、ファッション雑誌の世界観みたいになってきたと思います。

時代か?いいえ。

バンクーバーのマット君の書いた、わたしのパフォーマンスの感想も、そのくらいの観察力にあふれていました。会った事のないランスという人のメールにも驚かされたっけ。感じたことの描写力が細かい。どうやって養ったのでしょうか?

日本人は、あるいは東京の人間は、刺激的なことが毎日、メディアを通して発信されている中に暮らしていますが、それに翻弄され、感性が受け身になっているかもしれません?それ以外のことにハマる余裕がない? みんなについて行ってないと、後れてるっていわれちゃう? 自分らしさにこだわっている割に、自分の感じていることに、自覚的になれず、ムードに流されているように見えます。
私から見て、日本人の知り合いで、自分の言葉で話す人に、どのくらい会っているだろうか?  正直言って、片手で数えてもまだ、指が余るくらいしか、私は知りません。

でも、目を見ると、何か、この人には起きているのだな、と分かることはとても多い。

なのに口から出るのは、ありきたりのあいさつレベルの言葉。閉ざしているつもりは、なくても、表せない?ちょっとした技術のなさで、人々の中にいながら、孤独になっている人がどれほどいるだろうかと思います。
なんら意味のない言葉で、やり過ごしている?
こんなにツイッターが流行っているのに、そこに何か、表現できているか? 他人を恐れている?  そして、突然、開き直る発言?
だめだめ。


まず、自分から体現する事が大事でしょう? ジミに、がんばります。質感を確かにするために。