20.6.11

新聞紙にメッセージを遺す

<ワークショップの記録、その2>


詳しいコンセプトなどは、昨日の投稿を見てください。



新聞紙に、足へのメッセージ、足についてのメッセージ、なんでも、足についてのコメントを書くようにというインストラクション。そして、それはその後、折り紙の舟に折られる。最後の「黙祷」の時間の前に、それらは誰かに手にとられ、開かれ、読まれる。そして、そのことについて、少し雑談の時間を持つ、という段取りがある。(舟は、川や海に近い民家では、洪水の時の備えに、一家にひとつずつ以上は、備えられていたのもだと、かつて聞いたことがある。)備えとしての小舟、供えとしての小舟。


左がエルサレム、右が東京。

ここには、学生さんたちが書き込んだ、新聞の文面を記録する。エルサレムと東京のをあわせると40枚くらいになり、ちょっと多いが全部載せたい。

なぜ、新聞紙か。何か白い紙を用意しようかと思っていたが、「身の回りにあるもの」がコンセプトにフィットすると、ふと思った。そして、新聞の活用方法を開く機会となった。

本は、しばらく本として生きていけるが、新聞はたった一日、よく3日くらいで、ただの紙切れとなる。ピクニックの敷物になるし、ペンキ塗りの養生にもなる。野菜を包んで冷蔵庫にしまうのに役立ったり、荷物の梱包に役立ったり。そして、しまい込んでいた荷物を久しぶりに開けてみた時には、なつかしい「昔の出来事」を楽しむ、玉手箱の役割をする。期せずして、その荷物を梱包した時の時代の空気を運んでくれる。紙の風合いとともに。あのサイズの紙はであることも重要だ。
それは、インターネットのニュースには、できない芸当である。
オブジェであることの魅力。しかも、紙であること。びりびりと破れば、サウンドアートにもなる。
空いているところを使ったメモや、秘密のメッセージに使えるかもしれない。ハイジャックや、飛行機事故で、絶対絶命になった時に、人は目の前の新聞紙や雑誌の余白にメッセージを遺すかもしれない。

それから、シュールレアリズム的な意味で、メモを書いた人がその横にある、新聞の記事に影響を受けているかもしれない、ということもある。私たち見る側が、勝手に想像する楽しみ、でもある。

まずは、エルサレムの参加者の分。新聞は、2011年5月22〜23日分。20代の学生が多い。会場は、ムスララというメディアアートの専門学校だが、やってきた学生さんたちは、ベッサレーと言う美術アカデミー(大学)の生徒さん。メッセージは、なかなかしゃれたものが多かった。


どっちがあなたのお気に入りの靴?どうしてあなたは、休まないの?

足よ、あなたはニューヨークとイスラエルとどちらを歩くのを選ぶ?

あなたが臭いの?それとも靴が臭いの?
丘にのぼるのは、正しい選択だったかしら?

もし、私があなたを置いてきたら、あなたは生きられる?

あなたは、私?

なぜ汗ばむの?

なぜ、あなたはそんなに平たいの?
なぜ、疲れるの?

あなたは、あなたを食べることはできる?


始めて歩いた時はどんな感じだった?


なぜ、みんなは柔らかい足を望むのかしら?
なぜ、小さな足が好きなのかしら?


あなたは独立していたい(読めないけどたぶん、訳注)? それとも対である方がいい?
地面に触れているのと、空気の中にいるのとどっちがいい?


あなたは、もし私が〜(切れている)〜してもまだ歩いていたら、どうする?
右足さん、あなたは左足の友達?左足さん、あなたは右足の友達?あなたたちの関係について話してみて。

冷たい床を歩いている時、あなたは気分的にどう感じているの?
あなたは、かつて、自分ではなに何かになりたいと考えたことある?
あなたは、靴のことをどう思ってる?

あなたは、そんなに小さいのに、どうして私を運んでいるの?

あなたは、そんなに小さいのに、どうして私を運んでいるの?




以下は、東京経済大学のコミュニケーション学科の学生さんたちのメッセージ。