26.11.10

寄稿「イスラエルの文化ボイコット」への拙文

私が参加しているCannons and Muses の、ダブリンメンバーによって「文化ボイコット問題」がテーマのパブリケーションを作る事になり、私にテキスト提出の依頼があった。特に「イスラエル文化」へのボイコットのことだ。正直、荷が重い。しかし、「むずかしいから」とほっておけないと思った。
 去年から今年にかけて、アイルランドでは、ずいぶん、アーティストによるボイコットがあったようだ。しかし、そういうった動きのほとんどない、東京でこれを書くことができるか。だが、難しいなりに、知らないなりに、「部外者」として書けることもあると思った。本当に「部外者」かどうかも、考えながら。


<参考資料のリンク>
*パレスティナ発のボイコット
イスラエルの学術および文化ボイコットのパレスティナによるキャンペーン (英文)
2004年から、世界中でキャンペーンが張られていたことがわかる。
日本語で出ているキャンペーンサイト ボイコッティル 無印良品の出店を阻止しようとする動きもここから来ていることがわかる。
以下は、最近の記事。「デモクラシーナウ」というサイト。
イスラエルに対するボイコットは有効か。

*トロント映画祭(2009)でのボイコット
関連記事。キャンペーンの声明書(英文)。
映画祭の中でのテルアビブ特集が、イスラエル大使館のプロパガンダであるらしいということで、問題に。以下も、「デモクラシーナウ」のサイトから。
占領を祝うな、トロント映画祭でのテルアビブ特集に文化人等が抗議




<私の立場>
文化をボイコットするということと、プロパガンダに文化を利用することの両方を「ナンセンス」と考える。
芸術、文化には、地域性という背景は大事だけれど、本質的にはローカリティ(国家、民族)を越える。
でも、私は活動家でもなければ、どんなものにも属さない。C&Mは信頼できるアーティストとのコミュニケーションのために関わった。


<提出予定の日本語本文>
  日本において、「文化ボイコット」というと、中国政府が背景になっていると予想される、中国国内での、日本の文化紹介イベントのキャンセル事件のことを、多くの人はまず思いつくでしょう。先日の上海万博でも、領海に関するトラブルで、予定されていたポップグループのコンサートがキャンセルされるということがありました。でも、それは、世界中で行われているイスラエルの文化に対する昨今のボイコットとは、かなり違った性格のものだと思われます。

 私が、イスラエルの文化ボイコットキャンペーンの様子を知ったのは、今年になってからでした。去年の9月のトロント国際映画祭で、テルアビブ特集が企画され、それに対して、カナダやアメリカの文化人、芸能人が「占領を祝うな」というタイトルで、ボイコットキャンペーンを行ったという件です。たぶん、わたしより皆さんが良く知っておられると思うので、説明を省きます。私はインターネットで読んだだけですから。ここでは、「特集」そのものが、イスラエル政府からのプロパガンダだと言われていました。このことは、日本人で、パレスティナ~イスラエル問題を個人的に研究しているとある方からのメールで知りました。私が、東京の美術学生とイスラエルの若いアーティストのインターネットを通した交流イベントを企画していたの縁で、情報をくださいました。


 私は、大掛かりな国際的なキャンペーンになっていることに驚きました。しかし、そこで私が考えたことは、私がこれまで、考えていたことと全く変わりません。どんな意味でも「文化」をボイコットするというのは、ナンセンスだと思います。そして、「文化」を利用することも同じよう許すまじきことだと思います。
 アーティストの追求していることは、政治、国家、民族を越えて、交流、共有可能だと私は思います。勿論、人間は、育った、あるいは住んでいる場所をバックグラウンドとしていますから、アーティストの思想や作品は、土地の文化から影響を受けるし、影響もします。しかし、人はそれだけではないはずです。私たちは、想像力や感覚を共有しあえる人と、世界中どこに行っても、出会うことができるという経験を持っています。そして、アーティストはそれを作品という形で、他者を共有しようとします。そして、それは「共有の文化」となるでしょう。そして、そういった可能性のある「文化」をボイコットするというのは、まるで、ピントがはずれていると思います。そして、その「文化」を利用することも同じようにピントがはずれています。
  勿論、国家や固有の文化をアーティストの最も重要なアイデンティティとしている人もいると思います。そして、国家はそれをしばしば、保護しながら「利用」もします。「文化」は、それらのシンボルとも言えることもしばしばです。でも、真のアートは決して、それだけではないのです。個人をすら、越えて行くと思います。なぜなら、「個人」は、あまりに遠くにいる人や、許せないような経験を受け入れることができないから。しかし、「表現」や「想像力」の連動は、個人の場所にとどまることはできません。それを私は「直観」的に思うだけですが、それだけが、アートの本来の「希望」だと思っています。
  「直観」。政治や戦争の前では、そんなものは、甘いだろうとはいうこともわかっています。しかし、この「直感」のプレゼンテーションとネットワークが、人間を越えたエネルギーとなって浸透することを、私は期待しています。そして、それが、世界の人々の心を分断しようとする勢力に、歯止めをかけるものであると、私は「直観的に」考えます。

 今回のテキスト募集を受けて、ボイコット活動の一つもない、極東の東京で、それについて、感覚的に理解し、論理的に論ずることはほとんど無理ではないかと思いました。しかし、「遠い」ゆえに、言えることもあるのではないかとも思い、少しばかりですが、ペンを取ることにしました。甘い内容とお思いなるようでしたら、お許しください。