25.1.10

キリストの身体

友達のKが、引っ張り出してくれたので、今年、はじめて電車に乗ってでかける。写真美術館で、チケットを3つ買い、たくさんたくさん写真や映像を見た。それから、多摩美に行って、また、写真や映像を見る。C&Mの若者たちの作品も、楽しむ。

その帰りの副都心線の中で、没頭して読んでいたのが、『キリストの身体 血と肉と愛の傷』(岡田温司著、中公新書)。図像や彫刻のキリストのイメージについて、西洋宗教史、美術史の文献から、読み解くもの。穢れと聖は対極でありながら、同じであること。あるいは、相殺しあうものであること。エデンの園での禁断の果実を食べるという禁断、負の食の遺産である「原罪」は、キリストが最後の晩餐で、パンを示しながら、自分の肉であると言い、それをわけ合って食することをすすめたこと=「聖体拝領」によって、ひとまず、帳消しにされるのだそうだ。それは、教会における聖体拝領と同じといえる。さらに、葬式での会食は、死者にはできないことを、選ばれた生者が共に行うことで、共同体の結束を固める。するとこの場合、帳消しにされたのは、何だろうか。いかなる罪か? 

 そんなことを読みながら、降りる駅に着いて、あたりを見回すと、生きて動いている人たちのすべてが、実体のない幻に見えてきた。写真の見過ぎか? すべて、映像、画像の世界のもののように見える。皆、わたしに背を向けて、ランダムな動きを止めない。皆、私の頭の中で、勝手に動いているイメージに過ぎないように見えてくる。どの人もいずれ、身動きをしなくなり、腐敗をはじめるまでの、束の間の、一瞬の出来事を、目撃しているような気がしてくる。そして、それは、たぶん、思い違いではない。

帰って、机におかれていたので、開いた本『人間というこわれやすい種』(ルイス・トマス、晶文社)は、ニューヨーク大学の病理・医学者によって書かれた医学エッセイ。ここでは、「脳は、この宇宙で最も複雑で精巧なものであり、おそらく宇宙そのものすらもこの中に含まれているかもしれないのだ。実際、宇宙じだいが脳なしには、存在しえないと考える人々がいる。つまり、人間の脳が実在であると知覚するものだけが実在なのだ」と書かれていた。

本は適当に手に取って、開いているだけである。それらは、わたしにしきりに、メッセージを送ってくる。



以下の写真は、全く関係なしだが、Facebookでの最年少のmy friend、クロアチアのMikota。8歳くらいだったかな。日本のアニメファンなのだ。ナルトとか、遊戯王とか。さて、写真は、何屋の前だろうか。マメ屋? 種屋?