17.1.10

決め事の本質 2

きのうの日記を書いたら、メールでコメントもらった。

「日本は、殺人が減って、自殺が増え続けている。他人と協議せず、自分ひとりで、決め事をしてはならん。」といったようなこと。確かに。わたしが、へえと思った2人の先輩の(先生も大学の先輩である)意見である「結局、人がどう思おうと自分で決めたらいいのだ」という言い方の危うさを指摘している。たしかにそうだ。

 わたしも自殺系の人間だと思う。相談しても、思うようでないと、無謀でもひとりで行ってしまう。というか、相談にのってくれる人など、いないしね。「ん〜、それは自分で決めてくださいよ〜」という返事が聞かずに、聞こえてくる。そういえば、昨日書いた、先生の口癖は「それは、あんたの問題でしょう〜」だった。

 たぶん、人は、自分に相応しからぬ社会にいると思えば、相応しい社会を探して、そちらにゆこうと努力する。だが、それがかなわぬ時に、自分では相応しくないと思う社会に居続けることになる。しかし、そこの社会の「のり」をはずすと、強力な抵抗にあい、孤立する。その時に、自分の理想を捨てれば、あっさり、生きやすくなるのだろう。もしかしたら、死ぬのさえ、楽になるかも。その社会のためなら。

理想を求めて生きることは、それほど大事なことではないのかもしれない。生きることで、学ぶことは、もっと違ったところにあるのかもしれない。

 ところで、きのう書いた「あれ」という決め事は、その社会で「あの人が決めるなら、それで良いだろう」と思うような人が、大事なことを決めてゆくシステムのことを言う。それは、権力者であったり、年長者であったり、その道の専門家であったり、人気者であったり、根回しの上手な人であったり、霊能者であったり、する。その決めた内容が、「大正解」かどうか、ではなくて..... というか、正解があれば、それにこしたことはないけれど、正解のないようなことに関しては........ 決断をあずける存在を求める、ということ。

 人は、事実のすべてを知らされたからと言って、自分で、それを解決できることは、めったにない。むしろ、知ってしまうとかえって、動けなくなることも、多い、のも確かだ。なので、「他の力」というものを、使う、というのが、昔の人の知恵なのだろう。

「あなた決めて!」と、言えるようになることも、大事なのかもしれない。人を信頼する力、今こそ。

と言ってみる。.......しかし、日本の近代史が、それを、しにくくしているのだ... と思ってしまう。..........