21.9.10

仕分け時代

前にも書いたかもしれないけれど...........バブル期を過ごしたことは、恥でもなければ、「反省」しなければならないわけではないと思います。「失われた20年」しか知らない人たちには、悪いけれど、物事が、ディープだったり、軽薄短小だったり、贅沢だったり、インスタントだったりと、両極端に、いろいろあった時代を楽しませていただいているから、近頃のように、売れるとか、経済効率とか、仕分けされたりとか、世の中に役立たなきゃ、プロのアーティストとは言えないとか、せっこい時代に対しては「これがあたりまえと思うなよ」といって、距離を置く気持ちでいられるのだと思います。
確か、90年代のなかごろから、しきりに「アートの社会における役割」という言葉が出て来ていたと思います。私は、そういうアメリカ人みたいにはなりたくないって思っていました(もちろんこれもアメリカ人への偏見)。個人の欲望の対象だからこそ、文化なのだ。

でも、2000年代の中頃になって、自分である程度の大きさのイベントを企画しなくてはならない(と思い込んでいたんですが)ような状況になり、助成金をいくつか申請したら、意外と取れちゃったりする経験は、少し、私の考えを変えました。税金を使わせていただくからには、何かを世間に返さなくてはならない、というような気持も出て来たり。もしや、私もなんらかの役割があるかもしれないと思ったり。2005年に横浜、東京、長野、広島とドイツのアーティストの紹介というのをやり、そうするといろいろな、「お財布」や「権利」を握っている人々に会うはめになり、そういう方たちと、面と向かって話をする術を身につけなきゃと思ったりしました。たぬきさんとか、きつねさんたちと。世間は、そのあたりから、「ディレクター」が偉い人みたいな空気になってきたんじゃない? アートの言語で社会を動かす、みたいな感じ? でも、それはアートの言語ではないんですよね、実際は。上手に二枚舌を使う。いやいや、それでいいんです。それでないと、大きなアートイベントに資金は作れません。でも、私の場合は規模が小さいし(せいぜい100万円)、それに、やはり、作品で評価されたいと言う気持が何より大きかったです。やりたいことも、皆さんにはわかりにくくて、わからないとよく言われてました。私の舌は一枚しかついてなかった。つまり、それは、作品でやればいいと気づいた。一方、得たことは、「路上=社会」ということに、自分なりのスタンスを持つことを楽しめるようになりました。それは良かったです。自分は世間の一部を占めている小さな点の「分」ということを感じられるようになった。他人にとっての自分というのを、少し見えてきたのは、良かったと思います。
でも、プロとして、日本でどう仕事するかという問題は、こじれるばかり。だんだん、それが矛盾した問いだということがわかってきました。

仕分け時代のアートは、アマチュアである方が、クオリティ高く、追求、研究、トライアルできると思います。余暇の過ごし方みたいになっては、だめだけれど、自分自身のために、自分と自分とともに生きている人々とともにいるために、本気で、取り組みたければ、本格的にアマチュアであるのが、良いのです。


不景気なのに、ネットの情報でのアートは無闇に盛んに見えます。スターアーティストを祭り上げて、皆に、ジェラシーやら、追随をあおったりしているように見えます。でも、実際はそんなに派手じゃないし、アーティストがバイトで一生懸命はたらいたお金が、つぎ込まれてるだけだったりするみたい。だまされちゃいけません。

ということで、マルゴーはジミです。コアな観客が、コアな足取りでやってくる。いいねえ。

以下、写真、芝田文乃さんです。いつもありがとう。
写真は音がなりませんが、音がかなり大事なパフォーマンスです。シャトー2Fは意外と静かな環境にあり、微細な音を表現できるようです。