14.2.10

夜中に誰もいない橋を渡る

 夜中に2時間くらい歩いた。寝ていたわけでもないのに、考え事をしていたら、一駅乗り越してしまった。面倒だから、歩くことにした。人も車もないど田舎の道。このあたりの、一駅はとても遠い。しばらく歩くと、川が見えてくる。川を渡る。風がびゅんびゅん。結構長い橋だった。水の音が聞こえる。遠くに人家がパラパラ。田んぼばかりの道。なんとなくなぜか、自分を罰したい気持ちもある。そうではなくて、何かから力をもらっているからなのかもしれない。高揚していたのかもしれない。いや実のところ、深く深く落ち込んでいるのかもしれない。理由はいくつもあってわからない。実は何も考えず歩いた。なぜなら、道を知らないから。考えて歩かないととんでもない方向へ行ってしまう。タクシーを拾う事もできたが、歩きたいと思った。決めたことはやり通す、と言ったことをしたかったと言い訳をしてみる。山を登り、引き返さないで、山の向こうに行く、みたいな。去った事はもう戻らない、何も、ということを、身体に叩き込まなくてはならない。叩いても叩いても、身体はなかなか、理解しない。ということかも、と理由を探す。ばかばかしいことをやり遂げることが、好きなだけの話かもしれない。学生さんの影響で、自分の本分を思い出しているのかもしれない。2時間くらいではまだまだ。


 以下は、Cannons and Musesのオープニングのパフォーマンス。阪中君が、自分が担当した、Chayaという女の子のパフォーマンスを彼の身体で行う。コンセプトがいまいち、腑に落ちてないんですと、毎日彼は言う。メールで、Chayaにレクチャーしてもらおう、と言って、昨日は終わりにしていた。腑に落ちるまで、きっと、彼は、おしっこを漏らすことができない。おしっこを漏らす事自体が、目的になっては違うという気もするし、と迷う。彼は、実はなんでも迷い続けるタイプなのか、それとも、これについては迷っているのか、わたしには、判らない。まだ、彼については、わたしも知らないから。白い花の方が、Chaya。Chayaはおしっこを漏らしている。

 水が身体をサーキュレートしているということを、体験、体現したいのだと、Chayaは書く。身体は、所詮、それだけのはずなのに、人間は、それだけとは言えないような活動をする。社会も、家族も、愛も、友情も、戦争も、ビルも、町も、都市も、何もかも、幻想であり、あっと言う間の、無意味な出来事とも、思える。人は死んだ時、尿道が緩んで、失禁する。それだけの生き物である、ということだけは、確かのように思う。
三島由紀夫の「豊饒の海」で、4巻にも及ぶ大ドラマの最後に何もかも、幻で何もなかったことかのように、言われてしまうシーンがあった。高校生の時それを読んだときは、技巧走った文章だと思って、ピンと来なかった。ハリウッド映画のとってつけたようなオチのようなものかもしれないとかんじていた。
 でも、今は、わかる。