30.7.08

身体という牢獄、あるいは物物交換

ちょいと暗いタイトルになってしまったね。

でもこれは事実なのだ。
10年くらい前に、バイトでお世話になっていた女性が、白血病にかかって、入院。手紙を書いたりして、景色のこととか、鳥のこととか、花のこととか、そう言う事しか、書けなかったからそれを書いたんだが、彼女は電話してくれてひとこと「でも、さきちゃん。わたしは、元気に生きられる身体とこれを代えて欲しいだけ」と言った。

だからって、絶望ではない。
だけど、わたしも2年くらい前から、ひたすら、体力が落ちて、今日の元気が、明日の保証にはならないような感じ。病気があったから、手術したけど、かえって、体力が落ちた。いろいろな体操をしてみて、今は、ボクシング。ちょっとブームらしい。精神との関係があると思って、面白げなことがよかろうと思った。でも、2週間に1度しか、レッスンがないから、毎日は、自主トレ。なわとびとシャドー(って言うのかな)をしている。4週間目になったけど、何か、変わったかな。

物物交換は、欲しいものと代えてもらうための相手を探すのが大変だ。だから何でもと、交換のできる貨幣ができたという話。でも、お金を払っても、知りたい情報は、なかなか見つからないね。売りたいものと、欲しいものが、一致することすら、本当はめったにないのだ。

「身体という牢獄」というのは、実は、また別の話。
他人の立場など、本当は、想像することはできない、という意味だね。また、その逆。

身体のことは、宗教にもなりがちだから、いやなんだ。希望なんかと混ぜたくない。イメージの遊び、それがせいぜいというものだ。80歳になっても筋肉トレーニングをするというのは、変態だと思う。心が受け止められる早さの老化がいいな。ないものねだりだな、それも。第一、病気で死ぬ時、痛みが伴うのは、なぜなんだと思う。殺すつもりなら、痛めなくたっていいではないか。


フに落ちない。腑に落ちないという言葉も変だけど、つまり、そういう制限を、おもしろがりたいということなんだ。
まだ、暗く聞こえる?

一生懸命鍛えているアスリートを見るとご苦労さんって、言いたくなる。自分の身の限界に迫っている。

勝手に他人に思い入れる。愛、かよ。だらしない、考え。想像力。これもだらしない。そのだらしないのも、いいのでは、と思う。
楽に行こうぜ。


写真は最近見かけた、樹。彼/彼女はどこにも行けない。それを面白いって思ってしまうのって、失敬なんだけど、想像力ってそういうものだ。