29.7.09

最終回

きのうは、市役所介護保険科に用事ででかけて、帰りに、NHKの朝のドラマのロケに遭遇する。川越のシンボル、時の鐘の前で、サンバをやっている。大きなぴかぴかのクレーンの上にカメラの人がいて、撮影中。なんとなく、最終回なんだな〜と思う。野次馬に混じって、目をこらすと、サンバのダンサーの合間に、胡麻くらいの大きさの女優さんたちが見える。「ああ、女優さんて大変だな〜」と思う。スタジオで演技するのは、かっこいいけど、かんかん照りの田舎町で、うれしそうにサンバごっこをしなくてはならない。ドレスや着物を着ている。ギャラもらわなければ、やってられないと思う。今日の新聞の埼玉版に、載っていた。やはり、最終回らしい。



セカイは、究極の選択みたいな場所だと思う。



やっとAfrica for USAの感想みたいのをいただいたりしたが、やはり、言語は頭に入りにくいのかもしれない。順序が変わっていたり、notが入ったり、じっと見るとわかる、いろいろな変化を表したつもり。ベランダのサボテンみたいなもんなんだ、わたしには。でも、だいいち、「なんで日本にいるヤマオカがあれをつくる意味があるんだ?」という問はあるでしょう。でも、あるんだ。
ぱっと見てわからないものは、わからないと考える人もいるかもしれない。わたし自身は、あれこれ、妄想をさせてくれる作品が好きだから、自分もそうする。自分のような人へ届けたい。

最近知り合った映像作家の人が「アートは政治を扱っていてもいなくても、政治的なものです。美術とは違います」とメールをくれた。なるほど、うまいことを言う。美術は、何か作ってあるものだと思う。芸だったり、職人だったり。
それはパブリックのセンスだと思う。市民たるもの、自分たちで、勝ち得た、民主主義という自由の場所では、自分たちでルールは守るし、また、問題があれば、提起する、というのが、市民だ。路上も公民館も市民のものであり、「おかみ」のものという発想ではない。公とは、おかみのことではなくて、市民たちの責任と義務と自由の場所。ゆえに、市民の発言はすべて、政治参加の意味と同じになる。だからアートの中に、何か考え方、感じ方ですら入ればそれは政治的になるというわけだ。植物の絵ばかり、描くとすれば、それも充分政治的だ。
で、わたしだけど、「おかみ」がしきっている社会に育った。だから、市民のセンスが乏しい。選挙に必ず行くから、スタイルとしての民主主義は身にはついているが。
ところが、アートだ。この10年、わたしがアートだと思って注目してきたのは、すべて、欧米のものだったし、活動の8割は欧米だし、ディスカッションしたり、喧嘩をしたりした相手は、西欧人たちだった。そうやって獲得して、自分のやり方は、たぶん、アートなのだ。だが、アートの言語のネイティブではないから、結局のところ、どこかぎこちないクレオールなのである。

なんちゃって。
でもそう。ここまでこう来たので、この路線で走ります。そうなる理由を4月頃書いたテキストに書いた。和訳しますね。
でも、政治の人たちとともに歩んだりはしないと予定です。
自分のおろかな、直観だけを頼りにしたい。
今年は、自分の路線を確認することと、新しいスキルを学ぶことが目標かなあ。あまり、旅行できないから。
ベランダの植物とともに。サボテンがすごいんだ.........