31.12.09
Wish on Art
個人的に、できすぎてると思う「出来事」は、私が、展覧会を見ている間に、ありました。保険会社から携帯電話にコールが入り、後で、かけ直したけど、......つまり、父の「高度障害保険」が、入金されたというお知らせが、入ったのです。高度障害保険とは、死亡保険を生前に払うという保険です。身体が相当ガタ来ていて、回復の見込みがないと判断された場合に、払われます。これをもらうと、もうその保険会社との契約は切れます。独特の、明るく響く声の担当者で、とても親切でした。たぶん、そのような声であるのが、正しいのだと思います。
わたしが、医学と芸術を関連づけて作品を作るとしたら、保険に関することになると思います。とても、興味深い、残酷で、役に立つ(こともあるし、捨てているに等しい)システムですね。社員は結構良い給料です。21世紀に発展する業界は、保険とセキュリティ関係でしょう。Drillで、少し、触れています。YouTubeには、出してない部分。もっと早く興味を持ちたかった。
頭の中で、何度もすでに行っているパフォーマンスは、保険会社のカウンターに、棺をかついで入り、そこで、しんみりと(あるいは陽気に)お葬式の儀式をするというものです。歌などを歌います。棺を担いで、丸の内あたりを歩きたいけれど、棺をどう用意するのかしらと思う。オノヨーコじゃないからさ、たった1つだって、用意に困るのだ。頭の中でやってみるパフォーマンス。
「Wish on Art」は、スイスの若いアーティスト、ミロスラブがさっき送ってきたメール。彼のプロジェクト。よくわからないけど、いろんな写真に、スタンプを押しているみたいです。お願いの、お守りみたいな感じに見えて来る。スタンプにあるメルアドに何か、書き送ってくれっていうわけなんだと思います。送ってみます?
Have a nice year-end.
27.12.09
年の瀬川柳
26.12.09
Greeting Card 2010
けさ母が、父の入院している病院から帰って来て「ついに、あの人、しゃべらなくなった」と、肩を落としていました。それで、今日、午後に行ってみると、ぐうぐう寝ていて、看護士さんが「きのう遅くまで興奮してましてね、夜中ほとんど寝てないみたいでした」と。「でも、今、また寝ていると今晩も眠れなくなるので、起きていてもらってください」。きのう夕方わたしが行った時「もうやすらかに死なせて欲しいよ。......こんなこと、言うからって、悲しまないでね。」と言ってしまったからかもしれません。それで、思いついて、父の最大の趣味であった(仕事でもある)川柳の本を取りに帰り、持って行き、読んであげることにしました。なかなか面白い本で、戦後の復興から現代までの間の時事川柳を集めたもの。聞いている?と聞くと、うなづくけど、どうしても、目が開かない。手を握って「面白いときは、きゅって指を動かしてね」と言いました。そうしたら、時々、ちょっと動かす。何か聞くと「しっている」くらいは答える。昭和30年頃はやった歌「バナナボート」の話があったので、どんな歌だっけと聞くと、歌い出した。「デ〜オ〜デ〜〜オ〜」まあ、つまり、おっくうで動きたくない、という状態です。あしたも行って読もうと思います。小説なんかと違って、ひとつひとつが短いから、ずっと聞いていなくても大丈夫なのです。
ブログって、日記形式だけど、日記でない、ということに今日はじっくり気がついた。これらをプリントアウトするのも、ばかばかしいし、つまりは消えてしまうもの。つまりは、読んでいる少数の人にむけたエッセイのようなものだね。
時々、殴り書きのように、思いのたけを書いてしまうことあるけど、あまり良くないなと思いました。特に、わたしのブログは、若い人たちも読んでいて、書いていることをあまり理解できないまま、不安な気持ちになったりするかもしれない。気をつけて書こうと思うのであります。
.......でも、昨日の、燃えちゃってるツリーは、いいでしょう? キリスト教の人はあまりいないだろうから、道徳的な不快はないとおもうのよね。
24.12.09
所有権
今月中はもうひとつ(別の)行くかどうか、思案中。自分の人生が大変すぎて、抜け出せるか、あやしい。
ライブって、本当に、厚い層があるんだってわかったが、たぶん、日本ではパフォーマーって地位が低い。美術家とたいして変わらないと思うが、そうなる。どうしてなんだか。
今日の動画は、わたしの承諾なく勝手にiTuneなどの広告が付け加えられているのにも、かかわらず、わたしのアカウントには、「他人が所有権を持つコンテンツが含まれている可能性があります」と警告されている動画。なんか、図々しいと思う。googleさんとYoutubeさんよ。
23.12.09
さようなら0S9
それととも、へやが模様替えされます。ホームページもしばらく、アップできません。あれも、OS9の君のお仕事でしたからね。HTMLをやっぱりやんなくてはならん。できるかな、できるかな。
本日の映像は、Sun Raにします。アフリカ系アメリカ人ジャズではなくて、アフリカ人ジャズ。最近知ったばかりだけど。
21.12.09
20.12.09
作品が他人の作品に混ざる時
以下は、アクトレスとして、名前を出すのは、やめて欲しいと、パベルに言ったので、名前がないです、こっちでは。わたしの作品だもん。剽窃じゃん。コラボレーターとなら、名前をのせてもいいけど。
パベルのサイト。さなぎの家も映っているんだ。
こっちは、わたし。
19.12.09
誕生日だったので
昨日の午前中父が退院して、昨日の夜の11時すぎに、また、病院へ戻った。一旦、あきらめた(危険だから)手術をやはり受けることになる。「もうご自宅に帰れないことになるかもしれませんが、ご承知下さい。もちろん、ベストを尽します。」と先生は言い、私たちは書類にサインした。夜中12時過ぎに、わたしの誕生日だからと、母と安ワインをあける。ほとんど、わたしが飲んだかも。今日は、完全に爆死したまま過ごした一日だった。安いお酒は、本当に身体に悪い。
添付は、ポーランドのダリウスが送ってきた季節のごあいさつ。
18.12.09
ICCと世界銀行情報センター
なかなかイカした組み合わせ。
ICCでは、コープヒルメンブラウの展示とオープンスペースの一部に作品をみる。
コープは、建築の話。都市計画は、雲のようであり、建築は身体の神経系統ようなものだという理念にもとずく建築を作っているらしい。
ところで、展示作品がインタラクティブと言ったって、それほど、知覚に特別な経験があるわけではない。心臓音が、変換されて映像になって、バルーンに照らされたり、など。まあ、建築家の話だ。妄想も、常識の範囲。
それから、オープンスペースの『メトロノームと無響室のための作品』は、楽しかった。音を楽しんだ。エンターテイメントだね。何か、なぞがあるわけではない。『ミッションG』は、ちょっとあたしの頭には、むづかしい。だいたいの説明は、以前、四方さんが話しておられたので、まったくわからないというわけではないが、私の能力の限界。残念。
『続基礎情報学』という本を買った。読めるかな(笑)。
世界銀行情報センターは、富国生命ビルにある。なるほど面白い。でも、センターといっても、携帯売り場のショップみたいなかわいらしい場所なのは、意外だった。そこでは「アフリカの開発とアート」展でという小さな展示があり、今日は「現代アートを通して見る東アフリカ社会」よいう吉田栄一さんのトーク(レクチャー)を聞く。世界銀行という場所で、どういうスタンスなのかな、と思った。なかなか微妙で面白かった。興味深い視線を持った人だなと思った。アフリカのアーティストの多くは、外国人に売れるから、作品を描いている。人気があるのは、動物の絵、色鮮やかな絵、政治・社会問題を扱ったもの。でも、売れなくても、自分の描きたいと思うものを描こうという人も出てきている。アフリカにある画廊は、ほぼすべて、ヨーロッパ人の作ったものだそうだ。美術館でも売っている。ポストカルチュラル、と言ってしまえば、それまでだけど。
アートって、ウイルスだなと思う。文化とイコールではない、もちろん。なら、なくてもいいものなのかも、と思ったが、もう知ってしまった以上、その感染した身体で、生きて行くよりないし、それが、まあ、アートなんだな。ねじねじにねじれている。今日来ていた人の中には、それらを(売って)ひと稼ごうかしらという人もいたみたいだ。描く方の気持ちはあんまり考えてない感じ。そういう金脈があるんだったらって感じだ。開発には、セットとして、教育ってのもあって、それって、おしつけがましい(笑)わけなんだけど、良いことだと信じている人は、良い仕事をしていると思っているし、たぶん、そうなんだろうと思う。その辺をとやかく言うのが、わたしの仕事ではなくて、そのことによって、できたねじれで、どういうアートが作られるんだろう、ということに興味がある。つまり、自分も、そういう場所にいるので。指は指差せないから、目だけでも遠くへ。
17.12.09
デイブ・ブルーベックたち
ケネディ賞受賞。なんか、とっても、政治利用。そういうものですね。
.......そんなこと気にしている場合でもない。
台湾レポートをまだ書いている私。近いうちに、アップしますね。
15.12.09
闇
13.12.09
定番
12.12.09
Drill
パフォーマンスとしては、ちょっと納得してない所もあったのだけど、今見ると、自分でわからなかった所の意味がつかめた。
..........とにかく、このビデオは8分くらいですが、実際は50分くらいであり、いかに、しつこく、「ドリル」していて、お客がどれほど、あきれ果てたかは、想像していただくしかないのかな。
あきれて果てる、というのが、大事なのかな〜
近代日本が、身体的に近代人になる過程を、ちょっと皮肉をこめて紹介しました。日本人だけでなく、20世紀はセカイ中で、拳をあげていた。ロックンロールも20世紀的な4拍子のマーチのひとつ。高いところで、手を降り、投げキスをする私は、ロックンローラーなのか?
金属をリンゴという身体に埋めていくのは、鍛錬と錬金術をかけた。無理矢理、近代化させられる身体が悲鳴をあげている、というイメージ。実のところ、にせものなんではないの?というわけ。
というテーマなんだけど、楽しんでいただけるかどうか。
11.12.09
触れられる音
ところで、C&Mは、東京でも新しいメンバーが入ったし、台湾のメンバーも入った。どう進化するか、楽しみ。よくあるスタイルの交換イベントだけはやりたくない。花火のように終わってしまうからね。 来年は、大学を卒業するメンバーも多くて、これから必ずしも、学生対象にはならなくなるでしょう。それでも、「自主研究」である柱をすてずにいたい。イベントなら、世の中たくさんある。それに、芸術家になるだけが、人生の選択ではない、という方向でいたいとも思っています。わたしは、もう方向転換できないけど、若い人たちは、様々な方向があるべきだと思う。それに.......一番、大事なことは「アートはアーティストのためだけではない」ということかもしれない。なんてね。
父の病気のこともあるので、今年から来年にかけては、じっくりした日々を送りたいとも、思っています。
写真は、スティービー・ワンダーの指。たぶん、まだ彼が20代のころ。後ろにある白っぽいのは、誰の指か知らない。ビデオからとったので、次の映像と混ざっているけど。見えない人が、音を「触れられるもの」のように感じているかのような、感じに、関心があります。辻井君にもちょっと注目。
9.12.09
それは冷やしてはいけない
それから、ICCに行こうとしたけど、もう時間が遅かったので、あきらめて、渋谷で、御飯をひとりで、食べて、Kと待ち合わせ。彼女は、この夏からの友達。ここでも近況を話しあって、それから、いっしょにイメージフォーラムに行き、イトウタカシ氏のフィルムをいくつか見る。やはり、Spacyのインパクトがすごい。Spacyの面白さは、どんなセンチメンタルもないところなんだ。すっぽり抜けている。ばかばかしいようなセットが良い。Ghostもいいけど、中味や風味がありすぎかも。
あ、わたしのDrillもアップしょう。
以下は、イトウさんのDVDの宣伝用。これでは知らない人には、わからないかも。DVD用の効果と間違われるかも。この宣伝用動画の中では、倉庫みたいなところを、行ったり来たりするとことが好きだな。わたしみたいだから(すまない)。
ところで、見に来ている人々は、そろってむさ苦しいにいさん、おじさんばかりであった。やはり、カップルでは見ないタイプのものらしい。
Kさんと、近くのワンコインバーで、赤ワインを一杯だけ飲んで、いろいろ話して帰る。赤ワインが、冷えていたので、苦くなっていた。渋谷も田舎なんかな。赤ワインは、決して冷やしてはいけん。
Kさんには、オセロの作品(Ceiling Painting)の話をしたら、大変、おもしろがってくれた。京都の寺院でやって欲しいと言っていた。陰陽道にはまっていくのか、わたしらは。
7.12.09
C&M 少し進行
毎日、ジミにメールを書き合って、相談です。 テルアビブのプレムは、本当にいいコーワーカーです。
彼が、今年キブツでのセミナーで書いた論文が送られてきました。戦争とアート、というそのものずばりのテーマです。20世紀に、戦争のイメージがアートの中でどう表現されてきたか、という内容ではないかと思います。面白そうです。
別件だけど、ワンダララ計画で、呼ぶ予定だった、マリリンが、台湾でしたレクチャーの原稿も送ってもらいました。こちらは、パフォーマンスアートのイントロダクション。まるで、知らない人向けの紹介ですが、「観客の役割」というチャプターもあってよさそうです。
わたしの頭の中でも、論文を書いています。
芸術におけるウエスタンスタンダードを受け入れながら、スタンダードの中にいない者の劣等意識でなく、スタンダードの外にいるからこそ、総じた立場で見ることができる、という強みについて。文化は政治なのであります。政治を動かすのではなくて、すでに政治の一部。
6.12.09
こんなことも、あった
後半は、2006年の12月。トキアートスペースで、いろはにほへとを、歌った。最後のは、トキアートスペースの近くのそば屋でイルマと飲みながら、話している。イルマは、いろはにほへとの歌が、なぜか、とても気に入って、教えてくれと言うのである。エンドレスで歌い続けてしまう歌。このころから、わたしの声が通るようになったと思う。けっこう、こっそり、練習したもん。狂言風に。だれも狂言風だとは、気がつかなかったみたいだけど。
この作品は、楽しんだ人も多かったが、いやがった人もちょっといた。
さっき、友達が携帯メールで、わたしが、阿部寛に似ているのではないかと書いてきた。そうかな。
5.12.09
誰かな〜
地球の歩き方、銀座編
これはどういうこと? オートマチックに組み込まれたのではないでしょう? ビデオを撮った木村さんの投稿かもしれない。
4.12.09
手術、のことなど
時間が重くなると、今度は、どうしたらいいのか、わからないくて、時間が流れるのを、眺めてしまうことになる。
どのみち、人生とはそうなのかもしれない。
人は、自分に心地よいことで動くという生き物だ。お金がもらえる、異性と(あるいは同性と)仲良くできるといった基本的な欲望の次に、名誉を感じられる、自慢できる、良い人に見られる、何かを得る為に学べる、チャンスを得られる、かっっこいい気分を味わえる、人の上に立てる、自分のセンスを磨ける、自分独自のモノの見方をためすことができる、共犯者になる、などの他、「面白い」にはいろいろなニュアンスがあるが、どちらにせよ、とんがりたい気分とつながっている。誰もが楽しめる、といったことに、あまり興味がないのが、本当のアート好きだと確信している私。味わうには、集中力や経験、想像力のたくましさを求められるようなものに、ぴんと来る、喜び。スノッブさが必要だと思っている。ミーハーよりスノッブ。簡単に見えてしまうものでは、満足しない。
自分の作品。台湾で行ったもの。
目で見ずに、指の感覚だけで、駒を返してゆく。
最後には、すべてYesにしたが、本当は、どちらでも良い。ゆっくり混ざって行く過程が大事だと思う。床には、陰陽のマークが描かれている。白い脚立は、オノヨーコの「Ceiling Painting」の主なツール。わたしは、登って、虫眼鏡ではなくて、双眼鏡を使う。yesだろうが、黒だろうが、どちらでも良いというのが、わたしの方法。21世紀的だと思っている。
3.12.09
共犯感覚
いろいろなことがありました。「ぴちぴち行動展」のパフォ『Wind from Sky 2』。まあまあです。喜んでくれた人が何人かいたので、それで、良いと思います。銀座でのが、私的にはベストなんだけど、場所が広くなると、いろいろ条件が変わるし、わたし自身の欲も出てきます。ラストは、今回の「ターナーギャラリーバージョン」固有の展開があって、良かった。固有の展開が、大事。課題は、同じテーブルクロスでも、滑りの悪いテーブルというのがあって、グラスがテーブルから落ちる前に、テーブルの上で倒れてしまうことを、どう扱うかです。前できたことを同じことをしようとしても、それは無理だ。台湾の時も、そう。テーブルが大きいという問題もあります。どちらにせよ、楽しくやれれば、何でも良いのだ。
もうひとつ意外だったのは、床が、危険+汚れまみれになること、若い人たちは「面白い」と感じていること。やっているわたしですら、「汚くなった、やばい」と思っているのに、彼らは、そのまま、残したいと思うらしい。なので、当日は、掃除をしないで、その後ずっと、ガラスをジャリジャリ踏みながら、イベントを続けました。酔っぱらいがでると危ないなと思ったけど、最近の若者は、泥酔しないみたいです。飲み物より、食べ物の方が、あっという間になくなります。彼らが、健全であるゆえ、ドロドロが、かっこ良く見えるのかな。もしや「やばい」の意味が、世代で違っているのと、同じような理由かもしれない。
台湾でも聞かれたけど、「発想はどういうところからですか」「コンセプトは?」という質問には、「すべて何もかもをのものを、めちゃくちゃに壊し尽してみたいという欲望って、誰にもあるでしょう?」と私は、まず、言います。すると、聞いた若者は、私の目をじっと見て、用心深そうにうなずきます。決して、勢い込んで、うんうんとは言わない。わたしは、それを見ると、胸がきゅんとなる。おおっぴらに認めては行けないことだと思っている、のか? たぶん、開き直ってはいけないことなんだね。その、やさしさ、臆病さが、好きです。それから、その瞬間、私たちは、共犯者の心になる。それも胸きゅんだ。
銀座で、みんなで寝るパフォーマンスも、共犯感覚だった。わたしのパフォーマンスは見ている人と場所を共有して、欲望や興味を共有することになりがちである。それって、ちょっと、共犯なのかなと思う。反社会的なことを、疑似体験するってカンジ。あくまで、アートの文脈で、それを行うというのが、わたしのスタンス。なので、銀座であれをしても「格差社会」に、問題提起できたとは思わない、通行人にインパクトを与えたいとも思わない。ほんとに、社会の中で、暴れたい、あるいはメッセージをしたい人とは、別だ。
今日は、別のネタを書くつもりだった。今日、書く予定だったことは「類は類を呼ぶ」ということと、人間関係の話ばっかりする人々について、文句をたれようと思っていたけど、まあ、いいや。あしたにしようっと。
腕については、整形外科で、何枚もレントゲンをとって、骨の異常がないということで、痛み止めだけもらう。異常がないって? 骨盤が「ダンス中」みたいに、右上がりなのは、お医者には、「問題ない」らしい。しょうがないから、今度は、整体師だ。ダンスは、ダンスのときだけで良いのであります。ダンスを休もう。
28.11.09
渋滞学とぴちぴち行動
きちんと急ぎたいなら、ゆっくりゆけ、ということを数学で証明した西成さん。国のお金で研究している超エリートだけど、変人きどりで、妙に楽しそうなやつだった。まあ、それはいい。
自分だけ助かろうとすると、もしかして、自分だけは助かるかもしれないが、あるいは、自分も含めて多くの人が助からないかもしれない。ゆっくりすれば、より多くが助かる。自分は、自分ひとりではないのだ。ひとりで、無人島にたどり着いたってつまらないじゃん。とまでは言わなかったけど。数学が実学に応用されるとも言えるし、実学の真理に、数学がある、とも言える。
21世紀を生きる為の、知恵を、収集する為に、こういう授業も受けておきたいと思った。
明日は、C&M tokyoの最も若いメンバー、阪中君の企画している「ぴちぴち行動展」のオープニングに、パフォーマンスをしにゆく。明日からだってのに、ホームページに、スケジュールが出てない。明日は、その阪中君の誕生日で、20歳になるんだそうだ。そのパーティに、パフォーマンスを頼まれた。作品も、例の、グラスを、落して行くやつをやって欲しいというので、今日は、数千円分のグラスを買った。西武線東長崎駅から10分のターナーギャラリーで、19時からです。まあ、19歳にしては、すごくしっかり、アーティストである、阪中君をお祝いしてあげよう。テーブルの上に渋滞を作る。解消は、平和的ではない。
右腕が痛すぎるのが直らないので、来週は、整形外科に行きます。右足の親指の爪も割れているみたいなので、それももてもらおうっと。壊れているのは、わたしの方なのだ。
22.11.09
帰国しました。
台湾。わたしが参加したイベントで、わたしがもっとも成功したもののうちのひとつとなりました。
昨年からやっているパーティのように優雅にセットされたグラスたちをターミネート(皆殺し)していゆくパフォーマンス『Wind from Sky』、台東大学の100人以上の学生に囲まれて、ほんものの風がびゅんびゅんふく屋外の石造りのステージで、日も暮れ始めた約一時間、ねっちりと、闘牛のようなしつこさで、ねじふせました。ちょっと中だるみしたものの(つまり、風が強いので、紙やプラスティックのものが置けず、全体の質感が似てきてしまったのでね)、屋外であることを良いことに、暴力性がましてきて、力士のようになってきた。すいかや、シャンパンボトルという大物も、がしゃぐしゃ。面白かったのが、ものが落ちるたびに、学生さんがキャーと声をあげ、しまいには、5人ぐらいの学生さんが出てきて、シャンパンやグラスを、救済してゆきました。
準備に少々お金がかかる作品ですが、やるたびに、状況が変わって、自分でも、ハラハラします。買い物にも、神経使ったよ、だって、100円ショップがないんだもん。でも、お店で、ねぎらせていただきました。
新しい作品『Ceiling Painting』は2時間のデュレーションパフォ。台北と台東の両方で行いました。これは、参加アーティストすべてが、同じ時間に別々の場所で、別々の作品を2時間行うというもの。観客は地図を持って、見てまわります。(ちょっとサファリパークみたいなもんだ)
台北では、公園の中の、子供がよくのぼるような木造3階建ての展望台の、てっぺんの狭いスペースで行いました。覗き込まなくてはならないので、あまり、よく見られなかったかもしれないけれど。ただ、アイデアはわりと、判りやすかったと思います。陰陽の印、太極の図を描きました。その上に、白い面にyesというシールを貼ったオセロのコマを、120個ほど置き、直接、見ずに、目を背けたまま、指の感覚だけで、コマを裏返します。はじめは、ばらばらに置いて、それから、それらをずべて、黒にする。yesの側は、シールが貼ってあるので、ざらざらします。時々、脚立に登って、その上から双眼鏡で、それらを確認する。双眼鏡は、近くを見るための道具ではないですから、大変見にくい。すべて黒にしたら、今度は、すべて白のyesにする。およそ、2時間かかります。双眼鏡で、脚立の上に立つときは回りの風景も見て回る。それは、公園内のいろんな人から見えたでしょう。面白かったのが、原住民であるワタンというアーティストが、展望台の私に、原住民の姿で、弓矢を射るアクションをしたこと。150年近く前の、台湾の状況を、表したみたいです。
台東市では、元砂糖工場跡地が、私たちのデュレーションパフォーマンスに与えられたスペースでした。わたしは、元事務所棟で今はカフェになっている建物の中庭で、行いました。ここには、黒犬2匹と猫がいつもたむろっています。白黒のオセロのコマを使うので、いい感じになると思いました。ここでも、学生さんの自由参加があって、終わるとともに、そのまま、ミニトークタイムになっていったのは、良かった。うれしかったのは、カフェのオーナーのナイスなおにいさんが、いたく喜んでくれたことかな。指で、ゆっくり、yesを探すというアクションは、理解しやすかったと思います。ヨコハマのカフェのオジサンもこうだったら、良かったのに..........。
残念なのは、このイベントの方法だと、他の人の作品がほとんど、見られないことですね。
なので、自分の話ばっかりになる。
トークイベントもしました。予定にはなかったので、ホームページからテキストをダウンロードして、持っていたDVDをネタに、1時間ほど。通訳が入るから、実質45分くらいだったかな。5月のザグレブ行きの時に作ったものが、ここでは、カットされずに、最後まで、見てもらうことができました。
今回学んだことは、イチローに同じく、パフォーマンスに立つまでのプロセスが大事ということ。集中力を高めてゆく流れの中に、無駄をはぶいて、まっすぐ、目的に向かうということ。わかっていても、いつもできるわけではないですね。
今回は、オーガナイザーのイエーツーチーの、イベントの目的がはっきり、わかり、それがぶれていないことを知って、リラックスできたこと。ウソや駆け引き、パワーゲームがないこと。これは、わたしのような生き物には、ありがたい。
この実績を、どう日本での活動に生かしたら、いいか、考えると頭が痛い。単に、台湾の空にギフトとして、撒いてきただけのことになるのか?
まずは、今後は、知り合った学生さんたちを、C&Mに巻き込むかどうか、考えている。
写真は後日。
11.11.09
10.11.09
無事に生き延びられるか
事故や病気で死ぬのは、案外怖くない。もうあしただっていいくらいだ。
だけど、生活できなくなり、餓死するとか、施設に送られて生きながら死んでいるというようなことになる可能性は、可能性の問題ではなくて、三分の一くらいの確率で私に、起きる。
20年くらい前に、「40歳寿命説」という本があって、たしか西丸震哉という農水省にいた食糧学者が書いた。1960年代前後以降の生まれの人は、長く生きられないというのだ。食事の内容から、書いていたと思う。わたしは、40歳を過ぎた頃、あれ、案外大丈夫じゃんと思った。
ところが、ここに来て、50歳前後の人が、突然死する話を聞くようになった。主に、過労死なんだけど。
そうすると、将来、老人人口が増えていくという問題は、妙なことで、緩和されるかもしれない。つまり、多くは長生きしなくなる、ということ。
なので、上手に病気で早死にしたいって書いているわけではないけれど、言っているのかな。
とにかく、生き延びられるか、それは実は切実。だからって、職種換えすることもままならず、いつか........憤死するのかもね。
昨年から今年にかけて、亡くなった私の知り合いは、ふたりともアートプロジェクトを、手弁当で走り回っていて、途上で、倒れている。どちらも、とても、まっすぐな人だった。あきれるくらい。たぶん、ひとりで引き受けていたんだろう。「良い人から逝ってしまった」と書いたのは、アウシュビッツを生き延びた精神科医のフランクル氏。
良い人は、本格的な修羅場の来る前に、行ってしまえる、ということかな。アートプロジェクトはやめたがいい、ってことかな。大きなのはやらない。
金持ちたちは、策をねっているよ。どうやって、人口が増えて行くのを止めようかって。日本は増えてないけどね。
椅子トリゲームは始まっている。
9.11.09
虚栄心
虚栄心は、はずかしいことでもなんでもない。だが、自分のそれと、他人のそれを、どう扱うか、だね。
わたしは、かなり、もう冷静になってしまって、後をひくようなことはないみたい。なくしたわけではなくて、飼いならしている。でも、他人のはどうしようかな。
作品、整理がまだつかず。すげ〜目立ちたいし、ロジカルな美しさも欲しい。やはり考えるのは、未来の人間なのだ。
MLでシモダ氏が、パフォーマンスアートの弁明みたいなこと書いていたけど、じゃ、何が面白いんだ? ということになる。問題はジャンルでかこってしまっていることだと思う。だって、なぜ、他人の作品まで引き受けなくてはならないの?
もはや「運動」のスタイルは、生かされない。匿名性みたいなことって、わたしには興味がないもん。虚栄心があるからね。
今日も家事とデザイン仕事に追われるけど、時間をみつけて、妄想を広げたい。
8.11.09
うそはばれてしまう
通じないことはとても、多いのに、嘘だけは伝わってしまう。
前回、ボストンに行った時、喧嘩したジュリー・アンドレに台湾で会う。Facebookで友達申請してみた。2週間音沙汰なかったけど、やっと、承認。まあ、同じようなことを考えているのだろう。
セカイは、リバイヤサンの状態だと思う? わたしは思う。そのために、社会や法律がある。わたしは決して、アナーキストにならない。
アートが社会を救うなんて思わない。いかなる階級に人にも、潜む、人間以外のセカイに、またがっている人々との、組織なしの共同意識の確認なのだ。そのネットワークを、こっそり、広めてゆく。どこに仲間がいるか、知らない。ジュリー・アンドレも仲間かもしれないが、くだらない社会のために、分断されているだけの話。わたしたちの存在が、世界の試金石になる。(嘘)
石坂浩二とケビン・スペーシーの嘘は、好き。うれしくなる。
スティーブ・ライヒの嘘はどうしようか? フィリップ・グラスの嘘は、世間に許されてないらしいね。う〜ん。
なんか別の話になってきた。
気持ちのよい嘘をつこう。
7.11.09
目をあけているが
地面にオセロの駒を、鳩にえさをやるようにほおる。自分が鳩のようになってその中を歩きながら、駒を拾う。杯を持つ手つきで、駒をささえ、脚立をのぼる。空とともに杯を乾杯する手つきで、駒を高く上げる。そして、一瞬だけ、目を駒にフォーカスする。そこには、Yesと書いてある白い方か、何も書いていない黒い方かが見える。笑顔を絶やさない。その駒は、また放る。
脚立で前へ前へと移動する。通行人も皆参加できる。
時間4〜5時間。
”Ceiling Painting 2009" at Taipei (15th Nov) and Taitong (19th Nov)
オノヨーコの1969年の作品、"Ceiling Painting"への挑戦。あるいは、コントリビューション
まだ、甘い。これを長時間行う意味や、モティベションが不明。
台北で行い、駒を多く失ってしまうかもしれない。減る可能性は高い。そうすると、台東ではどうするか? オセロをもっと買って、駒を多く用意するか? .....
脚立をどう動かす?
このフォーカスしない、という態度はとても気に入っている。家の中で連続していると、自分の居場所がずれて行くのを感じる。もっと、いろいろなことを楽しめる。指が指差せないということのためのアクションを、想念だけでなく、身体が引き受け始めている。
6.11.09
未来の人間像
未来の人間像を抱く。
たとえば
「.......超民主主義の実現に向けて最前線で活動する人々のことを、<トランスヒューマン>と呼ぶが、彼らはすでに、収益にとらわれない、そして収益が最終目的ではない<調和重視企業>で活躍している。トランスヒューマンとは、愛他主義者であり、世界市民である。彼らは<ノマド>であると同時に定住民であり、法に対して平等なそんざいであり、隣人に対する義務に関しても同様である。また、彼らは世界に対して慈愛と尊厳の念を抱いている。彼らの活動により、地球規模の制度・機構が誕生し、産業は軌道修正されて行く。こうして、産業は各人のゆとりのある暮らしのために必要となる財(もっとも重要なのは心地よい時間)や、人類全員にとって、ゆとりのある暮らしのために必要となる共同資本(共同体のインテリジェンス「知性・情報」が重要となる)を発展させてゆく。...........」
これは、ジャック・アタリからの引用。
どうかな??
ノマドはわたしの理想として、ずっと心に思っていた。
5.11.09
サウンドミーティングレポート:メンバーへの手紙
4.11.09
Different Trains
3.11.09
テルアビブからのリアクション
ゆるりときちんのはざま
2.11.09
横浜映像祭はまだ行ってませんが
サウンドパフォーマンスの筋肉
30.10.09
Live show with C&M Tel-Aviv
わたし、山岡がコーディネートしている「大砲と美神 Cannons and Muses Tokyo(C&M Tokyo)」は、以下のイベントを催します。多摩美の学生を中心にした若いアーティストたちのセルフエデュケーションプログラムの公開イベント vol.3 です。
Sound Meeting with C&M Tel-Aviv
インターネットを使ったリアルタイム・ライブ・サウンド・ミーティング
(多摩美術大学芸術祭参加)
テルアビブのアーティストとのネットを通した共同作業パフォーマンスです。
日本側場所:多摩美術大学 演劇演習室(俗称、鏡の間)
日本側日時:2009年11月2日 19:00〜20:00 (テルアビブ時間は、この7時間前)
2009年11月3日 15:30〜16:30
「Justin TV」 http://www.justin.tv/ を使用します。
アップされる場所は
C&M Tokyoは、http://www.justin.tv/cnm_tokyo
C&M Tel-Avivは、http://www.justin.tv/cnm_tel_aviv
たぶん、どなたでも、ご覧になれると思います。ふたつのブラウザを並べて見ればいいのかな。もちろん、会場においでいただくともっと、面白いと思います。参加もできるかもしれません。
サウンドと言っても、日本側の場合、いわゆる音楽をやっている者はおりませんので、美術系のりの、会話としてのサウンドパフォーマンスになると思います。声、鈴、雑音、あるいは、ラジカセの音声といったところでしょうか。テルアビブ側には、元ロックンローラーのおじさんアーティストもいるようなので、音楽ぽいかもしれません。
今のところ、話しあっているのは、「無音」の時間をどう作り出すか? ということ。それを、音楽的に作るか、人間関係的に作るか、暴力的につくるか ......... 美術的に作るとしたら?この提案に対して、テルアビブの担当者プレムは、「戦時でも、ビジネス社会でも、立ち止まることはなかなか許されない。これは、意味深い!」と大賛成でした。ノイズを大砲、ハーモニーを美神と喩えて、次のアクションが、何で始まるのかも、興味深いところです。
とにかく、はじめてのことなので、どうなるか。ショーとして成り立つかどうか、わからないのですが、メンバーによると、見せる為に何か特別な準備するのは、何かが違う、気がするそうです。なるほど。
学生さんたちがC&M Tokyoのwebsite つくってくれました。まだ、ささやかですが、手作りの味がイケてます。
公式のwebsite(グローバルネットワークバージョン)は、
http://cannonsandmuses.org/indexhibit/
インターネットを使ったリアルタイムパフォーマンスは、昨年、わたしが、谷中で行おうとしましたが、オーガナイザーに「技術的に無理」と言われ、あきらめていただけに、今回、可能になってうれしいです。技術的には、30年近く前から可能だったし、テレビ局や大企業とともに仕事のできる人にたちにとっては、古いネタとも言えます。
今、である意味があるとしたら、なんらコストなしで、ごく普通のパソコンとビデオカメラと電話の回線で可能になったこと。去年より、安定もしていると思います。すでに、世界中でたくさんの人が行っている方法だと思います。なので、テクノロジーとしてもおもしろがっている場合ではありません。大事なのは、こういう方法で、発信できることは何か、というあたり。学生さんの柔らかい頭なら、どんどん、思いつくことでしょう。
わたしが、コーディネートしている理由は、これまで、わたしがアーティスト活動をして来た中、力を貸してくれた方々や、応援してくれた方々に対して、国内で、応えて行く方法のひとつです。............. 本当は、もっと作品で応えたいんですけどね。
28.10.09
C&M T ホームページのことなど
23.10.09
良い人すぎる人たち
21.10.09
富とか
19.10.09
これから絵
18.10.09
あしたは自分のことを
最初は、ナカムラトシマルさんというノイズサウンドのミュージシャン。ミキサーを動かすのに、やってはいけませんということになっていることをすることによって、ノイズを出しているそうだ。態度としてラディカル。方法としてハック。面白かった。なんか、それでも、結構、正統な現代音楽のような気がした。今回は、ソロだったけど、即興なので、セッションで行うのが、楽しいと行っておられました。身体に不愉快な音が鳴り続けるということであったが、不愉快ではなかった。たぶん、現代生活で、デジタル音は、相当聴いているので、ならされているのではないかと思う。終わってから、片付けながら、お話を聞くと、主な活動は海外だそうだ。「東京には、いいアーティストがたくさんいるんですけどね」と。わたしもそう思う。わたしのブログを見ている人の中には、知り合いも多いかも。わたしが、無知なだけ。ネットで見たら、わたしの古い友達、アキヤマテツジくんとよくやっている人らしい。即興アーティストって、ほんと、多いね。
それから、次は、アーティストではなくて、メディアデザインの研究者(慶応大学の稲見先生、わりとお若い)のお話、やたら、堅苦しく始まったので、困ったなと思ったら、内容はちゃめちゃ面白かった。医療器具などに、使われている、あるいは、使うことになるだろう、装置を考えている。五感の能力を、拡張するための、様々な実験や、わたしたちが、気がついていない、様々な日常の感覚について、デジタルを使って明らかにし、それを拡張するものを開発している。
ラストは、トランぺッター、コンドウトシノリ氏。ついCDを買ってしまったけど、メディアアートとは、わたしは呼ばないな〜、デジタルを使ったサウンドだからって。で、メディアアートということと関係なく、彼のこの18年くらいの活動の様子の話を聞いて面白かった。演奏はなんだか、たいへんな「感動系」。トランペットの音にエコーをかけて、増幅されるのって、インパクトはあるし、神経的にはむりやり感動されられるけど、心は別に感動していないので、ちょっと、微妙な気持ちになる。おつきのカメラマンがやってきて、あちこちから、パチパチ写真をとっているのも、パフォーマンスのうち。だって、セットアップの時、写真家のためにライトを増やしたりしたんだから。少々、まばゆかろうが、前からライトをあてた。でも、いやな気はしなくて、親しみさえ感じた。ナルシスじいさん還暦。理想とか、アイデアをこんこんと語るところは、職人というより、アーティストだなと思う。セカイは人間中心すぎるとと言うのは、同じ意見。鳥や木に向かってトランペットを吹いてもいいではないか、と言う。
だけどさ。帰り道、「あまり前向きなのは、つかれる」という言葉が、口からでた。これは自分へのリアクション。ちょっと、このところ、人に会い過ぎ。ついに疲れた。
あしたは、自分のことを考えたい。
17.10.09
父帰る
あしたも、イベントに出かけて行きます。人様の作品を拝見するのは、楽しいです。知らない人より知っている人の作品を見るっていい感じ。あしたは、知らない人。それも良い。人を観察すること。自分の作品をする時と同じように、命がけで鑑賞するというのは、どうでしょう?
来月、台湾行きます。12日から19日まで。
こちらでは、自分で表現します。ドゥレーションパフォーマンスを2つと、ショーケースパフォーマンスをひとつです。
国内では、今のところないです。どこで、どんな形で、とんな関係性の中で、と思っています。
15.10.09
分業可能か?
土曜に父がついに病院から帰ってきます。介護認定4です。
3種類の介護施設とのつきあい、ケアマネージャーはまた別の事業所、さらに医者、へたすると2つの病院に関わることになります。相手は6人ということになります。役所はまた別です。
週に4〜5日は、誰かが彼を送りだし、迎えるために、家にいなければなりません。
母がいます。
しかし、名前だけでも、リハケア、ケアマネ、デイケア、デイサービス、ケアハイツ、訪問リハ、訪問看護、など、老人には、負担でありすぎます。仕組みも同じく。だから、わたしが把握しなくてはなりません。
当事者性なんてこと言ったって、無理だよな〜、と思う。
収入がなくなりかけているのにどうしてくれる。
きのうの夕方会った友達が、ベーシックインカムの本を見せてくれました。うん、だけど、今はわたしはそれどこではない。どうでしょう、ひとりであらゆる重要なことに手をつけていることはできないのだから、世の中は、分業ということでどうでしょう?それに関しては、今は、関われない、だけど、関わりたい、関わっている方々から、時々、お話をしてくださいってのは?
数日前に書いた「自分の興味のあること」にしても、それを全部やることはむずかしいのです。信頼できる人たちと「分業」したい。むりかな。やはり、自分の中で、やりとげるべきか。
それどこではないのに、ライブは聴きに行きます。暇だからではありません。
昨日の夜は、ピアニストのカワイタクジさんが、作曲家のタカハシユウジさんの曲を弾くのを聴きました。前に、即興ライブで聴いたワイルドなカワイさんとは、別人のようでした。「ひらがな」を演奏している、と言う感じ。わたしは、タカハシさんとミヤケハルナさんの作品集のCDを1枚だけ持っています。ずっと前に何回も聴きました。本を一冊。スイスのバックパッカー向け宿に、置いてあったのを、もらってきました。クセナキスについての本なので、むづかしすぎで、かざってあります。それから、水牛楽団もちょっと興味があった。タカハシさんの弾くピアノも何かで聴いたことある。姿も何回も見たことがある。で、いつの間にか、テーストは知っていたみたいです。たいして知らないけれど。
ライブで配布された紙によると、ピアニストへのインストラクションがいろいろあって、言葉を発したり、即興で行う部分があったりします。「風の中の蠟燭の炎のように不安定に演奏する」というのがあって、たしかに、カワイさんは、そうしていました。不思議。「自分の間違いを尊重することで書いてある音を改変する」というのは、どうだったのか、わたしにはわかりません。インストラクションを聴衆は知っておくべきなのか、知らなくてもいいのか、などと考えたりしました。知っている方が面白くはある。
ピアノのコンサートを聴いたという印象でなくて、とても、不思議でありました。もっと聴きたいな。カワイさんの、指を鍵盤から離すとき、手がくるっと裏返って、手のひらが天井を向くのは、いつもなのかしら。カワイさんありがとうございました。
聴きながら、わたしのワイングラスを割っていくパフォーマンスのことを、思い出していました。
それから、「無音」をどう作り出し、どう次をはじめるか、をテーマにした多摩美の学生さんたちとのサウンドミーティングのことも考えておりました。「どう」というところに、皆の思想が宿るのだと思うのです。思想はどこからか、引用するのではなくて、わたしたちが考える。しかも、複数の頭で。エキサイティングでありますが、これまでのわたしの経験で、それがどれほど、壁を持っていることか、も承知。さて、どう挑むか。
13.10.09
2日間
11.10.09
情報学環 福武ホールへ行った
9.10.09
肝に入れる
以下のようなことを書き加えたりして。
8.10.09
悪のりトリオ
トップページには、前回のパフォの写真を載せています。トップページ
使っているソフトは、前世紀末ごろのホームページ制作ソフトであるPageMillであります。いろいろ限界がありますが、今ではこういうソフトはないみたいです。HTMLの入力ではないが、自分でデザインできるというもの。前世紀のソフトなので、パソコンも前世紀のものを使っています。前世紀のパソコンは、プリンターやスキャナーともつながっています。メインに使っているうちのApple君は、一応今世紀のもの。OS10.4なので、最新式ではありませんが。
Goliveで行おうとしたら、海賊版のGoliveだったので、動きません。
iWebは使ってなかったせいか、動きません。ついiLife09を購入してしまいかしたが、OS10.5でなければ、だめなんでした。てな具合にバタバタしましたが、なんとかなった。
だが、やはり、HTMLでやんなきゃな〜と思っている。
あしたは、東京大学でメディアアートのシンポジウムだ。能力が追いついていないけど、行くのだ。(もちろん、マンガ、アニメのメディアートではありません)
ところで..........悪のりトリオという戯れ絵のシリーズを描いています。そのおかげで、今は、大変楽しいです。
6.10.09
リラックス
気分のせいか、最近、本屋に行っても、あまりこれというイラストレーションが、見られない。斜陽産業かな。いいブックデザインのものは、奥の方にあるのかな。
気持ちを入れ替えて、絵というものを、描き直そうと思い、数ヶ月前に描いていた下絵を、きのうひとつ仕上げた。下の黄色い方は、10年前のもの。印象として、うすめ、の絵なんだけど、こういうのも、悪くないんではない? クドい系のパフォーマンスをしているのに、変かな。
私としては、矛盾していないつもり。
もともと芸術は民主主義、自由、平等、とは、とんと縁のないものだと思うのだ。アルティザン階級を目指すものとして、「社会のコードをずらす体験」の場所としての、アートの方向があると、思っている。それが、ずっとできればいいなあと思っている。
いいもの作っている人がたくさん、いる中、わたしが生き残れるか? まめにいろんな人の作品を見て歩きたいと思っている。よい刺激を受けるために。
4.10.09
パウリノとマルー
1日いっしょにいて、大人の、ゲスト、ホストのセンスを、学ばさせてもらった。
一昨年、タイであったアジアトピアで知り合った人たち。夫のパウリノは、40年ディズニーのアニメーションの制作に関わり、今は、悠々自適なリタイア生活。アメリカのパスポートも持つ。妻のマルーは、わたしはアーティストとして知り合ったが、きのう話をよく聞いたら、長いこと、社会教育の仕事にかかわって、アートはこの4〜5年のことらしい。バルセロナでずっと暮らしていて、5年前くらいにパウリノと知り合って、結婚することにしたんだって。熟年結婚ですね。
いろいろな人生があるものだ。
会ったアーティストには誰にでも言っているのかもしれないが、彼らの住むタイの山の中の家の2階は「サキコの別荘だ」と言ってくれている。いつでも来てよいと、年に何回か、メールをもらっていた。まだ、それほど、親しくないのだけど。
あまりに夕日がきれいな場所なので、2人で見るのは、とてももったいないからだそうです。
彼が用事があったので、はじめて、「HSBCプレミアムセンター銀座支店」というところに行った。金持ち専門の銀行です。ふかふかのソファで待っていると、オレンジジュースを出してくれた。行員は、わたしに対しても、丁寧に、英語で挨拶してくれました(笑)。銀行マニアとしては、楽しい経験であった。
銀座の画廊で作品を発表していた友達は、絵画を壁だけでなく、床に置く展示をはじめて、2回目。音(色)が、場所の中で、反射しているように感じた。無音の場所もあちこちあって、その配置の仕方が、わたしの感覚と大分違うので、それを楽しんだ。どんどん、やって欲しいと思った。
3.10.09
ダフナさんのアートブック展
午後は、家に戻り、壊れたホームページのインデックスページの修復をはかるが、だめ。10年前の恐竜ソフトはもうだめみたいだ。ソフトがだめというより、ホームページ作成用に使っているマックOS9が、うちのおとうさん状態になっている。こちらは病院送りにはしない。別のおとうさんに切り替えなくては。
夕方から、東長崎の某ギャラリーに行く。知り合いの知り合いの個展が開かれている。ギャラリーのオーナーはまだ20代。どこかの百戦錬磨の画廊主たちみたいに、客を値踏みすることもせず、フレンドリーに立ち話をした。
その後、成増。イスラエル料理のワークショップをしてくれたダフナさんのアートブック展。ものすごく、すばらしかった。色彩のセンス、ユーモアのセンス、素材感のセンス、そして、丁寧なてづくり作業。生活が楽しいだろうなと思う。彼女のハーブの庭を思い出した。あさってまで。成増北口すぎの成増アートギャラリー。日曜までなので、興味のある人は是非。9:00〜16:00。展覧会の名前は「コドモ☆サーカス」というグループ展だけど、大人も充分楽しい。子供にはむずかしいのもある。
そこにいっしょにいったWさんとファミレスで一杯のワインで、医療と老人の問題を話す。彼女は、わたしより一回りも若いけど、すでにおとうさんが特養に入っていて、リアルに感じている。これからのわたしたちのこと。皺がどうとか、白髪がどうとか、動きがどうとか、そんなレベルではない。どう最後の日を過ごすか、なのだ。
今日は、タイに住むスペイン人カップルとともに、一日過ごす予定。忙しい。
1.10.09
「丘を越えて行こうよ」+「空からの風」
今度は、20人以上の参加を目標にしています。
場所は、渋谷警察署前から、歩道橋、ガード下、バスターミナル、ハチ公前交差点から、丘を登ります。
最終地点は、まだ決めてないですが、前回の場所のような、文化的、経済的な記号ではなくて、何か、祠ととか、神社とか、そういうところにしようかと考えています。
是非是非、参加してください。
楽しいよ。
それから、9月に銀座でやったソロパフォーマンス「空からの風」を、できる場所を探しています。
条件1. 室内
条件2. 床が固い。傷がつかない。汚れは拭けばとれる。
条件3. 観客との距離をとれる。空間を共有できる。
条件4. 空間の管理人が、あのパフォーマンスを許してくれる。
今、どちらも前回のビデオ編集中。
29.9.09
暴力性について
覚えてない。
でも、ガラスの割れる音は、美しい。
破壊されるものへのフェティシュ。リンゴを何度も落とすと、落すたびに、音が鈍くなって、最後には、ぐちぇ、となる。ジューースになる。うひうひ。
暴力性とも関わると思う。
暴力の連鎖ということを思う。わたしは、かなり、叩かれた。何かというと叩かれた。頬を。鼻血を出しても、許してくれなくて、外を走り回ったことがある。ブラウスが、血まみれで、泣きながら、町を走った。姉が縁側にいて、こっそり家に入れてくれた。
消したばかりのマッチを頬にあてられて、火傷したこともある。まだ、幼稚園にも行ってなかった。
誰かに、力で脅された人は、力を使うだろう。排除されたことのある人は、また誰かを排除するだろう。これでは、エンドレスなのだ。強者が上だという考え方が、どちらにもあるのがいけない。誰かが、踏みとどまってその力を、別の形で、転化する、化学反応で別のもに変える、空に送る、自然に帰す、ということに努力すれば、連鎖は止まるだろう。その気になれば、できることだ。 War is over, if you want。
歴史学者などが聞き取り調査をするとき、明らかに、歴史上ありえないだろうということを地元の人が言う時、どうするか。
1.非現実的と否定する。
2.神話とする。
どちらも、結局、関係のヒエラルキーは同じである。
3.深いところでは共感できないが、あなたの真摯な経験だとはわかります。だから、あなたの経験と私の歴史理解のあいだの接続可能性や共奏可能性について、一緒に考えましょう。
こうやって、他者との闘いの連鎖を、止めるのはどうだろう。
これは、先日紹介した本「ラディカルオーラルヒストリー」に書いてあったこと。
闘いは、あってよい、しかし、連鎖は止めなくてはならない。
私に限らず、人は身体に、様々な暴力性を持っている。
誰かが言うように、芸術とは、ある種の「事故」の体験である。「事故」のまわりにまとわりつく、何か、行き場のない感情は、事故として、どこか外に、力が吸収されれば、と思う。人間以外の方向に。
28.9.09
名前を知らない植物たち
へらが棒立ちしている、みたいなのは、今年の3月に、板橋のFGカフェが引っ越しをした際、いらないからとくれたサボテン。
ずっと室内にあったので、インゲンマメみたいにひょろひょろで、しかも、垂れていたのだが、今年、うちのベランダで暮らしたら、まるで違う種類かのようになった。ずっと、光りなし、水なしの拷問にあっていたのだと思う。
花がさいているのは、ずっと前からうちにある。花が咲くとは最近まで、知らなかった。つまり、私は去年までは、ベランダに関心がなかった。子供が描くへたなお絵描きの花みたい。クリックしてアップにしてみていただくとその不思議な原始的(?)な花を楽しめます。
27.9.09
フレディ
25.9.09
行いのせいではない
大事なことは、マグマにやられないことだと、思っている。
努力したことが、すべて結果になるのだという、「自由主義経済」みたいなものは、すっかり、肩から落ちた感じ。
それより、「ちゃんとやる」というのは、「成果」のためではなくて、「事物と時の充実」の手触りを楽しむためである。
と感じている。なので、それができる人を尊敬するし、友達にもしたい。自分もすすんで行いたい。
苦手なことからは、撤退する勇気もできた。ディスカッションピクニック以降にも、いくつか何かを、楽にした。
なのにも関わらず、ちょっと前より、好奇心がぶんぶん湧いていて、楽しい。たぶん、以前は、脇目も振らずに打ち込まなくてはいけない、と思っていたのだと思う。
今日は久々にほとんどでかけず、家にいたので、身体を休めることができた。
では、またあした。良い日でありますように。
写真は、「風の宮」の、休んでいる方の土地。小さなお社がある。
最後のミニバラ
24.9.09
今日の考察
理由:本来、ディスカッションは、民主主義のツールである。民主主義では、言論の論理性の強さ、あるいは、印象の強さ、あるいは、コントロール力などのパワーゲームが行われる。
もちろん、ディスカッションには、もうひとつあって、個人的な立場は横において、テーマの様々な方向から検証する、という研究のためのものもある。
それにしても、日本人には、後者のディスカッションは、「絶対に」できないようだ。これまで、何度も感じたけど、やはりかと思うし、何と言っても、アーティストには向かない。仲間作りだと思っている人もいるかもしれない。テーマを話し合いたいのに、勝ち負けの感覚が抜けない。そういうことに興味がないと、遠巻きになってしまう。
何しろ、アーティストは、「多くの人の声」を代表したりしない。
ポップシンガーはそういう言われることもあるけれど、そこには、陶酔などが入っていて、政治に近いことが始まっているかもしれない。「歌詞」のないミュージシャンには、それはない。
仮説2:民主主義が、芸術家の地位を低くし、誇り高い芸術家は、政治志向になって行く。
提案:あえて、アルティザンを目指す。抵抗である。この位置を守り通すことが、この危機の時代の多くの、個人の、心のために、確実な何かを、少なくとも壊れないですむ何かを、届けられる。危機の時代に絶望し、それを感染させようとする輩の、毒を、遠ざけるため。マグマのように何かの情念が流れているような社会で、木々を眺めたり、鳥の声をまねしたり、湖の水面の模様を楽しむための、涼しくて、かつ熱い別の場所と時間を確保する.............。
これは、あくまでわたしの考え。
なんてことを考えた。今日、思いついたので、夕方会った、ミャンマーのアーティスト、モサに「わたしはアルティザンになりたい」と、言ってみた。彼はぽかーんとしていたけれど、彼のガールフレンドがわたしに賛同した。たぶん、この台詞は、生まれてはじめて言ったかもしれない。
ま、そんなこと言っている暇があれば、スケッチのひとつでも、動きの一つでも。家の門の前で、手をもやもや動かしていたら、前方から歩いてきた人が、遠巻きになった。電車の中でも少し。
--------------------
そういえば、宮本常一の「忘れられた日本人」にあった、村の寄り合いは、何日もかけていて、寝ている人もいるし、お弁当を食べている人もいる、何を話しているのかよくわからないが、ある結論は出る。たぶん、それは、ちょっとしたパワーゲームだったのかもしれないと、思っている。誰の意見なら、なんとなく丸く収まる、というやつを、さぐっていたのだ。村の長たちは、マグマを扱っている。
伊勢、志摩行き
20歳の姪を連れて行ったので、伊勢の伊勢神宮の内宮・外宮の見学、鳥羽の島巡りも一応いたしました。お天気に恵まれ、ありがたい。
印象に残ったのは、外宮の夕暮れ。内宮は観光客のラッシュでしたが、外宮はあまり来ないらしい。しかも夕方5時。日が暮れかかっているし、木々が高いので、影が多い。まばらな来観者の気配を影のように感じる。神社に相応しい感覚。真っ赤な勾玉橋のある池が、美しかった。しばらく座って眺めていました。薄暗い風景は、わたしのカメラにはよく写せない。
もうひとつ印象に残ったのは、おとずれたイルカ島(本当は別の名前でしょう。観光用に源氏名をつけられたみたい)の裏側の砂浜。寄せては返す波、風。遠景に島、後ろは山。
記録不可能な感覚ばかり。冥土に持って行くしかありません。
若い姪は、「また来たい!」と行っていましたが、たぶん、わたしはもう来られない。
今回のメインのお仕事は、ご先祖のお墓のある寺をおとずれ、祖父母の骨を預かること。父の出身校である廃校になった鳥羽小学校を訪れ、目に焼き付けること。
友達が「お彼岸だものね」とメールをくれて、「あ。お彼岸だったんだ」と知る。
写真は、鳥羽市内のかなり見事な「原爆スタイル」。その下が、鳥羽小学校。1930年頃に作ったそうで、保存予定だそうだ。コンクリートが痛んでいて、保存には、大きなお金が必要かもしれない。
21.9.09
ディスカッションピクニック2
もちろん、当事者にしか、わからないことがある、というのは、その通りで、その場合は、たぶん、ドキュメンタリーとして受け止めるのが、良いのではないだろうか。
それから、個人という場所の自由は、確保するのも、わたしには、大事。それぞ、危機の時代におけるアートの役割。
集団的発想には、なるまいと思う。
なので、C&Mの学生たちは、いつも自由だ。自分の好きなものを作ればいい。わたしもそうする。
ディスカッションピクニック
「大砲と美神 危機の時代のアートの役割」
とは、大変なテーマを扱うことになったものだ、ということを、この夜中2時24分に思う。
石川雷太さんと白川昌生さんというゲストの選び方の絶妙さに、自分で感心しながら、問題の大きさは、背負いきれない。
わたしにとって、アート作品は、解釈自由、表現自由が、砦のようなものであった。
だが、「経験者」と「非経験者」の間には、「解釈できないこと」「想像できない壁」というのが、ある。その「経験者」側による「経験についての」アート作品に対しては、わたしのその「砦」は、KYになってしまう。でも、それは人間関係を思い出せば、当然かもしれない。他人の生き方は、解釈するものではない、というのと同じ話。
そこで.........テルアビブ発信のこのテーマは、いったい、東京の人間に、関われるのか? という根本的な問もやはり起こってくる。
一方、私は、1回目のワークショップで、話題になった、イスラエル人がイスラエル人に「原爆をどう思うか」と聞いて歩くドキュメンタリー作品が挑んだことを思い出している。
石川さんが話した「ディスコミュニケーション」性というものを、前向きに受け入れていく方向はあるのだろうか?
私は、あると思っているのだけど。
イベント後の立ち話では、2つの輪ができていた(笑)。
19.9.09
美術展行きました
この展覧会の大事なことは「作家主導で」ということらしいです。80年代〜90年代前半に活躍した彫刻家、インスタレーションの作家、画家が中心的なメンバーという感じ。商品化、コマーシャル化に対する反発から、企画したものと思われます。テーマは設けない、作品の形式、形体、思想は限定しない。だそうです。
場所は、天井が相当高い、西武線の車両工場で、迫力満点。こういう場所で、展覧会をしたい!と思う人たちの気持ちはよくわかります。
20年くらい前によく拝見していたアーティストの作品に久しぶりに会えて楽しかった!
ところで.......多くの作品は、ホワイトキューブで見たら、もっとよく見えるだろうな、と私は、思いました。美術館や、設備のいい画廊で見たいような作品です。場所自体が、迫力ありすぎるので.......。
本心は、彼らは、美術館で展示したいんではないかな〜、と思ってしまいかしたが、どうでしょうか。
外に飛び出したなら、そういう視点の作品、戦う作品であって欲しいな........。
このような場所では、思想的かビジュアル的にサイトスペシフィックなものが見たいと思います。
因みに、知り合いのマスヤマシロウさんは、年代が若いせいか(スペースに幻想がない?)、すんなり、サイトスペシフィックになっていました。労働の場に、労働をテーマにしたのは、正解でしょう。見た目より、アイデアを優先しています。
彼は、アウトサイダーだという意識が強いみたいです。社会のアウトサイダー、アートからもアウトサイダー。でも、「そういう意味」で、メジャーでいたい。がんばれ。
作家主導であるべきと言う気持ちはよくわかるし、世の流行にふりまわされるのはまっぴらというのもよくわかる。何十年作品を作っていて、方向性がまったく変わらないのは、りっぱなことなのかもしれません。キュレーターやライターは、どんどん、別のアーティストへ興味を移すことができるけど、アーティストはそうはいかない。わたしは、そんなに長くやってないのでわかりませんが。
とにかく、プロのコーディネーターやキュレーターが関わってないことで、自由にできて、良かったのなら、それは、何と言っても良いことだと思います。産地直送野菜みたいなのりで、お客さんに届けられれば、その方が、鮮度はいいはずだ。
今、ということをいろいろ考えさせてもらえて良かったと思います。
16.9.09
本読みねえ本読みねえ
でも連日、遅く家に帰って、遅い夕食をしているので、胃は重い。なので、今日は都心で夕食を取ってきた。ひとりでさっさと食事が出来る場所がたくさんある都心は便利。だいたい、どの駅前も同じ種類の店があるわけなんだけど。あんなに安いってことは従業員の給料が安いってことだろうなあ、とすこし、暗くなる。でも、安いところを選んでしまう、わたし。
2名の友達が「これ読みねえ」と勧めてくれて、貸してくれた本2冊。
『りんごが教えてくれたこと』木村秋則著
まだ半分くらいしか読んでないけど、もし、自分の生き方がこれでいいのか、迷っている人があれば、おすすめしたい。以前、NHKの「プロフェッショナルの流儀」で紹介されていた、自然農法を確立した人。テレビで見た時も、いいなあ〜と思ったが、本で読むと、本当に驚く。「ほんとかな」と思うようなこともないわけではないけれど(笑)、物事の発見の仕方が、興味深い。また、彼が失敗を繰り返している時の、世間の冷たさには、ぎくりとする。信念を通した人ではあるが、その途上は、本当に苦しんでいたのがよくわかる。
11年、実らぬリンゴ園を続けていたのだ。
でも、最近、彼の本は流行っているみたいだ。ちょっとあやしい方向に行きかけている感じもある。『すべては宇宙の采配』というタイトルには、不安を抱く........。
『ラディカルオーラルヒストリー』保苅 実著
1971年生まれの保苅氏は、残念ながらもう亡くなった民族学者であります。まだ、読んでいないけど。友達は「山岡はこれを読むべし、これは山岡のセカイに違いない」と言って、貸してくれた。簡単に言えば「ポスト植民地主義」の書き方なんだと思われるが、その方法は、もはや「はやりの」社会学ではなくて、定着していると思う。
「りんご」の次に読みます。
その前に読んでいてまた途中なのが、『当事者主権』中西正司+上野千鶴子著 でありまして、通じる所あり。
障害者の立場が、この20年くらいでどのように改善されてきたか、なんて、これまで考えてきたことがなかった(恥ずかし)ので、勉強になる。それは、老人問題にもそのまま当てはまる。ポスカルの成果は、日常の上に、生きているのだ。と思いたいけど、現場はそうでもない。
読みかけ本まだまだ、あるのだ。『外国人』クリステヴァ、『21世紀の歴史』アタリ、『健康の日本史』北澤一利、などなど。
ああ、忙し。
いろいろな人とemotionについて話す
パフォーマンス作品の中で、emotionがどう配置されたかは、わからなくても、その効果によって、「怖かったり」「美しく見えたり」「物たちが拷問されているみたいだ」と、それぞれが想像を働かせてくださってれば充分で、その私の中で、用意した意識は、見えなくてよいと思う。
感情の流れや質を、時間、空間にデザインする、みたいな感じ。床にチョークで描いた、碁盤の目は、それが今、どの辺で、発信されているの、指標としてみた。今は、テーブルのはじっこのあたりだとか、下に落ちたとか、天井に上りかけているとか、私の中では、そうやっていた。観客Aさんの手のひらに落ちた、とか。
壊滅的になった後、町が再生される。生き残った物たちで、無事を祝う。
emotionの配置、とは、まあ、フィクションのようなものかもしれない。
以下の写真も面白かったので、アップ。どろどろ色になったテーブルクロスに、グラスが何個か、まきこまれている。許してくれと、わたしに哀願している。
14.9.09
ものたちのemotion
良いお客様にめぐまれました。コアなお客さんを大事にしていれば、大丈夫といった安心感をつかむことができました。
今まで、何を恐れていたのだろう?
これからの作業に、ビデオ、写真などの整理がありますが、シバタアヤノさんに送っていただいた写真からぱっと目についたものをとりあえず、ここに添付。ビデオは、ゴトウテンくんが撮ってくれました。いずれ、アップしたいです。
今回は、自分がアニミストなのが、心底わかりました。
Emotionをどう、「再配置」するか、ということが、今回の、チャレンジだったのですが、どうも「わたしの」Emotionではなくて、いつのまにか、「ものたち」のEmotionになっていました。こういうことになろうとは、思ってなかった。ふしぎだなあ。
会場が、日曜なせいか、外からの雑音が少なかった。なので、ささいな音も、皆で共有できたと思います。
12.9.09
で、あした
久々の「普通の」パフォーマンス。
「普通」でありながら、この20年で最大のチャレンジ。
今日。画廊に行って、おおよそ、セットアップしてきました。あした、果物やら、追加のものを用意して行きます。
フライやーも作らなかったし、メールとブログ以外で宣伝していないので、たぶん、5人くらいしか来ないだろうな。
でも、関係ない。
「人がたくさん集まって、それなりの人が見てくれる」とか、言ったことに関心が薄くなった。
少数でも、いつも応援してくれる人たちに、しっかり見てもらい、それを続ける、ことが大事。
妙に、新しい観客を見つけようとすると、妙な人まで呼び寄せてしまうし。
では、よく寝て。、身体をベストの状態に持ってゆきます。
おやすみ。
11.9.09
C&M ディスカッションピクニック
『大砲と美神 Cannon and Muses Tokyo, Role of art in Real-time Crisis』
山岡はコーディネーターをしています。
ワークショップ第2回です。現在多摩美と早稲田の学生さんがメンバーになっています。
学生さんたちはディスカッションの経験は少ないし、考えを言語化するのはまだまだ苦手と思われます。しかし、これからの国際的なコミュニケーションには、言語化は是非必要です。
社会人の皆様、また他校の学生さん、ディスカッションに刺激を与えるべく、ご参加くださると、うれしいです。様々な立場の方が、来てくださるとありがたいです。
雨天の場合や、日比谷公園のどこなのか、などまだ決まっていないこともありますので、追って連絡いたします。
御興味のある方は、メールをください。
ccj59900@nyc.odn.ne.jp (山岡)
以下は、早稲田の新井君の書いた、お知らせ文です。
よろしくお願いします。
山岡
------------------
ディスカッション・ピクニックのお誘い
9月に入り少し涼しくなって、過ごしやすい日が続いています。
いかがお過ごしでしょうか?
そんな中、政権交代、新型インフルエンザの流行など身近なところでも大きな変化が起きようとしています。
またあいも変わらず、貧困や紛争、核の問題から温室効果ガス、公害、異常気象や環境破壊などの諸問題は、根本的な解決の糸口を見つけられずにいます。
科学者、政治家、また企業を含めそれぞれがどのような形であれ、それぞれ活動しています。では、わたしたちアーティストにはどのような役割があるのでしょうか?
そういった問いかけを考えるため、また実践の場として、この「ディスカッション・ピックニック」を企図しました
ぜひふらっといらしてください
日時:9月20日 13:00〜
場所:日比谷公園
食べ物/飲み物:各自持ちより
目的:自らのコンセプトを言語化する
アーティストが社会の中で明確なスタンスを持つことの大切さを学ぶ
(ゲストアーティスト数人参加予定 交渉中)
テーマ:戦争とアート/格差問題/フリーター/大砲と女神/オルタナティヴについて/流行の服/お気に入りの場所について/DKNY/アクティヴスト/DEMO/イスラエル/シオニズム/ユリイカ/恋人について/ポッセについて/ポジショナリティ/グローバリズムと反グローバル/RATM/ホームレス/エンターティンメント/5月革命/大事にしたいこと/悩み・コンプレックス/マイノリティーについて/鬱について/政治と芸術/演劇について/プレカリ・アート/移民受け入れ/フランツ・ボアズ/学生運動について/コール&レスポンス/アクション/セルフ・ドキュメンタリー/DIY/日常の介入/レイヴの思い出/好きな音楽/不当逮捕について/選挙について/歴史認識/サブカルについて/NPO/発表の場について/お金について/パレスチナ/ダーウィンの悪夢/学校について/分析装置=媒介装置/ゲシュタルト崩壊/自殺/トウキョウ・オリピック招致について/ナショナリズム/マルチチュード/ストレート・エッジについて/チョムスキーおじさん/ピース/ついついしてしまう癖/オクトーバー/編集/メディアについて/芸術批評/アーティストがイマできること/
主催* テルアビブ〜東京交流 セルフエデュケーションプロジェクト
『大砲と美神 Cannon and Muses Tokyo, Role of art in Real-time Crises』
代表・後藤天(多摩美術大学 映像演劇学科2年)
ディスカッション企画担当・新井宏輔(早稲田大学理工学部)
コーディネーター*山岡佐紀子 (アーティスト)
Official we site( international) * http://cannonsandmuses.org/
mixiコミュ* http://mixi.jp/view_community.pl?id=4294443
10.9.09
C&M ディスカッション
午後1時、日比谷公園。
私は、多摩美と早稲田の学生たちが行っている自主エデュケーションプロジェクトのコーディネーターをしています。
タイトルは「東京〜テルアビブ交流企画 Cannons and Muses Role of art in the realtime crisis」。
(「戦時におけるアートの役割」という副タイトルでした。今は、「危機の時代におけるアート役割」に変更しています。テルアビブ側が少し落ち着いてきたからだと思います。)
以下は、1月にC&M Telaviv が行ったイベントの記録。5人の過去のアーティストが、戦時における自分自身のアートを語っている。
今、それを日本語に翻訳中。長いからいやになる。
Dead Artists Panel- characters discussing the role of art in times of war. from Cannons & Muses temp on Vimeo.