大手町駅から歩く。陽はとても強いけど、風がふくので、気持ちいい。しかも、広々とした場所が、大好きな私は気分がいい。大手町駅から案外遠い。集合場所の桔梗門のところに10分遅れで着く。
遅刻したので、係の人に、小走りでマンツーマンにガイドしてもらいながら、ツアーグループに追いついた。このマンツーマンガイドが割とうれしかった。
でも、見学はあっという間に終わってしまった。1時間くらい?意外な短さ。
その後、一人で、江戸城跡を歩いて、北の門に向かう。本丸は完全な更地だ。篤姫のことを考えてみた。炎天下なので、ほとんど人が歩いてない。ひとりっていいな。妄想するのには、ちょうどいい。
北の門を出るとすぐそこにある、国立近代美術館で、クレー展を見てきたお客さんを眺める。彼らの頭の中にはクレーの印象が残っているんだろうな。これから、見ようとしている人たちとの表情を比べてみる。わからないけど、クレー展から出て来た人たちは、クレーグッズに群がっている。女性がなんたって多い。背後の気配には、あまりに無防備だ。これが、文化か〜と、眺めてみた。欲望に燃えているときこそ、背後を思ってみようぜ。別に私はスリではないけれど。
そういう自分も、売店で少し本を買ってしまう。
毎日新聞社のビルでランチ。サンマルクカフェとスタバとマクドナルドが並んでいた。サンマルクカフェで、サンドイッチとカレーパンを食す。
それから、大手町の方へ歩き、銀行本社街のビルを楽しみながら、銀行絡みの新しいシリーズ作品を考える。ATMに寝るプロジェクトはもうフィニッシュなので、もう少し、陽気なアクションをしたい。
もう一度、桔梗門に戻る。それから、正門へ行く。観光客がたくさんだ。
「インスタント***サービス(Instant God Service)」という作品を考えている。条件とか、段取りとか、日程とか。8月末までにやる。
単なるお笑いにしたくない。
誰のことも侮辱したくない。
そして、「ビジュアルイメージ」そのものが、なんと言っても大事だ。
人々が、「してしまうこと」に関心がある。
なぜ、日本人は天皇を神格化するに至ったか。そして、どうしてたった一度のお正月の詔で、あっというまに、「彼」に「神様」やめられてしまったのか。
経緯については、いろいろと調べた。
皇居前の、広々とした場所は、エルサレムの「嘆きの壁」のある広場を連想する。このような「聖なる場所」こそが、軍隊や警察が儀式をする場所だ。
エルサレムで私は、天皇の「人間宣言」の話を、カトリックである親友のチェコ人のマルティン・ツェットに話した。彼はとってもびっくりしていた。そして、笑った。「日本人って変わり身が早いね。」と。そして、テルアビブでは、ユダヤ教徒のプレムシャイに話してみた。彼は、ちょっと軽蔑したように、眉をしかめ「いったい、誰が彼を神と決めたのですか?、なぜ、彼自身が神ではない、と自分で言うことができるんですか?」と言った。
一神教の人々にとって、日本の天皇のことは、たぶん「あきれる」ことなのだと思う。
もちろん、日本ではそれを、悪ふざけでやったわけではない。
調べたところ、神格化されるに至った過程は、複雑だった。明治政府で、どのようにそれを、「採用」したのか、そして昭和の戦時に、その意味がどれほど、拡大単純化したのか、その辺は難しい。
そして、あっけなく、それは本人によって、否定される「形式」を取らされた。
わかっているのは。。。。
世界の「大航海時代」の始まった16世紀頃にさかのぼる。
人々が移動する、欲望が移動する、支配欲、カトリックとともにやってきた商人、そして、占領、植民地化。近代ナショナリズムは、一神教とともにやってくる。
そして、「日本」というまとまり=アイデンティティが求められ始めた(日本という言葉はまだなかった)。「それ」が入り込む隙を与えないために。江戸時代の国学者たちは、キリスト教も研究していた。彼等にやられないためにはどうしたらいいのか。聖なる「まんなか」を作り出すために、頭をひねってひねって、ひねり出した。それでも江戸時代は、それは「学問」「哲学」でしかなかったと思う。そして、明治政府の誰が、政治として「西洋列強に肩を並べるためには、日本オリジナルの選民的一神教を持たなくては」と思い、動いたのだろうか?
カトリックは「世界宗教」を目指したが、ユダヤ教は「ユダヤ民族に限る」。日本人は、それを意識したのだろうか?
チェコのカレル・チャペックの書いた小説『山椒魚戦争』に出てくる「山椒魚」は日本人だという説がある。
私は、それを「批判」ではなくて、「それはなんなんだろうか」ということを、カトリックのシスターの立場に成り代わり、考えてみたいのだ。自分たちには、必要不可欠と思い詰めたことが、他人によって、笑われる。軽蔑される。そして、そこで、カトリックこそが「批判」されるべきなのだ。
スタイルは、ユダヤ教の路上で行っていた「奉仕」活動をまねてみる。