26.12.12

Script for the document 2 : Critical Essay「パロディとカタルシス」



前のページの続きです。

今年7月に行なった「疑問の状態」展のドキュメントを制作しています。
書いている文章は2つです。1つは「あとがき」で、このブログの前のページにアップしました。もうひとつは、以下にある「作品についての批評文」です。
(以下の文をドキュメントに載せることはやめにしました。)

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Script for the document 1 : Epilogue "Weという意識”


このごろは、今年7月に行なった「疑問の状態」展のドキュメントを制作しています。というか、それに寄せるための文章を書いているのですが、なかなか、終わらない。書き終わったと思ってしばらくして、読み返すと、直したくなる。別のアイデアも思いついて、書き加える。そんな状況です。なんでそんなに、終われないのか、全く謎なんですが.......。

書いている文章は2つです。1つは、作品についての批評文、もうひとつは、以下にある「あとがき」です。こちらの方は、要旨的にはだいたいまとまっています。永遠に直す訳にも行かないので、ここに、アップしてみて、パブリック化してみたいと思います。そうしたら、気が収まるかもしれないので。よければ、お目をお通しください。(批評の方もアップします。)

14.12.12

来年のためのノート Note for the next year of mine


美術館のトイレで朝の身支度をする。9月。

今年は、とても長かった。1年前のことは、ほとんど3年くらい前のように思う。ちょうど1年前の2011年12月は、正直、恐ろしく落ち込んでいた。これからのことを全く切り開くことができないと感じていた。なぜだか、マフィンをたくさんつくって、食べて、ぶくぶく太った。

18.11.12

ディスロケイト Dislocate12 「共通感覚?Commonsense?」 展覧会+ディスカッション


......このところ、連続してお知らせしていているイベント「ディスロケイト12」。
パブリックサービスセンターのその後もアップしそびれているうちに.......
私が1ヶ月半関わったそのプロジェクトもついに仕上げの時を迎えました。たった1日の展覧会ですが、私たち3人のアーティストの他、ボランティアチームとともに、いくつかの企画を行なってきた、その成果発表です。
映像作家の根来祐さんをお招きして、ディスカッションも行ないます。

6.11.12

パブリックサービスセンター始動 "Public Service Center" in Monday

パブリックサービスセンターを昨日開始しました。今日は、雨なので休みです。きのうの様子をご報告します。

杉並区今川と桃井の4カ所にパーキングしました。


2.11.12

パブリック?サービスセンター Public ? Service Center



コンビニとスーパーと駐車場をマーキング


私は「公共的なこと」にまだ、期待をかけているけれど、とっくに、興味がないという人は多い。それは、よくわかる。私も、ぎりぎりだ。

26.10.12

パブリックサービスセンターというプラン Plan for Public Service Center




現在参加しているプロジェクト「ディスロケイト12」。  杉並区の善福寺界隈がその活動領域です。

ここには、10年以上前から、トロールの森という自然系アートフェスティバルがあり、それと「ディスロケイト」はリンクしていますが(子供のワークショップ作品が展示されるらしいです。)、私の立場では、全く関係がありません。活動範囲には「遊工房」というレジデンスタイプのアートスペースもあり、ディスロイトのキュレーターである太田エマさんが働いているところですが、このプロジェクトとはやはり、あまり関係がありません。


さて、杉並と言う閑静な住宅街。どんな形の参加が良いか、模索しています。テーマは、パブリックスペースとコモンセンス。2ヶ月の滞在をしているインドのアーティストと、ラオスの映像作家とのコラボをすることになっています。



3つほどのプロジェクトを準備中、または、進行中です。
「パブリック・サービス・センター」はそのひとつ。
以下は、この企画についての説明と、私の考えです。

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 パブリック・サービス・センター


杉並の善福寺界隈で、モバイルに設置されるサービスセンター。
移動型のベンチとパラソルを使う。
サービス員は、私とプライアスさん。カームさんは、映像で様子を記録する。


私たちの企画している「パブリック・サービス・センター」は、基本的にアーティスト2人が、サービス員として常駐するが、アートのサービスは決してしない。しかも、私たちからアーティストというアイデンティを取り払うと、はっきり言って、どう見ても気のきいた人たちではない。
1.カレーを作れないインド人
2.ぱっとしない中年女性


サービスは2つの方法で用意される。
1.      ある程度は役に立ちそうなサービス
2.      まったくナンセンスで役に立たないサービス

設置場所 
1. 合法的に設置できる場所。
2. 基本的には違法な方法。
どちらにせよ、町にとって決して「必要なもの」ではないし、「邪魔」という可能性の方が強いので、注意されたら、すぐに移動する。




<以下は、この計画のためのメモとコンセプト>




最近は、アート周辺で「パブリック(公共)」という言葉が、頻繁に使われるようになった。それらはだいたい以下のように分類できる。
1. 地方公共団体やその外郭団体が企画したもの、あるいは、それを民間委託したもの。
2. それ以外………..

実際のところ、「パブリック」で「サービス」するとはどういうことだろう。アートを使ったサービスは、あまたある、かのように見えるが、実際のところは、ほんとうに、そういうことでいいのか?と疑問に思うものも、正直、多々ある…..
1.そのサービスは必要なのか、ということ。
2.それはアートにとって、発展的と言えるのか。

さらに「サービス・センター」という言葉はどこかまぬけな響きがある。ユニフォームと笑顔のイメージが妙にステレオタイプなのだ。説明できないが、どこか、本気さが足りない気がする。もちろん、その前に「テクニカル」がつけば、なかなか、説得力があるが、そこに「パブリック」がつけば、むしろ、無用な疑惑が極まる……..

ところが………それはとても必要なものかもしれないとも、私は考える。社会は個人を支えるという重要な仕事がある。しかし実際は、行政側の目的と都合で、サービスは行なわれ、受け取る方は、そのサービスに合わせて生活することを強いられる。だが、抜け落ちてしまうことがいろいろあるだろう。
どの町にも、何か困っていることがあっても、相談する人がいないために、抱え込んでいる、老若男女がいるはずだ。それほどでもなくても、ちょっと散歩ついでに、誰かと立ち話がしたい人はいるはずだが、それはなかなか難しい。井戸端も路地も縁側がなくなって久しい。病院にたむろっていた、老人たちも、ついに、追い出された。喫茶店に、テレビドラマに出て来るような聞き上手の名物マスターがいるところなんて、めったにない。スターバックスでは、話す相手はみつからない。友達のいない若者は家にひきこもり、孤独な母親は子供を傷つけてしまう。働き過ぎのお父さんはせっかくの休日にお買い物のおともなんてまっぴらと思っているし、ほとんどのご老人はテレビがお友達になる。その他、メンタルサービスなんて大げさな方法や、介護サービスの対象外の難儀なことが多々......。

杉並の住宅街は、私たちを必要とするだろうか。私の予想ではほぼいつでもどこでも、邪魔にされると思う。しかし、もしかしたら、ちょっとした出会いがあるかもしれない。

私たちは、実際には、上に書いたような問題には、対応できないかもしれない。しかし、私たちが、示すことができると考えているのは、いわゆる公からの公共サービスの対象にはならない、しかし、誰かが受け止めた方がきっと良いに違いない、今の所、宙ぶらりんな需要と、その供給の方法が確実にあり、それが、私たちの興味/可能性のである、ということである。

ところで、「パブリック・サービス・センター」とは、固有名詞ではなくてほぼ一般名詞であろうと思っていた。しかし、ネットで調べたところ、パブリック・サービス・センターは、ほとんど見つからなかった。英語で調べたところ、MITを含む複数のアメリカの大学のプログラムに、それがあることがわかった。うす〜いアメリカンコーヒーをポットに入れて用意しよう。

以下、3つのアメリカのパブリックサービスセンターのロゴ。
その下に、御存じ「アート引っ越しセンター」のホームページのヘッドを切り取ってみました。「アートだからできること」という表現が楽しい ♫
















テイストとスノッブ Taste and Snob



以下、facebookに書いた文の再録です。


10月23日(火)
アートではいろいろなことがトライできるが、「テイスト」のことをアートだと感じている人は、なんらかの「テイスト」のモデルの範疇でつくるだろう。たとえば、最近は「スタジオ」的な場所を作るのが、流行みたいだ。何気なく見せているけど、わざわざ、コンパネむき出しみたいなテーブルや仕切りをつくったり、PCを何気なく置いてみたり。自然に見せて、それもテイスト。パフォーマンスアートでも、わざわざ、黒いゴミ袋を使ったりする人があるのも、実のところは「テイスト」。普段着の演出。綿々と続くのは「私

のこと」というテーマだ。これは誰でも取りかかりやすいし、他人につっこみを入れられないですむし、共有もしやすい。誰も考えてないことをするには、誰にも「テイスト」を理解されないリスクもある。つまりのところなんでもいいし、流行のことをしたければする、みたいなこと。


似ていてちょっと違った価値観として「スノッブ」というのがある。私的にはこっちの方が面白いかもしれない。「テイスト」派の方は、けっこう、まじめだったりするが、「スノッブ」派は不真面目を恥じない。まあ、どちらも表面的な話。大事なのは、楽しみながら、サバイバルすることだ、誰にとっても。それが、結果的に「リアリティ」になると思う。





10月24日(水)

テイストとスノッブの話の続き。



公共という話になると、「役に立たない」「正しくない」ことというのは、肩身が狭くなると感じがちだ。しかし、人間は、役に立たないけど楽しいこと、というのを抜きに生きていくと、かならずや、抑圧的になると思う。だから、酒場のだじゃれやぐだぐだ話、どうでもいい朝のあいさつ、商店街のおばちゃんやおじさんのつまんない世間話が、自然に生まれて来る。公衆トイレの落書きや、2チャンネル的なものなども、それに含まれる。そのくだらなさを、ソフィストケートしたものが
、アートなんだと、私は思っている。あるいは、錬金術的に「くだらなくない何か」のように変身させる。

そして、アートの中の2つの方向。中産階級のいい大人は、テイストを好む。安心して鑑賞できるよく手をかけた感じで、技のある「くだらない」もの。ある程度は「正し」しそうに見せたりもするかもしれない。大人だもんね、当然だ。一方、スノッブは、若者と金持が好むものだ。「くだらなさ」を極める、ひねりのある、思いつかないような「くだらなさ」。偽悪的になったりもする。そして「おれたちにしかわからないかもね」なんてポーズもとる。金持も別の意味で、占有的。なぜって、それが楽しいから。
若者でも金持でもないスノッブは、どうするのか。
それが、私の問題。でも、仲間はいるって感じがする。





11.10.12

バクスイレン vol.2 アートの前に


不肖、山岡佐紀子がモデレーターとなり、ディスカッションを試みる、連続したイベントのお誘いです。


参加させていただいているイベントなどで、「ディスカション」ということを企画することが増えてきました。でも、なかなかうまく運びません。
うまく行っているように見えるディスカションは、実のところ、発言者たちが方向性をあらかじめシェアしてあるし、
その方法性が読める参加者が、うまく発言しているわけです。
ショーイベントとしては、そうした方が良いと思います。


もし、そうではなくて、本当に、考えをシェアしながら、未知のアイデアを求めるならば、違った方法が必要です。
それを磨く方法を考えた場合、方向性は2つあると思います。内容とプロセスです。ディレクションを決めてしまうのではなく、プロセスを意識したことをしたいと思います。それぞれは持ち帰るアイデアは違っていて良いともいます。

目的としては、相互セルフワークショップになると思います。
話すのに、とまどいがち、な方、歓迎です。
参加者はテーマに沿って考えや経験を話し、問題を討議します。
討論に勝つためではありません。考えをシェアし、集合的な未来の希望を考えるプロセスの研究です。
パブリックというより、少人数のあつまりに近いでしょう。




バクスイレン vol.2 アートの前に
1回目のトピック <この1年7ヶ月どうしてた?何を学んで、何が希望か?>
そういうことはもう話しあきている人もいるかもしれません。しかし、まだ、あまり意識して、他人に話してない人の方が多そうです。

2012年10月21日(日)17:00〜20:00
マルプギャラリー
http://malpu.com/gallery/
〒171-0014 東京都豊島区池袋3-18-5
参加費:200円 ベジタリアン料理つき  予約していただけると助かります。Facebookページもあります。
企画;山岡佐紀子、佐野佳子

https://www.facebook.com/events/287656241335195/


<2回目以降のトピック>
犯罪と迷惑、家族と家庭、美学の変化、など、考えています。



1.10.12

作品へのボランティア参加者募集 Call for ”Public Double”







太田エマさんキュレーターのディスロケイドが始まります。

以下はFacebookのページです。
https://www.facebook.com/dislocate12







テーマは、「コモンセンス?」。ここではコモンセンスは「共通感覚」と訳されています。以下が、私のプレゼンテーションの始まりです。







作品「パブリック・ダブル(分身)」の参加者募集
201210月〜11月の間、杉並区善光寺界隈で、パブリックアートのイベント「ディスロケイト12」が開かれます。3人のアーティストが参加しますが、そのうち、山岡佐紀子は、作品(活動)の参加者を募集します。
期間中の、参加できる日だけでかまいません。

<条件>
生物学上の男性、日本育ち(国籍不問)、およそ3035歳、英語が少しは話せる。
芸術の経験、知識は必要はない。採用人数/複数。


<参加内容>
海外からの2人のアーティストが、その世代の男性なので、彼等と考え方や興味をシェアする機会を持つ。山岡にはないアイデンティティを替わりにつとめてもらう。食事会、共同プロジェクトなどに参加する。写真、ビデオ、メモなどを、作品として残す。「分身」というのは、私の替わりに彼等とつきあってもらうので、そう呼ぶ。食事会は、アーティスト2人と参加者のスケジュールを調整して行なう。共同プロジェクトは、今のところ、10月29日、11月5〜9日、11月11日、11月23日が予定されている。内容については、お問合せを。参加できる日だけで良い。複数人募集。

30〜35歳の男性というのは、自分が社会で何ができるか、自分は何がしたいか、真剣に実践し始めている年齢だろうと推察します。二人の海外からのアーティストがちょうどその年代。私が一緒に、共同制作するのは、アーティストとしての共有部分は当然ありますが、その「社会的身体」なレベルでは、やはり、かなり、遠い。そこで、私の替わりにそのあたりを、共有してもらえる人を募集しているのです。


<参加方法>
まずは、メールか電話でお問い合わせください。
問い合わせ missinginicity@gmail.com  080-5447-9338 

29.9.12

Rosemarie Trockel ローズマリー・トロッケル ”Cosmos" in Madrid



私がマドリッドにたった一日だけ滞在した時、マドリッドの国立ソフィアアートセンターで、ドイツのアーティスト、ローズマリー・トロッケルの個展「Cosmos」が開催されていた。個展と言っても日本人がイメージする量ではなくて、かなりの量。しかも、近作ばかりである。多作でかつ、多岐にわたる。


(Mostly from my mobile came, low quality, some are from internet.)
以下の写真のほとんどは、私の携帯カメラによる。



しかも、ローズマリーの作品は、かなり「なぞ」である。だんだん、わかってきたけど、植物、動物、人間などの有機的な形に強い思い入れがあり、そのラディカルさを、博物誌的にプレゼンテーションしている。あらゆる素材を使う。初期の彼女は、ニットのものを多用していたと思う。以下のように。



以下は、展覧会の解説(山岡訳、時々超訳)。
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ローズマリー・トロッケル(1952年ドイツ)は、1970年の男性ばかりのドイツのアートシーンに現われた。彼女のアート探求は、様々な方法と素材を使うので、形式的な分類不能なものだった。その制作を通して、彼女は正当なアート、社会秩序、ジェンダーアイデンティティのカテゴリーを問いかけた。フェミニズムのコンセプトと対比的な方法をとりながら、主題の変容、人間と動物と私たちの種に影響のある環境との関係、ファッション、流行、美、社会的アイコン、身体、そしてそれらの社会構造を探求してきた。




この展示のテーマである「コスモス」はアメリカの探険を書いたアレキサンダー・ファン・フンボルトの著作のタイトルからとった。探険の手柄はコロンブスにあるが、探険によって集められたアメリカの見聞知識においては、フンボルトは自らが先駆者であると、自負している。トロッケルはフンボルトの独立心の強さと大胆な研究にあこがれ、彼の精神を次に引き継ぐ作家であると自らを位置づけている。

また、展示されたオブジェのこのコレクションには、トロッケルが感情移入し、彼女自身が発する問いと同じ率直で、創造豊かな創造性を感じるゆえの選ばれた、あまり有名ではないアーティストの作品にまで及んでいる。方法あるいは原因かのどちらかで、この非協調主義者たちは、自己表出的ではなく、むしろ職業的に働く人たちの典型である。さらに、ジェイムス・キャステル、ジュディス・スコット、モートン・バートレット、マニュエル・モンターボたちのような自己流のアーティストたちも、そのほとんど無名の状況のアーティストたちである。一般に、彼等は孤立したアーティストで、控えめな素材、素晴らしくエコノミーな方法でつくり、ある種奇妙なビジョンを追求することに従事している。

展覧会に出品された他の作り物は、自然史の領域から来ている。たとえば、マリア・シビラ・メリアン(1647〜1717)による、昆虫学でのライフサイクルについての水彩画、スペインの園芸家である、ホセ・セレスティーノ・ムティス(1732〜1808)の絵は、出版物を出さなかったため、最近まで知られていなかった。19世紀の終わりになって、ブラスケカ・ファミリーは植物や海の無脊椎動物のガラス細工を作った。それらは素人とプロフェッショナルな自然史家の両者による研究の成果である。今日、彼等のほとんどが、美学的境地かもの珍しさから鑑賞されるようになった。それの作品は、彼等が切開いた様々なフィールドの科学的な見地からの、刺激を受けて作られたものである。

ローズマリー・トロッケルは、彼等の作品を借用し、彼女の作品にインスピレーションとその例を与えた、見なしている。

Rosemarie Trockel (Schwerte, Germany, 1952) appears in the German art scene, largely dominated by men, in the 1970s. Her art explores various work methods and materials, thus eluding stylistic compartmentalization. Through her creations she questions the categories that legitimise art, social order, gender identities; while exploring constants such as the contrasting conceptions of feminism, the metamorphosis of the subject, interrelations between humans and animals and the environmental impact of our species, the phenomena of fashion, fame, beauty and social icons, the body and also the social construction of the subject.

“Kosmos” was the title that Alexander von Humboldt (1769-1859) gave to his book on the discovery of America. Humboldt, when he attributes the merit of the discovery to Columbus, makes use of the argument of progress as the result of accumulated knowledge. The artist admires Humboldt for his independent and intrepid studies, and she situates him next to other authors she also believes are kindred spirits.

In this collection of objects, Trockel pays attention to lesser known artists, chosen out of the empathy she feels for the frankness and inventiveness with which they look at questions that she too asks herself. Either in another discipline or for independent causes, these nonconformists provide models of selfless and vocational dedication. They include self-taught artists such as James Castle, Judith Scott, Morton Bart¬lett and Manuel Montalvo, who worked in situations of near anonymity. In general, they were solitary artists who worked with humble materials and with great economy of means, and were committed to their search for a singular vision.

Other artefacts in the exhibition come from the sphere of natural history, such as the watercolours painted by Maria Sibylla Merian (1647-1717) about life cycles in entomology or the works of the Spanish botanist, José Celestino Mutis (1732 –1808), whose recognition came late because his studies were never properly published. At the end of the 19th century the Blaschka family created exact glass replicas of plants and marine invertebrates, which were used for research purposes by both amateur and professional naturalists. Today all of them are more appreciated for their aesthetic quality and the curiosity that their work inspires than for the scientific activity they carried out in various fields.

Rosemarie Trockel makes use of all of them, considering them to be exemplary and inspirational in her own work.

厚紙、段ボールなどでできた鶏たち。

この部屋は、壁がタイルになっていた。天井などは通常の高さ。

一抱えほどの大きさ。


カニはガラスの箱の上におかれている。だいたい実物大。

なんじゃかわからないが、セラミックぽい。

これも焼物。

思い出せないが、それほど大きくない。黒い面は、ひとかかえくらい。

たぶん、普通のソファに布などを置いている。

この下に蛍光管がある。

以下が、博物誌的に集めてきた、無名のアーティストたちの作品かもしれない。


臍の尾を連想してしまう.....


ガラス細工。



以下のようなノートが何冊も展示されていた。いろんなものの形。いろんなもの、と言っても、なんでもなではなくて、もちろん、選んでいるだろう。それは何だろう。感性的に気に入るかどうか、なのか、何かルールがあるのか? ガラスケース内だし、接写が携帯カメラではこれ以上無理だったので、ぼけてはいますが、雰囲気はつかめると思います。





11.9.12

個人的地政学ツアー Missing in cities

たった10日間ですが、行ってきます。

パフォーマンスフェスのためにバルセロナの近郊の村に行く他は、
マドリッドとビルバオ(グッゲンハイム美術館があります)に、一人で旅してみます。
観光に近いですが、町、ビル、人々、公共空間を意識して、
観察してみたいと思っています。
写真を撮ります。私のやすっちいカメラでどこまで撮れるか。
ひとりワークショップです。
叙情的ではなくて、観察のためのツールですが、私の内部を投影するでしょう。
私は、私の中の権威へのあこがれを「量り」たい。
ビルと都市はその意味がつまっていると思います。
揶揄するためではなく、...... なんだろう.... それを知るために。
もしかしたら、フランスのトゥールーズにまで、足をのばすかな。

兜町。東京証券取引所
東京証券取引所、裏道
西洋ドラゴンの羽根
構成主義
空の青が壁面に反映している
帝冠様式の野村証券。壁面のムラムラが絵のようだ
いくつかの違った物質。右は野村証券ビルの正面
国旗


私のチビ姫カメラ

8.9.12

Personal geopolitics 問いの起こる場所、個人の地政学

来週からの旅で、トランジットにドバイに寄る。ほんとにこんなビルがあるんですか。

おととしだったか、埼玉県の中学高校の美術教員の人たちの夏休みの座談会に、変わり者ゲストとして(だと思う)呼ばれた。その時、新人の先生たちがしきりに言っていたのは「最近、何がアートなのか、よくわからない。」ということ。別に、彼らが不勉強なわけではないと思う。話の文脈で言うと、様々な美術展がある中、「これが正道」というのが、みつからないという事だったと思う。それはよくわかる。そして、先輩の先生の考えを聞いていても、参考にならない、と正直思っているようだった。

今の社会の全部が「競争社会」な状態は、憂えるべきなのかもしれないが、案外、現代の美術にとっては、良い状況かもしれない。「自分の頭で考えるよりない」のだから。アートマーケット系、お金が回ってそうな大きな美術館や国際展系、それから、公的に支援されているコミュニティアート系ですら、それぞれ方向性が違っていて、何がアートの「正道」であるかとは、なかなか、いいずらい(同じメンバーでやっているようにも見えるけど)。一般の方たちの休日のお楽しみなら、そこらへんを回っていれば充分楽しめる。一方、それ以外の従来からの「中産系」はほとんど衰退している。アーティストたちは、はっきり言って生きにくいが、そんなことは世間には関係ないかもしれない。ある人々は「日本からアートはなくなっていくんだと思う」と言うし、ある人々は「今、とても活発です」と言う。

 前回、太田エマさんの企画で「疑問の状態」という展覧会にかかわった。私もキュレーターとして、どのように、来場者に関わってもらえるか、計画する役どころで参加した。そこでは、「まとまった、一環した主張のある作品」は提出しなかった。そして、意外に多くやってきた来場者の多くは、そこに作品らしいものがほとんどなく、言ってみれば、作りかけのような作品と、たくさんの問いがぶら下がっている空間に、とまどう様子はあまりなく「これがアートですかね」とも、聞かなかった。そして、多くは長く滞在して行った。中には、「作品としてはどうも」と思った人もきっといただろうけど。
 たぶん「問い」であることは、今、一番の「問い」なのではないだろうか。かわいいいものを楽しんだり、ささやかな財力を使って家に飾るものを選びたい人もいれば、気軽な仲間と時間を過ごすための場所を持つことを大事にする人も多いとは思うが、「何事かを考えざるをえない、その問いを分析し、分け合いたい」と思っている人たちが、案外に多いということではないだろうか。そして、それもアートであるということ。しかも、結構「旬」の。そのことをつくづく思い知る機会だったと思う。何かが始まってしまった、そんなことを私は感じている。


どんなことに問いを持つか。それは、たぶん、それぞれの個人が身体感覚として持っている「地図」の感覚によって変わってくると思う。コミュニティ毎の感覚もあるだろうけど、個人も実際、様々あるはずだ。それを私は「個人における地政学」と呼んでみている。私の「地政」空間が、少々特殊なのは自認している。ゆえに、仲間はあんまり多くないんだ。でも、負けないよ。
ラディカルであり続けるためには、自分のコンパスをいつも、さびないように磨いていなくては。

アーティストからの問い。壁に直接書かれた。
企画側から来場者に問われた質問票は書き込まれた後、展示された。
質問票に書き込む来場者の方たち。
ぶら下がるディスカッションのための10のトピックとパーティの様子。
トピックは譜面台に載せられた。