8.9.12

Personal geopolitics 問いの起こる場所、個人の地政学

来週からの旅で、トランジットにドバイに寄る。ほんとにこんなビルがあるんですか。

おととしだったか、埼玉県の中学高校の美術教員の人たちの夏休みの座談会に、変わり者ゲストとして(だと思う)呼ばれた。その時、新人の先生たちがしきりに言っていたのは「最近、何がアートなのか、よくわからない。」ということ。別に、彼らが不勉強なわけではないと思う。話の文脈で言うと、様々な美術展がある中、「これが正道」というのが、みつからないという事だったと思う。それはよくわかる。そして、先輩の先生の考えを聞いていても、参考にならない、と正直思っているようだった。

今の社会の全部が「競争社会」な状態は、憂えるべきなのかもしれないが、案外、現代の美術にとっては、良い状況かもしれない。「自分の頭で考えるよりない」のだから。アートマーケット系、お金が回ってそうな大きな美術館や国際展系、それから、公的に支援されているコミュニティアート系ですら、それぞれ方向性が違っていて、何がアートの「正道」であるかとは、なかなか、いいずらい(同じメンバーでやっているようにも見えるけど)。一般の方たちの休日のお楽しみなら、そこらへんを回っていれば充分楽しめる。一方、それ以外の従来からの「中産系」はほとんど衰退している。アーティストたちは、はっきり言って生きにくいが、そんなことは世間には関係ないかもしれない。ある人々は「日本からアートはなくなっていくんだと思う」と言うし、ある人々は「今、とても活発です」と言う。

 前回、太田エマさんの企画で「疑問の状態」という展覧会にかかわった。私もキュレーターとして、どのように、来場者に関わってもらえるか、計画する役どころで参加した。そこでは、「まとまった、一環した主張のある作品」は提出しなかった。そして、意外に多くやってきた来場者の多くは、そこに作品らしいものがほとんどなく、言ってみれば、作りかけのような作品と、たくさんの問いがぶら下がっている空間に、とまどう様子はあまりなく「これがアートですかね」とも、聞かなかった。そして、多くは長く滞在して行った。中には、「作品としてはどうも」と思った人もきっといただろうけど。
 たぶん「問い」であることは、今、一番の「問い」なのではないだろうか。かわいいいものを楽しんだり、ささやかな財力を使って家に飾るものを選びたい人もいれば、気軽な仲間と時間を過ごすための場所を持つことを大事にする人も多いとは思うが、「何事かを考えざるをえない、その問いを分析し、分け合いたい」と思っている人たちが、案外に多いということではないだろうか。そして、それもアートであるということ。しかも、結構「旬」の。そのことをつくづく思い知る機会だったと思う。何かが始まってしまった、そんなことを私は感じている。


どんなことに問いを持つか。それは、たぶん、それぞれの個人が身体感覚として持っている「地図」の感覚によって変わってくると思う。コミュニティ毎の感覚もあるだろうけど、個人も実際、様々あるはずだ。それを私は「個人における地政学」と呼んでみている。私の「地政」空間が、少々特殊なのは自認している。ゆえに、仲間はあんまり多くないんだ。でも、負けないよ。
ラディカルであり続けるためには、自分のコンパスをいつも、さびないように磨いていなくては。

アーティストからの問い。壁に直接書かれた。
企画側から来場者に問われた質問票は書き込まれた後、展示された。
質問票に書き込む来場者の方たち。
ぶら下がるディスカッションのための10のトピックとパーティの様子。
トピックは譜面台に載せられた。