明日が、「イスラエルの若いアーティストとの対話」展の初日。
自分が20歳から26歳くらいの頃を思い出してみる。個展は2度ほどしていたけど、個展を開けば、だれかがやって来るとばかり思っていた。当時は、「画壇」みたいな言葉も実体もまだ、リアリティがあって、そういうのがいやで、NYのアートシーンにあこがれていた。お金をためて、NYに行きたいって思ってた。
さて、
わたしの駐場日程は、
12日 14:30〜 たぶん、20:00まで
13日 16:00〜 たぶん、20:00まで オープニング
15日 14:30〜 16:00くらいまで
16日 18:00〜20:00 パフォーマンス見学
マヤ・ゲルフマンの、イスラエルと言う国について書いた詩をひとつ、ここに紹介。
人々は集まって都市を築いた それぞれがひとりぼっちにならないために。
孤立していると 恐ろしく危険な見知らぬ者に攻撃されてしまう。
安全と可能性の幻想を信じるのはたやすい
そういう輩の群れに囲まれているならなおさら。 私たちは 他者たちを区別することで まとまりを持つ
彼らとともにいながら。 うわべだけでは。 人々は混み合った場所にいっしょに住むためにやってきた。
なぜなら私たちの行っていることの回りには 死の脅威だらけ。 恐怖の果てには、
私たちが行い 進んで行こうとしていることの果てでは、
それは突然来るだろう、 しかし私たちが叫んでいるのを聞く人はいない
私たちは中心を作り グループを組織した。
脅威はそのグループのあいだでは重要課題である。
しかし 個人としては 私たちはバラバラであり 関心がないと感じている。 おかしなことには その都市の中では私たちは まるで
完全に孤立しているかのように振る舞う。 この場所は私たちのものであり
そして 他のすべてが野蛮な侵入者であるかのように。
まるで彼らの事件は 彼らのことでも 私たちのことでもないかのように。
わたしたちは 彼らと共にいることの選択肢を遠ざけている。
私たちはまるで るつぼの中に投げ込まれたかのようにふるまう、
選択の余地がないかのように、
まるで 押し合いへしあいから逃げ場を失っているかように、
しかし実のところ、
私たちが 外からの 恐ろしく敵意に満ちたものを引き込んでいる。
わたしたちは脅威の隣人である わたしたちは恐怖にとりつかれている。
孤立するか 共存するか。