以下は、Cannons and Musesのオープニングのパフォーマンス。阪中君が、自分が担当した、Chayaという女の子のパフォーマンスを彼の身体で行う。コンセプトがいまいち、腑に落ちてないんですと、毎日彼は言う。メールで、Chayaにレクチャーしてもらおう、と言って、昨日は終わりにしていた。腑に落ちるまで、きっと、彼は、おしっこを漏らすことができない。おしっこを漏らす事自体が、目的になっては違うという気もするし、と迷う。彼は、実はなんでも迷い続けるタイプなのか、それとも、これについては迷っているのか、わたしには、判らない。まだ、彼については、わたしも知らないから。白い花の方が、Chaya。Chayaはおしっこを漏らしている。
水が身体をサーキュレートしているということを、体験、体現したいのだと、Chayaは書く。身体は、所詮、それだけのはずなのに、人間は、それだけとは言えないような活動をする。社会も、家族も、愛も、友情も、戦争も、ビルも、町も、都市も、何もかも、幻想であり、あっと言う間の、無意味な出来事とも、思える。人は死んだ時、尿道が緩んで、失禁する。それだけの生き物である、ということだけは、確かのように思う。
三島由紀夫の「豊饒の海」で、4巻にも及ぶ大ドラマの最後に何もかも、幻で何もなかったことかのように、言われてしまうシーンがあった。高校生の時それを読んだときは、技巧走った文章だと思って、ピンと来なかった。ハリウッド映画のとってつけたようなオチのようなものかもしれないとかんじていた。
でも、今は、わかる。
