17.2.10

対話はできたか(1)

対話展終了。

ところで、肝心の「対話」がどうだったか、学生さんたちと検証したいけど、わたしは「先生」ではないので、そこまではやらない。ていうか、そういうことを、話さないタイプみたいで、皆さんは。

対話という言葉は、もちろん、あえて、選んだ。どうしても、折り合わない二つの陣営が、和解のために、努力していくために、「とめてはならない」ものとして。もう1つの理由は、マルティン・ブーバーの著作(ユダヤ人だ)から。完読してないけど、読んだよ。

わたしは、そういう機会をつくるだけ。牛を連れて行くみたいなことはしない。無理強いしたって、無理だ。「わからない」からとそこまでにする人と、「わからない」から頭からつっこんでいく人とあって、そのどっちが、のびていくかってのは、自分の経験と、これまで、わたしの出会って来た人たちの人生を横目で見ていれば、それはわかる。言うまでも、ないのだ。今から、完成していて、どうする。わたしだって、のびざかりだ。

それから、私は、もちろん、イスラエルという国の若者の芸術家について、ほんの一部であるけれど、知ることができた。コンセプトの立て方など、優等生だと思う。学校ではちゃんとアートを教えているらしい。結局、アートっぽいことで、遊んでいるだけなんだなという人もいれば、かなり、頑固に取り組んでいる、興味深い人もいた。私から見て、興味深いのは、やはり、身体・社会・政治というテーマを自分の内側に入れて、アートという手法とのバランスを、自分自身の手探りで取っているアーティスト。社会的なこととの関係を、固定してしまった時、とっても、ベタなものになるからね。フレキシブルな人は、共感ができるし、私の作品も見て欲しいと思える。

イスラエルという国の中で、アーティストが行うことが、どう、許されていたり、期待されていたり、敬遠されたりしているのか、その度合いは、今のところまだ、わからないが、これは、今後のつきあいで、知っていきたい。今年中に、一度行きたい。ある種のやり方で、コントロールしているらしい、から。

単に、芸人として、アーティストが求められている、日本のパブリックな状況に、対して、わたしは、どう、スタンスを構えていけるのか。ムラカミ君(ハルキではなくてヒロシ)が心配しても、わたしも銃を持ちたくなるのか(笑)、そうではなくて、何か、ピースフルで、しなやかな戦略があるのか。それを行って行くために自身の力をつけつつ、仲間を見つけていく、経験のある人の話を聞く、力も借りる。アーティストイニシアティブというのは、夢なのか、実現すべきことなのか、私には無理な相談なのか。どげんでしょか。

上から、マヤゲルフマンの詩を自分の詩の言葉に置き換えて、リーディングパフォーマンスをした長尾日和さん。テルアビブのカフェのおしゃべりの録音に妄想参加している後藤君。銃の形の自家製のパンを必死で食べているムラカミヒロシ君。女性が銃を持つことを理解するためには、まずは食べてしまおうと思ったそうだ。その下、鈴木萠さんがLiorというパフォーマンスのアーティストの作品を紹介するためのカードを色とりどりに作ったもの。拡大して見てみださい。その下は、Iritのパフォーマンスの映像展示、担当は後藤君と磯君。その下の2枚は、丹下さん、畑江さんチームで、NavvaとAnatの平面昨品。こちら、拡大してくださいね。