30.8.08

違う次元に住みましょう

ふたつほどパーティに行く。人疲れ。
人との関係が大事と人は言うけど。家には、もっと読みたい本がたくさん。
でも、本を読んでうれしくても、人と会うことの手触りは本では得られぬ。
それをしなくては、生きている価値がない。

あしたは、アクションパフォーマンス。桜木町駅前。

あした来る人に感謝。


騒がしい町の中で、違う次元に住みましょう。

26.8.08

仕事が速い/早い


















 10月後半にボストン〜トロントへ行くので、そろそろ日程を決めなくてはいけないのに、その前の、10月前半のヨコハマでのイベントが、ひっくりかえったりこわれかけたり音信不通とか、なんとかかんとかで、ややこしく1ヶ月近くも日程を決めるのにかかってしまった。それでやっといつ頃行けそうだと、きのう連絡すると、ボストンとトロントのオーガナイザーが連絡とりあって、1日でさっさと、私の滞在日程と移動日、誰がその費用を払うかの分担を決めてしまった。当たり前と言えば、当たり前の速さ。まあ、お金のあるところで、仕事としてやっている彼らだから、当然と言えば当然。うらやましい。

話は変わって...................
以下、次の日曜に参加させていただくイベント。オーガナイザーは広報していないので、お客より、通行人の方が多いかも。
オーガナイザーは、日本に住むイギリス人。
近所の人は、つっかけ履いて、遊びに来てください。

横浜にての山岡佐紀子によるアクションパフォーマンス。
関わりたい方、写真に記録して下さる方募集!!

2008年8月31日(日)14:00〜
JR桜木町駅前 みなとみらい21側の広場 集合(港の方に少しずつ移動します)
アクションタイトル「Come with me」
参加無料 

やってみたい人は、わたしに巻き込まれることになるでしょう。
場所は、旧三菱造船エリア。今は、観光地?? 

参加するイベントは、以下のDislocateという展覧会です。
企画メンバーの太田エマさんが、4月の信濃町でのアクションに参加し、気に入ってくれたのが縁で、誘ってくださいました。
展覧会の内容は、HPをご覧ください。
いろいろな人が関わっていて、面白そうです。
Dislocate 08
詳細はHPへ>>> http://www.dis-locate.net

24.8.08

人と関わる

きのうは、少し波瀾万丈な会見があった。無事、良い方向に向かっているが、油断は大敵。交渉事が、得意なわけでもないと言っているくせに、それをするはめになっていくのは、端から見ると矛盾してみえると思う。だけど、だれだって多かれ少なかれ、それをしなくてはならない。これから、山ほどそういうことをしていかなくてはならない。人というものを、よく知ることができるので、失望することも多いが、可能性というものを感じることも、また多い。そして、何より、自分が鍛えられる。勝つためではない。理解しあうことが一番大事。

 提供者と消費者のスタイルを超えるような関わりをしないと、人は見えて来ないと、つくづく思う。システムは、楽だ。でも、人は見えない。

...................あたりまえの話だなあ。こんなこと、書くようになった、わたしは、ちょっとやばい。
気分転換、気分転換!

写真は、あるところ。

21.8.08

人は変われない

 人は変われない。スキルがアップしたり、環境が変わったり、知り合いが変わったり、評価が変わったり、収入が変わったり、国籍や性別や宗教が変わったとて、本質ということは、変わらないんだということが、ここのところ本当にわかる。自分のことより、他人を見ていると余計わかる。つまりは同じ事だ。同じ間違いを犯していも、今度は、自分はもうそういうことをしてもいい立場だと思ってしまう。油断する。が、間違いはおなじ。自分は見えないと自分に言っておこう。
 また、自分にわかることもそうそう変わらないのだから、わからないことには、首を突っ込まないとわたしは決める。判断はむずかしいけれど。たとえば、自分の立場や利益を守ったりすることが、明らかに、劣っていても(わたしのこと)もはや恥じることはない。
 あるMLで、ちょっと知っているわたしと同世代の美術の専門家が「人間は成長している」と書いていた。「このグローバル化時代には、日本人はもっと個の確立が必要だ」とか。まだそんなこと言っているの? 人間は、成長していないですよ、変わらない。むしろ、能力的には、退化しているくらいです。と書き込もうかと思ったけどやめた。そういう論争自体が、むなしい。個の確立だなんて、笑っちゃう。どんどん、恥知らずになっているのに。でも、わたしは、それを受け止めて、観察して行こうと思っている。わたしも、その船の上に乗っている。努力しても無駄なことはある。

 時々、映画「天国と地獄」で見た、シャブ漬けの人たちが住んでいる町の様子を思い出す。見た目は、こぎれいになっていても、人々の住む世界は、一皮むけばあれと同じなんだと思う。絶望しているわけではない。

 そこで、そんなもんだと思ってその中で肘を張りあってあっぷあっぷするのか、そればかりではないと思って人を愛すことに望みを失わない馬鹿者でいるのか、そこは、その人の何を信じられるかの「本質」なんかなあ、と思う、説教臭い、今晩のサキコだった。
 わたしは、馬鹿者でいいのではないかと思うのである。そういう人もいないと世界は困るでしょう?

今日は、絵をたくさん描き、時々、覚三さんの本を読んでいる。ちょっと苦手な文体ではあるが。絵もどっか、うまくいかず。世事から少し離れたい。

20.8.08

書いてあることがわからん

グルジアの話。新聞を読んでもわからなかった。ネットの新聞もわからない。今日の、産経新聞は特に、ひどい。あきらかに反ロシアのプロパガンダだと思う。わたしは、サヨクでもないけど、西側社会のやりくちってものもあることにはさすがに気がついているから、だまされたくない。センチメンタルに訴えかけようとする新聞。プラハの春、事件と、混ぜるな、危険。
田中某のニュースサイト。これが、一番わかりやすかった。それなら、つじつまがあう。これも偏向している?

以下は、今年5月ポーランドでポリスに職質されているサキコ。あやしいことと、あやしくないことをきちんと説明できるかどうかも、芸術家の大切な仕事(!)。実は、わたし自身より、私を撮っていた背の高いカメラマンの行動の方が問題だった。あまり、目立つ人は、路上パフォーマンスのカメラマンに向かない。トラブルを起こすことが、わたしの目的ではない。

19.8.08

死んだ雀に衣装をつけて

 森美術館に、アネット・*サジュ展を見に行った。フライヤーの案内を読んで、期待半分、なんとか半分だったけど、実際は、案内を裏切ってくれて、とても満足した。案内だと、どことなく、なんとでも言えてしまう系の、最近よく見かける「わたしってちょっとやばいかもしれないけど、かわいいでしょ?」系かもしれないという不安がなくもなかった。フライヤーには、フェミニズムのアーティストとも書いたあったと思う。

 入場すると、すぐに、わたしはにやにやしてきた。たくさんの鳥の剥製が、みな、ぬいぐるみの頭を、被らされ、天井からぶらさがった台にのっている。入場してすぐの左の小さめのへやには、こちらは剥製程の美しさも保ててない、たぶん、単に死んで黒ずんでいる雀(だと思う)がガラスの中にたくさんいて、毛糸で作られた衣装をきせられていたり、折檻具がつけられている。この部屋は、薄暗くて、誰もいなかった。
六本木の午後6時だから、けっこう、若い男女のお客が多くて、ちょっとびびっている。

死体は、この入り口だけで、後は、ちぎれたぬいぐるみが、電動で動いていたり、身体の一部を撮った写真などとドゥローイングのコラージュ。というと、まったく説明不足で、気味が悪いみたいだけど、わたしは、非常に楽しかった。構成のアイデアがとても豊かで、わたしの琴線にふれる。
 美術館の説明みたいに「彼女は聖と俗、ユーモアと恐怖、愛と悲しみ、女性と男性、動物と人間、子供と大人、生と死、表と裏など、人間の相反する複雑さを日常の視点から浮き彫りにします。 収集癖や身体への関心、ぬいぐるみや玩具との戯れ、言葉遊びなどから生まれる作品には、子供のような無邪気さと残酷さが共存し、私たちは、メサジェの紡ぎだす物語の世界からさまざまなメッセージを読み取ることができます。 人間の負の感覚にも正面から向き合いつつ、そこに小さなユーモアを潜ませる独特のエスプリは、世代を超えて多くの人びとの心を捉え、魅了します。チャーミングで幻想的、そして時に奇妙で不可思議なかたちで私たちの前へ現れる作品群。それらは人の心の奥深い部分へ何かを投げかけてくる「使者」といえます。」と言えばいいのかもしれないけど、「ブツ」ってのは、もっと違ったド力でもって、なにかしらかを伝えてくれる。写真やカタログでは、色のきれいさに、だまされるので、買わなかった。ハートに刻み付けるのだ。
 そして、またわたしは、ちょっとしたある決心をした。

 ちなみに、1994年に世田谷美術館であった「アウトサイダーアート」展のカタログの表紙になっている作品は、彼女のものだった!

16.8.08

自己矛盾の秋到来

買い込みすぎた本を処分することを「贅肉をとる」と言った友人があったが、わたしはそうは思わない。家が、広かったら、とっておきたいものばかり。でも、涙をのんで、50冊くらいさよならだ。まあ、妄想という贅肉といえば、そうなのかもしれない。しかし、危なく捨てそうになった、以前ちょっと読んでつまらんと決め込んでいた本を、めくると、おおおおおおおおおおおおおおお。探していた、話が出ているではないか。えええええええええええええええええというほど、詳しく出ていました。

前回の日記を読み返すと、自分がリヒターでもないのに、そういう気分になって、他のおじさんのこと、厳しく言って、わたしって良くないな、と思う。リヒターの本を閉じた時は、やくざ映画を見終わって、気分はなんだか高倉健、みたいな感じだったんだろう。笑える。

こっちは、それどこではなく、本棚、資料の整理をしていると、明らかに2007年夏くらいから、いかに表面だけで生きてきたというのがわかる。表面だけ、というのは、物事の整理をせずに、その日その日で、やってきたということ。なすすべもなく、積み上げられていた資料を整理。写真データにしても、去年気がつかなかったことが、いろいろ、あるのを知る。
このごろ、確実に、体力が回復しつつあるので、どんどん、やるのこころ。(?この言葉遣いはどこから来たかしら)

何事かが、わかってくるのは、傷口が治ってくるスピードに似ている。時間が経たないとわからないことがある。だけど、これは困るよね。実際問題。「人を決めつけないでくださいねっ」とよく注意される私だけど、ある程度のところで、ジャッジしないと、人事部としては仕事にならないものね。それとも、柔軟な頭は、柔軟な身体に宿る、か?
でも、「なせ、国民は健康でならなければならないのだ?」という問をテーマにした作品をつくりつつ、まだ仕上がってない私としては、毎朝、トレーニングする、奴隷のような身体を持つ自分の姿との矛盾をどおするべ。もちろん、国のためではなくて、自分のためなんだけど。自己矛盾に苦しむ、秋、到来。

だらだらした時間。2007年、デュッセルドルフ。尺取り虫みたいなのが、ワタシ。首が切れているのが、アダチくん。誰もからだを「ピン」とのばしたりはしない。これでいいのダ。

14.8.08

のんきについて

3日前、夏休み気分で、佐倉の川村美術館に行った。モダンアートをあれこれ見るのって、本当に、世界から逃避した感じで、気が楽になれる。バーネット・ニューマンの特別室などは、ほんとに、あっという程、アメリカ美術が、希望に見えていた時代を感じた。

今のわたしたちは、そうはのんきでいられない。

ブックショップで、リヒターとタイマンスの評論を買う。リヒターは、webが充実しているから、すでにたくさん実物を見た人で、研究用という場合には、画集は買う必要がないと思います。
イデオロギーを拒否している。彼のその姿勢は、作品に現れる。それが思想そのものだと思った。ノンのノンだ。東でも西でもないし、イリュージョンでも、リアリティでもない。厳しく、「甘い」解釈を回避している。でも、絵画が、何かすばらしいことをしているわけでもなく、感情のニュアンスを表しているだけだとも言う。詳しく書かない。生意気に聞こえちゃうからね。ちなみに彼は、当時東ドイツだったドレスデンの出身で、60年代に、西ドイツに移住した。

きのうは、ビデオにとっておいた、スティーブ・ライヒの今年の東京でのコンサートを見る(聴く)。表現方法で、すでに充分、思想が現れているのに、わざわざ、アウシュビッツ話や、イラクで殺されたジャーナリストについての詩みたいなものを曲に混ぜているのは、あまり、しっくりしているとは、思えなかった。構成としても、クリアではない気がした。アメリカ人的ナイーブさを感じてしまう。ああ、これも生意気だよね。だけど、アメリカ系ユダヤ人という立場は、今では、中東ではある意味、加害者でもあるのだから。............リヒターの後に、接するとつい厳しくなってしまう。

ずっと前に、シンドラーのリストって、映画を、ビデオ屋で借りてみた。長いから、上下巻に分かれていた。上が、終わりかけのシーンは、ユダヤ人達が、trainでぎゅうぎゅう詰めで運ばれていくシーンだった。そのシーンが突如終わり、「引き続き、下巻もお楽しみ下さい」という字が出たとき、わたしは、ひどく、恥ずかしい気持ちになった。自分を責めさえした。でも、今は、言える。その恥ずかしさは、わたしのものというより、スピルバーグのものではない? 恥ずかしいという言葉は、ぴったりではないけど。



以下、写真。ドイツの死の商人(武器商人)と言われた男、アルフレッド・クルップの銅像の前で。

11.8.08

ソ*ジェニーツイン

人生には、まったく思いがけない人が、関わってくるものだと思う。自分でコントロールはできないものだ。
たとえば、両親がこどもの将来に夢見たような世界とは、まったく違う人たちに、子供が反応していくのを、どう思いながら見るのだろう。

わたしは、小学生6年だったかの時に、テレビで見た、ソルジェ*ーツインの亡命に、なぜかとっても感動してしまった。学校へ行って、尊敬する人として、その名を発表し、担任の先生を絶句させた。
中学になって、彼の著作を、一冊買ったけど、読めなかった。だから、どっぷり浸かっているわけではなく、むしろ、亡命ということ、そのものに、あこがれ続けた。そのうち、ミグ25戦闘機が、北海道に亡命した。

何に偉大さを感じたかは、人に話して、理解されたことがないから、もう説明はしない。形で表していくだけ。

やがて、ソルジェニー*ィンの亡命についての、もっと詳しいことを知るにつけ、あの華々しい悲劇の印象は、西側のメディアの演出が過剰だったこともわかって行く。そして、彼の帰国後に、書いた「廃墟の中のロシア」を読んで、わたしが思っていたイメージや、西側が作ろうとしたイメージと本人に、ギャップがあることにも、気がついた。同時に、本人自身にはじめて、接することがっできて、それは良い事だと思う。表現の機会が与えられた人は、いいなと思う。だれもが、そうできるわけではないので、そういう才能やチャンスに恵まれた人は、それに気がついて欲しいと思った。彼は、たぶん、そういう人だと思う。


今月3日の夜に彼は亡くなった。

どっちの世界にいようが、たいしていやなことが減るわけでも、ない、という世界感が、わたしを支配する。
もっといろいろなことを書きたいけど、今日はやめにしておく。


8.8.08

巻き込まれてワルシャワで主演女優になるの巻

昨年、ヨコハマで撮影した「Missing in Yokohama」(80年代に横浜で失踪したポーランド女性であると自分で思い込んでいる女が、久しぶりに横浜へ帰ってきて町をうろうろ歩く)のビデオバージョンは、撮影者のパベルが最後に言ってきたコピーライトの件で、わたしが希望するようには、編集ができないことになったので、後で、仕上がりを見ても、ぴんと来ないから、1年ほったらかしにしていた。また、彼はその撮影で、わたしのこの作品と、彼の方の作品とを2つ作ることになっていた(ご苦労なことである)。そちらは、そのあと、わたしがワルシャワに行ったので、そこで最終撮影があったが、これが驚くようなメロドラマのシナリオができていた。こちらも架空の哲学者レビンスキーがいて、彼を訪ねてきたsakiko。哲学に憧れていたはずが、フォーリンラブになってしまうというもの。こっちは、本名のわたし。わたしが使っているポーランド名モニカですらない。一日しかなかったから、一応演じてみたけど、こんなものが世間に出回ったら、わたしのアーティストとしての、イメージに傷がつくから、出演者の名前は、誰か架空のものにして欲しいと、ずっと申し入れていた。そのうち、どうせ、マイナーだろうから、まあいいかとあきらめた。しかし,映像や写真というものは、本当に怖い。コピーがいくらでもきくし。さらにノーギャラだし。
余談だけど、相手役のクリストフは、wikiにも載っている本物の俳優。演技というものを目の前で見て、自然に見えるって、こうもわざとらしいのかと、関心した。

ところが、久しぶりに、ほったらかしていた、わたしの作品の方(編集は彼)を、見てみたら、案外、面白いので使えそう。
そして、そのB級なメロドラマ映画の方の使い方にも、ひらめいて、いまは楽しい。その「巻き込まれてワルシャワで主演女優になるの巻」は、行き場を失ってうろうろ歩く女の、「まさかこんなことにも!」という事件のコメディとして、有効である。それが、メロドラマであればあるほど、ちょうどいい。撮影されたフィルムそのものも、わたしのトータルなパフォーマンス作品の一部と考えることができる。コピーライトなんて、もうどうだったいいわけだ。映画のタイトルが『真実の現象学(The phenomelogy of Truth)』というのも、また、笑える。
いつの間にか、クラクフで試写まですませているらしい。このやられぶったくりみたいな出来事は、架空のことと、事実のことなど境界がないというテーマにぴったりだ。
それにして、「国際哲学映画フェステイバル」なんてものがあるなんて、不思議な国だなあ。


6.8.08

変な人たち

昨日は、知り合いの、脳梗塞から生還したばかりの、あるギャラリーオーナーに誘われて、ある、大きな展覧会のオープニングに行った。
客観的に、アーティストという存在を眺めていて、思うのは、アーティストって、まじめな人たちだということ。一般に、アーティストって、変な人たちだと思われている節があるが、実際のところは、社会に迎合せず、人間らしさを維持した、ストレートな存在だと思う。ヤマっぽいことを言ったとしても、作品はこつこつ作るしかなく、そのリアクションは、ダイレクトに個人のハートに戻ってくるので、案外、現実的で、嘘が少ない。
変な人々というのは、そのアーティストのまわりにいて、本格的にヤマっぽいことを言っている人々の方。そう言ったら、その生還した知り合いは、「あ、それおれのことね」とうれしそうにしていました。アーティストで、その周辺をかねている人が少なからずいて、それの方が目立ったりするから、人は、「アーティストは変な人」と言うのかもしれない(ウォーホルなんかそうだ)。あるいは、社会のルールより自分のルールを優先しがちな、素朴でナイーブで、お子様チックなアーティストの行動を見て、「変な人」と言う場合もある。

どちらにせよ、変、というのは、実は、ある種の人間社会の真実をついている。バランスの悪い、真実というべきか。ヤマっていることが、ひとつの人間の真実っていうのかしら。欲望サイドについているというのかな。やっかいだが、無視するか批判するか愛するか、それはあなた次第なのよ。

要望としては、できるだけ、変な人は、自覚していて欲しいというのは、あります。変なことは、大事なことなのだから。くだらなくもあるし。