27.7.11

ワークショップさまざま

昨年から、なぜか、ワークショップの仕事が続いている。まとめてみた。リンクしてください。
→ http://sakikoyamaoka.com/workshopJ.html


「いっしょにやるアクションパフォーマンス」もワークショップに似ている。あまり大きな区別はないが、あるとすれば、そこに私が参加しているかどうかの違いだけだ。
やはり,作品として行なっているという感覚でいるのが、正しいように思う。


仁川の新興小学校での「トリオの力」





上の3つは「ことの運び」。スペイン、ジローナにて



上のは、エルサレムでの「足のために避難」





上のふたつは、秋葉原で行なった「モバイルティーパーティ」




上のは、東京経済大学での「足のための避難」




25.7.11

エルサレムのWe are Elegant 2/2 パフォーマンス

We are Elegantという作品。
2007年にインドネシアで始めて行ないました。
詳しくは、この前の投稿を参考に。
エルサレムのWe are Elegant ストリートインタビュー

エルサレムでの"We are Elegant" は、東エルサレムのムスララという町で行ないました。ムスララというのはパレスティナの言葉です。1967年以前は、完全にパレスティナの町だったのだと推察します。そして、その中でも「ムスララ」は、ユダヤ人の左翼活動家のグループ「ブラックパンサー」の根城となっていたエリアだそうで、大変イワク付きらしい。今は、見た目は美しい「閑静な住宅街」。欧風の家の立ち並ぶ町ですが、この撮影をしたところはそのはじっこあたりで、「その昔」の空気が残っているようです。4枚目の写真に石造りのビルが見えますが、ここは所有権が、ややこしい事になっていたものを、このたび、ようやく、めでたく(?)メディアアートのスクールが校舎として使うことになったそうです。

以下はパフォーマンス写真の一部。参加者は、エルサレムのアカデミーのパフォーマンスアートのクラスの女の子たち。通行人も若干参加しています。よく見てみてね。後半は、フェスティバルに出ていた露天のフードショップのキッチンの中です。みんな興奮しました。店のおじさんたちも楽しかったらしく、あとで、握手を求めてくれました。お店の人に喜ばれるって本当にうれしいですよ。









以下はおまけ。お店のおじさんたちと、後で写真におさまる。二人は、とても楽しんでくれた。イタリアマフィアみたいな二人はどうやら、双子らしい。


エルサレムの We are Elegant 1/2 ストリートインタビュー

もう一月以上経ってますが、アップしていなかったので、ご報告します。
たぶん、私の5月のエルサレムの滞在中に行なった3つのパフォーマンスのうち、これが一番楽しかった。
「We are Elegant」という作品は知っている方もおられると思いますが、2007年にインドネシアのジョグジャカルタの郊外の村で行なったのが、最初です。村を歩き、インタビューし、「あなたにとって、エレガントとはどんなポーズですか?」と聞いて回りました。そのインタビューのスケッチをもとに、6つのポーズを選び、パフォーマンスの日に、参加したい観客とともに、村の墓地で、そのアクションを行ない、写真におさまりました。

<参考>
We are Elegant, Jogjakarta 2007 Youtubeへのリンクは以下。

さて、
エルサレムです。東エルサレム。1967年以前は、パレスティナの人たちが住む場所でした。聖地をわけ合っている「オールドタウン」の一部や、町外れのでこぼこした所に行くと、パレスティナの人の家を見ることができますが、きれいに整備されたビルや家のある中心街は、明らかにユダヤ人の町です。(たぶん)


”We Are Elegant. Jerusalem 2011"ストリートインタビューの映像から静止画像を紹介します。作品としては、映像の方になる予定です。

日本に、舞踏留学していたザッハというかわいい女性にインタビューのアシスタントを頼みました。以下、ビデオで撮ったものから、スティルイメージを取り出したものです。
質問の仕方が始めは、あまりうまくいかず、拒否されたりしましたが、慣れたら、どんどんポーズを見せてくれました。空色のスカーフを着ているのがザッハです。

次の投稿で、パフォーマンスの方をご紹介します。














20.7.11

北武蔵野を考える その1

所沢に住んでいる友人が、急に私の住んでいる川越市にやってきて、「この辺いいわよね〜。所沢も案外いいのよ〜」。地元を見直そうというわけ。私もそれに賛成することにした。

それで少し今の感覚を確認しておきたい。


世間の「地域社会」ムーブメントとしては、かなり、遅い出だしだ。しかし、それには理由がある。彼女も私も、地元の人間ではなくて、両親の都合で、引っ越して来て、そのまま、というタイプ。地元で、学校に行ってないし、知り合いが全くいないのだ。転勤族の第2世代の苦悩って、判る?だが、ふと考えると、たぶん、今後もここで暮らすという可能性が大になってきた、ということ。


地元志向という動きは、世間では盛んであるけど、ぎくしゃくもしている。横浜寿町にでかけると、ヘルパーさんに「あんた、地元にもあるでしょう?」と言われ、「しょば」荒らしだと誤解されたことがあった。小金井でも「地元はどうですか?」って聞かれた。もっと以前には、川口で「よそ者は、やりたいことだけやって帰って行けるからいいよね」と言われた。「地域振興」には、丸いものが必要なので、別の意味で、今度は「守り」に入ったりしているかもしれない。どこも居心地が悪いというのが、私の正直な気分だ。行政主導の「地域おこし」も、マフィアなネットワークに見える(すみません。誤解だったら、許してね)。



さて。

川越は、かなり特徴的な場所である。
なんと言っても、地元のデパート「まるひろ」がある。人が想像するような、廃れたデパートではなく、今も、他の商店よりも「高級感のある」ものを売っている場所であり、それなりに、最先端を目指していると思う。「まるひろ」は、この地域の主要な場所の地主でもあるらしく、駅ビルや、ユニクロ・紀伊国屋書店・ソフマップの入っているビルのオーナーである。
川越は、商人の町だ。大抵の他の「武蔵野エリア」では、農家の地主のパワーがなんと言っても強いのと比べると、川越は、異色である。城下町でもあり、門前町でもある。つまり、観光地である。

しかし、「近代的な意味での文化」の町とは、言いにくい


近代的文化の町の条件は、たぶん、「本屋」と「カフェ」だと思う。いい古本屋がある町には、かならず、いい「本読み」がいる。安易な図式かもしれないが、古本まで探して本を読む人々というのは「近代的」に言って文化的生活を送っている人々、を意味するだろう。以前、一人暮らししていた市川にはいい古本屋があったし、最近よく出かける用のある小金井にもあるよね。市川には「蛍明舎」というコーヒーがおいしくて、そして「静かに読書ができる」喫茶店がある。小金井には「フロンティア」がある。
川越は、東京の通勤圏としては、少々遠かった。市川は、浅草や銀座にすぐに出られる町であるが、川越から出るのは、池袋である。池袋西武が、「文化」を発信しだしたのは、80年代になってから。我が家族も、その頃、やってきた。その後の「文化」といえば、ご存知のように「泡」しかなかった。「西武」は、沿線に文化は創らなかったんだね。
川越の場合は、古本屋は「ブックオフ」、喫茶店は「スターバックス」が3つ、ドトールがたぶん「3つ」。店はたくさんあるけれど、たいてい、大資本によるチェーン店だ。観光地である「大正ロマン通り」には、喫茶店があるけれど、プチ観光のおばちゃんたちが、きゃあきゃあうるさい。地元の本屋はバブル期〜バブル以後につぶれてしまった。今は、紀伊国屋書店とビブロ。そういう町だぜ。観光エリアに喫茶店増えてきたけど、どうなんだろう。

一方、川越祭りは、間違いなく、すばらしい近年、ますます、磨きがかかってきた。誇ってよい。これがあれば、この町には、アートはいらないと思う。福祉なら、別の方法があるじゃんと思う。埼玉の他の町でやっているような「アート」がこの町にやってくるのは、あんまり、歓迎しない。あの祭りのある町として、相応しい「センス」のものではなければ、先人に恥ずかしいと思う。


今、私がこの辺で惹かれているのは、小川と草と樹木とほこらと小さな古墳群。北西に行けば行くほど、あやしいところがたくさんある。一人で延々散歩をしていて、飽きない。江戸時代以前からある、人間の暮らしや、想像力の痕跡。
アートが「クリスチャン」の影たっぷりな文化である以上、この「感覚」は、「カウンターカルチャー」の立場に違いない。しかも、「繁栄」とは違ったものだ。だが、これは、大事にしたい。今のムーブメントである「アートで町おこしを」というのは、こういうことを、潰しかねない気がする。「きたなくて、暗くて、怖い」とか言われそう。
安っぽい「おされ」なものや、子供っぽい「しつらえ」のものは、どうもしっくりしないんだ。だからって「レキ女」もどうかと思う。
高齢化の町である。「若いエネルギーを」と言うのは、高齢化している人たちを、疎外するだけの話。


アートと土地愛は、どちらも、誇りに、大いに関係がある。




サイトスペシフィックな表現を、主なテーマにしている私としては、安易に「面白そう〜」なんて関わりはできない。

18.7.11

ホームページ改修中

ホームページ改修中です。

日本語インデックスページ。ワークショップ「足の為の避難」の写真が加わった。
http://sakikoyamaoka.com/indexJ.html


英語インデックスページ。こちらは大幅に改修。
http://sakikoyamaoka.com/indexEn.html


以下は、スペインでのワークショップの写真。
ワークショップと「いっしょにやるアクションパフォーマンス」との境界線は、かなり、薄い。私がやるか、やらないか、というのは、大きいようで、大きくないみたい。


14.7.11

Instant God Service


今日は皇居見学に行った。朝10時。4日ほど前に、予約した。
大手町駅から歩く。陽はとても強いけど、風がふくので、気持ちいい。しかも、広々とした場所が、大好きな私は気分がいい。大手町駅から案外遠い。集合場所の桔梗門のところに10分遅れで着く。
遅刻したので、係の人に、小走りでマンツーマンにガイドしてもらいながら、ツアーグループに追いついた。このマンツーマンガイドが割とうれしかった。
でも、見学はあっという間に終わってしまった。1時間くらい?意外な短さ。
その後、一人で、江戸城跡を歩いて、北の門に向かう。本丸は完全な更地だ。篤姫のことを考えてみた。炎天下なので、ほとんど人が歩いてない。ひとりっていいな。妄想するのには、ちょうどいい。

北の門を出るとすぐそこにある、国立近代美術館で、クレー展を見てきたお客さんを眺める。彼らの頭の中にはクレーの印象が残っているんだろうな。これから、見ようとしている人たちとの表情を比べてみる。わからないけど、クレー展から出て来た人たちは、クレーグッズに群がっている。女性がなんたって多い。背後の気配には、あまりに無防備だ。これが、文化か〜と、眺めてみた。欲望に燃えているときこそ、背後を思ってみようぜ。別に私はスリではないけれど。
そういう自分も、売店で少し本を買ってしまう。

毎日新聞社のビルでランチ。サンマルクカフェとスタバとマクドナルドが並んでいた。サンマルクカフェで、サンドイッチとカレーパンを食す。

それから、大手町の方へ歩き、銀行本社街のビルを楽しみながら、銀行絡みの新しいシリーズ作品を考える。ATMに寝るプロジェクトはもうフィニッシュなので、もう少し、陽気なアクションをしたい。

もう一度、桔梗門に戻る。それから、正門へ行く。観光客がたくさんだ。
「インスタント***サービス(Instant God Service)」という作品を考えている。条件とか、段取りとか、日程とか。8月末までにやる。

単なるお笑いにしたくない。
誰のことも侮辱したくない。
そして、「ビジュアルイメージ」そのものが、なんと言っても大事だ。

人々が、「してしまうこと」に関心がある。

なぜ、日本人は天皇を神格化するに至ったか。そして、どうしてたった一度のお正月の詔で、あっというまに、「彼」に「神様」やめられてしまったのか。
経緯については、いろいろと調べた。

皇居前の、広々とした場所は、エルサレムの「嘆きの壁」のある広場を連想する。このような「聖なる場所」こそが、軍隊や警察が儀式をする場所だ。




エルサレムで私は、天皇の「人間宣言」の話を、カトリックである親友のチェコ人のマルティン・ツェットに話した。彼はとってもびっくりしていた。そして、笑った。「日本人って変わり身が早いね。」と。そして、テルアビブでは、ユダヤ教徒のプレムシャイに話してみた。彼は、ちょっと軽蔑したように、眉をしかめ「いったい、誰が彼を神と決めたのですか?、なぜ、彼自身が神ではない、と自分で言うことができるんですか?」と言った。
一神教の人々にとって、日本の天皇のことは、たぶん「あきれる」ことなのだと思う。

もちろん、日本ではそれを、悪ふざけでやったわけではない。
調べたところ、神格化されるに至った過程は、複雑だった。明治政府で、どのようにそれを、「採用」したのか、そして昭和の戦時に、その意味がどれほど、拡大単純化したのか、その辺は難しい。
そして、あっけなく、それは本人によって、否定される「形式」を取らされた。

わかっているのは。。。。
世界の「大航海時代」の始まった16世紀頃にさかのぼる。
人々が移動する、欲望が移動する、支配欲、カトリックとともにやってきた商人、そして、占領、植民地化。近代ナショナリズムは、一神教とともにやってくる。
そして、「日本」というまとまり=アイデンティティが求められ始めた(日本という言葉はまだなかった)。「それ」が入り込む隙を与えないために。江戸時代の国学者たちは、キリスト教も研究していた。彼等にやられないためにはどうしたらいいのか。聖なる「まんなか」を作り出すために、頭をひねってひねって、ひねり出した。それでも江戸時代は、それは「学問」「哲学」でしかなかったと思う。そして、明治政府の誰が、政治として「西洋列強に肩を並べるためには、日本オリジナルの選民的一神教を持たなくては」と思い、動いたのだろうか?
カトリックは「世界宗教」を目指したが、ユダヤ教は「ユダヤ民族に限る」。日本人は、それを意識したのだろうか?
チェコのカレル・チャペックの書いた小説『山椒魚戦争』に出てくる「山椒魚」は日本人だという説がある。


私は、それを「批判」ではなくて、「それはなんなんだろうか」ということを、カトリックのシスターの立場に成り代わり、考えてみたいのだ。自分たちには、必要不可欠と思い詰めたことが、他人によって、笑われる。軽蔑される。そして、そこで、カトリックこそが「批判」されるべきなのだ。


スタイルは、ユダヤ教の路上で行っていた「奉仕」活動をまねてみる。