3日前、夏休み気分で、佐倉の川村美術館に行った。モダンアートをあれこれ見るのって、本当に、世界から逃避した感じで、気が楽になれる。バーネット・ニューマンの特別室などは、ほんとに、あっという程、アメリカ美術が、希望に見えていた時代を感じた。
今のわたしたちは、そうはのんきでいられない。
ブックショップで、リヒターとタイマンスの評論を買う。リヒターは、webが充実しているから、すでにたくさん実物を見た人で、研究用という場合には、画集は買う必要がないと思います。
イデオロギーを拒否している。彼のその姿勢は、作品に現れる。それが思想そのものだと思った。ノンのノンだ。東でも西でもないし、イリュージョンでも、リアリティでもない。厳しく、「甘い」解釈を回避している。でも、絵画が、何かすばらしいことをしているわけでもなく、感情のニュアンスを表しているだけだとも言う。詳しく書かない。生意気に聞こえちゃうからね。ちなみに彼は、当時東ドイツだったドレスデンの出身で、60年代に、西ドイツに移住した。
きのうは、ビデオにとっておいた、スティーブ・ライヒの今年の東京でのコンサートを見る(聴く)。表現方法で、すでに充分、思想が現れているのに、わざわざ、アウシュビッツ話や、イラクで殺されたジャーナリストについての詩みたいなものを曲に混ぜているのは、あまり、しっくりしているとは、思えなかった。構成としても、クリアではない気がした。アメリカ人的ナイーブさを感じてしまう。ああ、これも生意気だよね。だけど、アメリカ系ユダヤ人という立場は、今では、中東ではある意味、加害者でもあるのだから。............リヒターの後に、接するとつい厳しくなってしまう。
ずっと前に、シンドラーのリストって、映画を、ビデオ屋で借りてみた。長いから、上下巻に分かれていた。上が、終わりかけのシーンは、ユダヤ人達が、trainでぎゅうぎゅう詰めで運ばれていくシーンだった。そのシーンが突如終わり、「引き続き、下巻もお楽しみ下さい」という字が出たとき、わたしは、ひどく、恥ずかしい気持ちになった。自分を責めさえした。でも、今は、言える。その恥ずかしさは、わたしのものというより、スピルバーグのものではない? 恥ずかしいという言葉は、ぴったりではないけど。
以下、写真。ドイツの死の商人(武器商人)と言われた男、アルフレッド・クルップの銅像の前で。