20.2.10

日常と内側

去年の7月に入ったまま、ほったらかしていたtwitterを思い出して、書き込んでみた。それから、それを、FacebookとLinkedInに、リンク。「友人の意外な日常を知ることができます」ということらしい。知らないうちに、意外な人が、わたしをフォローしているのに、気がついた。(フォローと言うからには、これは散歩のようなものらしい)これから、何が生まれるのか、もう少し、他人をフォローしてみないとわからない。でも、暇ではないとやれないんとちゃう?

10年前に出版された「情報デザイン学」といった本を、最近目を通して、とても楽しかった。10年前のわくわく感が伝わってくる。10年経っているので、もっと進んでいることもあるし、期待したほど進んでないものもある。「ユーザー」と「デザイナー」の境界がなくなるというのも、そう夢のようにはなってはおらず、せいぜい、ユーザーがデザインに参加することになった程度ではないかな。デザインしたりプロバイドする側は、あくまで利益を求めるし、使う側はあくまで「道具」または「娯楽」の感覚なんだと思う。どうでしょう? 
もっと勉強が必要かな。
わたしは、変わりゆく、身体感覚に関心がある。
一方、19世紀に書かれた経済学が今も有効である、といった、話も面白い。

私は10年ちょい前にインターネットをはじめた。e-mail に書き込みすぎることによる、礼儀やら問題やら誤解やらの配慮や作法の議論や工夫が、一通り終わったのが、わたしの感じでは、2005年くらいではないかな。mixiでも、最初はわたしもつい個人的な思いを書きすぎて、しくじった。私としては、外ブログを使うようになって、意識に公共性が増して随分、書きやすくなった。mixiで知り合える人には、限界がある。その後、面倒なMLからは手を引くなど、関係性の整理をして、今は、ネット利用は極めてクール。この間に、わたしの中のセンスとして大きく変わったのと感じるのは、自我意識。

自分の内側の奥に何やら、があるとは、感じないようになった。言葉も文章も、多くの人が使っているものを、利用しているのすぎない。ネタを明かせば、柄谷行人「近代日本文学の起源」に、影響を受けたのだけど、それは、ネット会話によって、余計に促進されたと思う。
なので、twitterに書く事は、出来事程度ということになる。自分の内側に、自分の内面がある、というのは、フィクションにすぎない、と感じるようになって、久しい。
ゲーテは言っている。「己を知れだと? もし、自分のことを知ったら、逃げ出すだろう」
これは、いくつもの意味にとれる。

自分のことと言えば、まあ、適性と言ったくらいのことは、知った方がいい、という程度ではないかな。
あるいは、他人に迷惑のかかる癖、といったことは、認識しておいた方がいいです。(まわりの他人は、いやほど、知っている)

自分だけが感じていることなどに、意味があるのだろうか? そういうことを大事にするのが、アートだったのかもしれないけど、それって、余計、孤独になるじゃない? 孤独がいやかどうかも、また問題。時間的には、孤独な時間はとても好きなんだけど、制作したものが孤独になるのは、どうでしょう? 普遍と個性の話をまだ、整理しきれない。唯一の場所としての、個人ってのは、どうなのよ、と思う。ノットとしての、個人はわかる。だが、それは、他とのつながりがあってこそでしょう? 個人とは、他者との関係性の束である、とキルケゴール(だったっけ)も言っておる。....... この辺が、実は、まだ解決がつかない。わたし、馬鹿でしょうか。

インターネットを使ったコミュニケーションは、費用が安くすむという事以上は、あまり、考えていなかった。だが、そのことの替わりに、何が、おこっているのか?