今日は、神保町のエチオピアでカレーを食べて、それから、近代美術館でケントリッチ展を見た。楽しくて、じっくり見たかったが、連れが、展示の仕方に不満があるらしくとっとと出てしまったので、気になって、あまりゆっくり見られなかった。(と言っても3時間は見ていたみたい。外に出たら、友達が凍えていた。)。月世界の作品が一番好きだった。エスプレッソコーヒーのカップの裏を覗くと、宇宙(あるいはミクロの世界)が見えて、エスプレッソマシーンが、ロケットになって飛んで行くのだ。彼の技法の集大成といった感じと、陽気さと、イマジネーションの自由さがつまっていて、良かった。彼の作品の中では、かなり軽めなんでしょうけど。
ところで、若い頃の南アフリカの人種問題、労働者問題などをテーマにしていたのは、だんだん、どこに行ってしまったのだろう。美術館の説明だと、「普遍的になったきた」と言ってすましているけど。こういうことは、よくある。
若い時は、何か、重要で大きな問題やテーマを取り扱うことで、自分を大きく見せたいということがある。そうこうしている内に、自分の本分に気がついていった、とか。
ただし、病と死を扱う、ということでは、続いていっているのではないかな。病と死をユーモアにつなげてみるのは、まだ、わたしには難しいけど、感じはよくわかる。父も最後のころはベットで「かゆい、いたい、ねむい」を、自嘲的に、三拍子にしてつぶやいていたっけな。人間生きていること事体が、笑える出来事なんだしな〜。深刻なことはおかしくもある。ギリシャでは、貴族以外の人間におこることは、すべて、喜劇だとされていたらしい。
それから、確かに、展示の仕方に問いがないわけではないと思う。アニメーション作品、しかもカラーがかなり似ているものを一部屋に5つも展示していた部屋で見たものは、記憶の中でまざってコラージュになってしまい、印象が薄い。じっくり見ることがなんとなく、困難になる。
神保町の古本屋の外に、intercommunicationが400円で出ていたので、つい、2冊も買ってしまったけど、ハイテクアートものの、10年前の本は、古すぎだね。帰りの電車で、失敗した〜、と思った。つまり、ハイテクアートって、そういうもんだ。
C&Mに、研究班というのが、確かできて、1月末に読書会をすると彼らは言っていたけど、やんなかったね。そのネタになる予定だった、スーザン・ソンタグの本がアマゾンから届いた。先日、写真美術館で、気になってしょうがなかった問いについて、ちょうど、考察が書かれているようだ。もう一冊届いたのは、「クルーグマン教授の経済入門」。