26.10.12

テイストとスノッブ Taste and Snob



以下、facebookに書いた文の再録です。


10月23日(火)
アートではいろいろなことがトライできるが、「テイスト」のことをアートだと感じている人は、なんらかの「テイスト」のモデルの範疇でつくるだろう。たとえば、最近は「スタジオ」的な場所を作るのが、流行みたいだ。何気なく見せているけど、わざわざ、コンパネむき出しみたいなテーブルや仕切りをつくったり、PCを何気なく置いてみたり。自然に見せて、それもテイスト。パフォーマンスアートでも、わざわざ、黒いゴミ袋を使ったりする人があるのも、実のところは「テイスト」。普段着の演出。綿々と続くのは「私

のこと」というテーマだ。これは誰でも取りかかりやすいし、他人につっこみを入れられないですむし、共有もしやすい。誰も考えてないことをするには、誰にも「テイスト」を理解されないリスクもある。つまりのところなんでもいいし、流行のことをしたければする、みたいなこと。


似ていてちょっと違った価値観として「スノッブ」というのがある。私的にはこっちの方が面白いかもしれない。「テイスト」派の方は、けっこう、まじめだったりするが、「スノッブ」派は不真面目を恥じない。まあ、どちらも表面的な話。大事なのは、楽しみながら、サバイバルすることだ、誰にとっても。それが、結果的に「リアリティ」になると思う。





10月24日(水)

テイストとスノッブの話の続き。



公共という話になると、「役に立たない」「正しくない」ことというのは、肩身が狭くなると感じがちだ。しかし、人間は、役に立たないけど楽しいこと、というのを抜きに生きていくと、かならずや、抑圧的になると思う。だから、酒場のだじゃれやぐだぐだ話、どうでもいい朝のあいさつ、商店街のおばちゃんやおじさんのつまんない世間話が、自然に生まれて来る。公衆トイレの落書きや、2チャンネル的なものなども、それに含まれる。そのくだらなさを、ソフィストケートしたものが
、アートなんだと、私は思っている。あるいは、錬金術的に「くだらなくない何か」のように変身させる。

そして、アートの中の2つの方向。中産階級のいい大人は、テイストを好む。安心して鑑賞できるよく手をかけた感じで、技のある「くだらない」もの。ある程度は「正し」しそうに見せたりもするかもしれない。大人だもんね、当然だ。一方、スノッブは、若者と金持が好むものだ。「くだらなさ」を極める、ひねりのある、思いつかないような「くだらなさ」。偽悪的になったりもする。そして「おれたちにしかわからないかもね」なんてポーズもとる。金持も別の意味で、占有的。なぜって、それが楽しいから。
若者でも金持でもないスノッブは、どうするのか。
それが、私の問題。でも、仲間はいるって感じがする。