思ったんだけど。
社会批判、文化批判をする時は、かならず「代案」をやり始めてからにしない?少なくとも、代案(実現可能性の高い)を必ず、言うこと。そうじゃない、「フマン」「ぼやき」は御法度にしない?
それを聞いている子供たちの気持ちになってみて。
子供って、好きな大人の味方をしてあげたいと思う生き物なんだ。覚えている?自分が子供の時のこと。大人になると、子供は無知で、非力で、勝手で、わかがままということしか思わないかもしれない。たまに「天使」「純粋」とか、大人の勝手な褒め言葉もある。
でもさ、それよりもっと大事なこと。子供は、「好きな人を助けたい」と思っているんだ。そして、それは「大人」であることは多い。気がついてる? そして、傷つくんだ。拒絶されて。
私は1961年生まれだから、70年代ににティーンエイジャーだった。70年代は、日本ブンカ批判のブームだったと思う。本も読んだ。とても、興味深かったし、私は「彼等のサイド」につくことにした。「影響を受ける」「学ぶ」ってことは、そのサイドについてあげたい、私が手助けをしたい、と思うことなんだ。
ブンカ批判って、頭良さそうな人がたいてい言っていたし、だから、私も彼等のようになりたいって思ったのも確かだ。
それから、30年以上が経った。彼等は今もぼやき続けている。そして、私もやはり、ぼやいてきたんだと思う。たぶん、就職と同時にぼやき始めた。でも、何かしたかな。したことと言えば、会社も博物館もやめてしまったことぐらい。
安手の小説やTVドラマや歌詞で聞かせるフォークソングって、そういう「社会に対するやりきれなさ」を抱えている人たちが「溜飲を下げる」ことができるようになっている。
確かに、どうにもならないことっていっぱいあるよ。
それに対して、「ま、いっか」って言うことは必要だとは思う。
けど、ぐちぐち言うばっかりって、そういう習慣って何? 自分は賢そうに見える? 負け犬に見えないために、リクツをこねるのさ。
でも、気がついたんだ。負け犬なんて、意味ない言葉だよ。そういう比較が好きですか?
気がついたんだ。「無責任だよ。」
「味方になってあげる」と思った子どもたちに。そして、私は「期待」に応えられるようになろうってがんばってみた。でも、どうやっても、先生は許してくれなかったね。
ふと、甦ってしまったんだ。あの日のことが。なぜ、私は許されなかったかが、わかった、先生は、ことが「好転」することなんか、期待してなかったんだと思う。「だめだね、世の中」って一緒に言う仲間が欲しかったんだね。そして、しばらくして、私はそういう大人になったみたいだった。私は、思い切りそうなったんだと思う。ああ、でもやめた。たぶん、大分前にもうやめている。
私の代案は、「言わないこと」。
そして、時間がかかって、うまくもいかないかもしれないけど、何かをやる。
へんな「満足」をしたくなくて。
そして、時間がかかって、うまくもいかないかもしれないけど、何かをやる。
へんな「満足」をしたくなくて。