16.6.11

立ち位置 

きちんと書こうと思っていると、いつのことになるかわからないので、少し書いておきます。

私の立ち位置は、わりとわかりにくいらしい。
ノンポリに見えるし、社会派にも見える。というか、人それぞれなんだと私は思うんだけど、わりと、他の人はカテゴリーがはっきりしているようです。もっと、揺らいでいてもいいのでは?



<イスラエルのこと。>

日本では、特に関心ない人か、あるいはイスラエルという国に反感を持っている人かの2通りしかないみたいに見えます。反感を持つ人に対して、私は、自分の立場をはっきりさせなくてはならないかな、と思っています。でも、たいていは、はっきり聞いてこないで、探るような質問だったりするので、答えにくい。

だから、書く。
私の立場。
まず、アーティストや、個人は、かの国の政策とイコールではないという、当たり前のことを言いたい。そして、彼らはとても悩んでいます。ボイコットや、いやがらせをあちらこちらで受けている。
ネオコンのような、お金や権力のある人は、主にアメリカに住んでいます。今の首相もアメリカ育ちで、アメリカの大学に行っている。一方、主な市民は、イスラエル建国の時に、やってきた人たちと、その子孫ですが、やってきた、ということは、それまでに住んでいた場所では、あまりうまくいってなかったんだと思います。だから、希望を持ってやってきた。つまり、金持ち階級ではない人が多い。イスラエルを動かしているのは、アメリカのネオコンだったり、イスラエルの上流階級である、アシュケナージュ(ドイツ語圏から移民してきた)です。ユダヤ人には、スラブ系だって、アラブ系だって、アフリカ人だっています。それが階級をなしていて、それもなかなか、大変らしい。また、ユダヤ教の宗派もいくつかあって、頭に丸い平たい帽子をのせている「改革派」は、最も危険なナショナリストだと、私の友人であるイスラエル人は、警戒していました。彼らの中にも、様々な違うタイプの人がいるのです。それを、まとめて、イスラエル人として、ボイコットするのは、違うと思う。
もちろん、いくら何千年も前から「約束の地」だったからと言って、そして、イギリスに建国をすすめられたからと言って、それまで何百年と住んでいた、アラブ系の人を追い出すのは、ヒューマニズムから考えて間違っている。建国以前は、混ざり合って、同居していたのです。

テルアビブは、新しい町なのでともかく、エルサレムの状況はとんでもない。アラブ系の人は、端っこの方で、汚いコンクリート(に見えた)の家で暮らしている。そして、蛇のように長い壁によって、居住地が分けられている。イスラエルの市民権がないので、パスポートはヨルダンから出してもらっているそうです。パレスティナのパスポートがありませんから。
ユダヤ人の入植が、他の民族を「避難民」にしている状況を悪いと感じたユダヤ人で、移住するお金とチャンスのある人たちは、海外に出ていると聞きます。でも、誰でもがそれをできるわけではない。国際社会の倫理感からすると、そうすべきかもしれません。

パレスティナ人というと、貧しいという印象かもしれません。貧しい人は貧しい。でも、リッチな人は、とてもリッチです。ユダヤ系のアーティストたちは、あきれるほど、ボロ車に乗っていましたが、パレスティナのアーティストは高級車に乗っています。つまり、パレスティナでは、リッチな人しか、アーティストにならないのかも。ここに、アートは世界でどういうものかを、示していると思います。

ユダヤ人は、2000年も前に、エルサレムを追い出され、さまよい続けてきた。たぶん、そういう民族は他にもたくさん、あったでしょう。そして、大抵は他の民族と混ざって、消滅したのだと思います。民族の定義も、いつの時代からなのか、案外、近代のものかもしれません。それにしても、やはり、強い血の流れている民族であることは確かです。

彼らをそれを「葛藤(コンフリクト)」と呼びます。「解決(ソリューション)」という言葉もよく耳にします。強さもまた、コンフリクトのもとです。


ユダヤ人の個人個人は、その「コンフリクト」のことで苦しんでいる。苦しみ方は、様々だけど。
ユダヤ人ではない、ヨーロッパ人のアーティストが言いました。「信仰はすばらしいけど、そのコミュニティが問題なんだ」と。

日本人的に言うと「信仰」も問題かもしれません。でも、私は「信仰」のない人はいないと思うし、ないと思っている人が気持ち悪い。具体的な宗派に属する必要ななく(宗派は、コミュニティで、パワー(権力)をつくる装置ですから)、一人一人が持っていれば充分だと思います。人の心には、自分という狭い範囲だけの感覚ではない、何かが必要です。というか、「自我」という観念は、近代の作り物であり、それもちょっとした妄想だと思います。だから、信仰がない人は「俺様」的な人か、あるいは誰か他の「人間」に特別な思い入れがあったりするので、それは気持ち悪い。あるいは、「イデオロギー」。「科学」もそうだし、「拝金」もそうでしょう。
イデオロギーの人は気持ち悪いだけでなくて、コワイ。自分は正義だと思っているらしいけど、そのイデオロギーのパワー(権力)を自分の一部だと思い込んでいる。だから、彼らは、揺るぎがないよね。まあ、信仰も、しばしば、そういうことになりますね。
仏教は、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教という一神教と違っていて、その意味では宗教とは言えない。哲学に近いと言われます。だけど、教団を持ったり、ローカルな信仰と混ざって、危険なものになることはしばしばありますね。コミュニティは、人間社会には必要なものだけど、なんの力で集まっているか、が問題だ。

近代人は揺らぐべきなんだと思う。揺らいでない人なんてコワイです。
なんら信仰もないよ、日本人のひとりって意識もあんまりないよって、言う人もいるようですが、それはどうなんでしょうか?
誰一人として、自分一人で生きていないのです。
だからって「世間様」ではだめだと思います。狭すぎる。誰かがコントロールしている可能性もある。空気なんか、読んじゃだめです。


ということで、イスラエルの事を書くと、ものすごく、長い長い、しかも、宗教的な話になってしまうので、そこそこにしておきます。でも、その意味で、このテーマには「近代」と「近代以降」の世界におこっている、問いがつまっている、とも言えます。
何か、短く説明できる方法が見つかればいいのですけどね。

以上で、私の立ち位置が少し説明できていればいいんだが。

すくなくとも、私が彼らと親しくなればなるほど、私への評価も危なくなっているんだなという、感覚はあります。日本では、たいしたことないでしょうが、欧米ではね。でも、それは受けて立ってみようかな、と思っているところです。そして、なぜ、仲良くなってくるのかの理由も不思議だ。

たぶん、私が子供のころから、「亡命」という言葉にひっかかっていたことと、関係があるかもしれません。