17.6.11

今日は美術館に行かない

今日は、夕方に知り合いのイベントがあるので、でかける。だから、その前の美術館など行こうかなと思い、いくつか、調べてみたけど、なんか、動けない。

今、私の感覚の中で、アートマーケットというのが、かなりネガティブに響いている。勿論、世の中に存在していることにまで、文句をつける気にはならない。
ただ、それを動かしているのは、「超金持ち」たちであるってことが、わかって来たし(それは、日本の多くのコレクターたちの比ではない)、大きな美術館で見せているのは、そのおこぼれみたいなもんなんだ。特に国立系の美術館はそう。「超金持ち」に対する反発は、全くない。そういう人がいてもいいと思う。だけど、彼らの文化は、私や私が愛している友達、知り合いたちの文化ではないんじゃない? そういう所での、新規なアイデアの新しい作品群の価値を決めているのは、彼らなんだ。その「超パワー」を感じる場所になりつつある、国立美術館。作品のコンセプトを読んで、感心してはならない。あれも「超金持ち」イベントの流儀で、形式みたいなもんだと思う。最後のところでは「欲しいか」どうか、なんだから。なんのために欲しいかというと、それは、彼等の文化のためである。彼らは自分のうちにそれを飾り、社交パーティを開き、その作品を見せびらしながら、様々な考えや感想を言い合う。彼らの知的好奇心をそそるものなのである。別荘を買ったり、ボートを買ったり、時には自家用飛行機を買うのと同じように、アート作品を買う。それらは、自分の「高さ」を自慢し、競争するためのもの。それはそれでいいと思うけど、それは私のブンカではない。
アーティストは、実のところ、芸人フゼイなのだから、もともと、彼等を喜ばせてなんぼの職業であったのかもしれない。でも、そういうことは変わりつつあるのではないかな。

このことが身にしみて感じたのは、ここで以前、少し書いたことのある「東北大震災をテーマにしたチャリティ展覧会をアートバーゼルで開き、大金持ちたちからのドネーションを義援金にする」という計画への参加経験から。これは、3月の末頃、少し名前を知っていたある若いキュレーターが、ツイッターで、その企画スタッフのボランティアを募集していた。その頃、アートチャリティが続々と企画されていて、もともと、「もの」を作る系の作家ではない私が手元にある「お金になる作品」はわずかだし、うまくお金になっても、数万円。それよりも、バーゼルの大金持ち相手に、売れれば一点数十万円以上になるアーティストの作品をいくつも売って、義援金にする方が、現実的だと思ったからなのだ。

だけど、それはだんだんチャリティの要素が減って行った。アートバーゼルは、一見優雅ではあるが、大金の動くところだから、ディーラーはしのぎを削って、大仕事をするところであり、一ボランティア団体が、どんなに大きな犠牲に対するチャリティだからって作品を売ってお金にするなんてこと、甘い考えだったってわかったきたのだ。だって、それだって、彼等の貴重な「パイ」を削ることになるからね。ということで、これはブロックされてしまった。これはこれで、いい研究だった。

でも、その代わりに何をするか、という議論が始まっていくと、なんだか、目的がもともと違っていたんではないかと気づく。少なくとも、私の考えとは随分、違うんだなと思うようになった。どんなに優れた超有名アーティストによるアート作品だとしても、それ自体が、東北の犠牲とその復興をサポートする力を持つとは私は思えない。それは、あくまで「ブンカ」。ブンカを共有していない人には何程でもないことだと思う。いくら、アートの超パワーだって言っても、アートの世界の話にすぎないと私などは、思ってしまうのです。
しばらく、興味深い議論を彼等とすることができたことには感謝でしています。もし、誰かメンバーが、このブログを見たら、あまりいい気持ちがしないかもしれない。ごめんなさい。


文化は、階級と差別のひとつの姿だ。どんな文化も、なにかしら、排他的になる。


国立の美術館というのは、国威発揚のイメージの宝物館である。国立劇場は、もっとあからさまに国威発揚。ここでも言うけど、私は「国威発揚」を批判しない。愛国心って大事なものだ。
だけどさ、あれって、私たちの文化だろうか?
今だに、西洋文化に負けないように、汗かいて、誰かを蹴落としながら、格好つけるための場所に見えちゃう。「愛国心」があるなら、もちょっと違うことをした方がいいのではないだろうか。

そういえば、私は、「博物館学」をちゃんと学んで、学芸員の資格もあるんだよ〜ん。でも、「博物館」はパワーの表現だとは習わなかったけどね。それは、感じて学ぶもんだろう。


個人的には、西洋から、いいことはたくさん学ぼうと思う。まず、観客は「ありがたいものを見て帰る」のではなくて、見たものの感想をたくさん言おう。文化に参加するのだ。ネットで書くだけでは(今、私は書いているわけだが)なく、生の空間で意見を戦わすんだ。好きか、嫌いかだけだったら、会話にならないことにすぐ気がつくだろう。そして、「正義」や「慈善」や「癒し」では、終わらないことにやがて気づくだろう。「一流」を与えてもらうんではなくて、「一流」を育てよう。金出せって言っているわけではない。そういう「文化」が生まれるような生活や話し方を持つってことだと思う。「私はこう思う」と言うのを、ずかずか言う。「どうして?」って誰かが聞く。それを伝えられるように、言葉や態度を工夫して言うんだ。勉強も必要さ。そうやって、みんなでセンスを磨くんだ。「一流」と「上流」は同じではない。「一流」は、どこにでも築くことができる。劣等コンプレックス持っているうちは、それはつくれない。



ということで、今日は、MOTに行きません。
今日が特別ってわけではないんですが。