21.6.11

安全に水を運ぶ

<ワークショップ その3>

3日前から、連続で投稿させていただきいているのは、先月のエルサレムと、先週の月曜日に東京経済大学で行なったワークショップのご報告です。ワークショップとはいえ、これ らは、私が2008年頃から始めている、「いっしょにやるアクションパフォーマンス」の流れという気がしています。これをすることで、私自身が気がつくことが多いし、作品にほぼ近い感じがします。私のアイデアによって、他者が動くことの責任と、アイデアをシェアするわくわくがあります。そして、リフレクションがとても大事な気がしています。

水は、エルサレムで問題である以上に、これからの世界で、エネルギー問題に次いで、テーマとなるでしょう。ビジネスだけでなく、災害に発展することもある。水害と旱魃。


この水を運ぶアクションは、エルサレムではワークショップとしてではなく、私自身のパフォーマンスとして行ないました。フェスティバルの最終日の最終時間に、自分のメディテーションのためと、東エルサレムのムスララという場所へのデディケーションとして、プログラム外で、アナウンスなし。もう夜もふけた、10時過ぎ。水をいれた白いボウルを両手で持って、フェステイバルの会場だった、住宅街の坂をゆっくり、上ったり降りたりしました。片道5分くらいでしたか。高いところから、青い水を運び、低いところから赤い水を運び、さらに、高いところから、赤い水を運び、低いところから青い水を運びました。

エルサレムは、水問題が深刻であることが、滞在しながら、ひしひしと感じました。イスラエルは、ほぼ、砂漠と言ってもよいような地域に位置しています。上の写真は、エルサレムからバスで2時間くらいのマサダ(世界遺産です)。国家的計画のひとつとして、木々が都市には植えられていますが、そこから離れるとほぼ砂漠。なぜ、そのような場所が、聖地として2000年以上もの間、ヨーロッパ、ロシア、アメリカ、中東、北アフリカの、キリスト教徒、ユダヤ教徒、イスラム教徒の「聖地」として、奪いあっているのか、日本人の私にはよくわかりません。そのような土地であるから、あの厳格で、パワーのとてつもなく大きな宗教群が生まれたとは言えると思います。
僧侶以外に、戒律などほとんどない、仏教圏の人間にはピンと来ませんね。

一方、東アジアの私たちは、「一杯の水にも感謝」と言って合掌する、という、仏教/仏教以前の文化を持っています。私たちが合掌する理由は、その対象(唯一無二の、厳格な神、ヤハウェ神のような)に「許しを請う」ためではなくて、その恵みに「感謝」し「ともにあろう」とする意識です。これが東アジアの宗教感覚だと思います。とにかく、日本では、水が豊かであるゆえに、泉や湖や川や滝や海に、静かに手を合わせてきました。勿論、旱魃の年もあるし、水の事故は多数ありますから、恐れもあって、手を合わせてもいます。龍のような存在として。

東京経済大学では、これをワークショップとして行ないました。学生さんたちは、頭に靴をのせています。これは、前のアクションから続いています。(一昨日の投稿をご覧あれ)かつて、川渡りで、歩いて渡れる川では、そういう格好だったと思います。わらじと荷物を頭に載せて、渡ったと思います。

たくさんの倒れたパイプ椅子で足場の悪いところを、頭から靴が落ちないようにしながら、水をたっぷりたたえたのひらサイズの白い皿を手に、静かに歩きました。実際のパフォーマンスは、神聖な空気とはほど遠い「がたがた」したのりですが、だんだん集中していく学生さんたち。いい時間でした。見た目よりむずかしいんですよ。













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