2.9.10

躁状態の強要

タンスに白骨化したお母さんをしまっていた事件(事件と呼ぶべきか?)やら、摂食障害の人のインタビュウ(今、わたしが臨時収入としてテープ起こししている)やら、身近の人たちの様々な悩みを聞いたりしていると、いつも「躁状態」であることを、強要されている強迫観念に満ち満ちている昨今の東京の「アート」シーンが、どこか、別の島で行われている絵空事にか、にしか感じられない。


何も「掬って」ないではないか?アートは。


今月末から始まる予定の「MediAcitons」では、どういうスタンスでいこうか、まだ迷っている。「パブリックな」人間として、「前向きに」語られている言説の、尻馬に乗ってみようかと思ったこともあるけれど、それで、どうなる? パンフレットの「挑発的」なアイデアを頭に叩き込んで、ワークショップ案を10個以上も考えてみたが、まあ、それは頭の体操、ということで、もう少し、真剣に「掬う」ことを考えたい。



「人は、メディアを手にした」。しかし、関係性は、より希薄になっている。





躁状態なふりするなんて、まっぴらでしょう?