サバルタンという言葉がある。ググってみて驚いた。間違った解釈が書かれたりしているので要注意。私だってそう詳しいわけではないけれど、たぶん、私の解釈はたぶん大丈夫(笑)。「サバルタンは語ることができるか」というスピバクというインド人の女性学者によって書かれた書物がある。私には筆力がなさ過ぎるので、知らない人で、ちゃんと知りたい方は「サバルタン」と調べずに、本のタイトル「サバルタンは語ることができるか」ごと、ググってください。勿論、本を手に取ってみるのが一番早い。
それで、私流に簡単に要約すると、自らの声を語るべく言語を持っていない人々のことを言う。スピバクの著作では、インドの被支配層の女性などが、特にそれにあたる(非支配層が下層とは限らない)。だが、私は、その意味を広く解釈して、私たちも多かれ少なかれそうだと思う。アートは結局ところ西洋文化だ。どんなに「日本にも芸術がある」と叫ぼうが、それは骨董だったり、装飾だったり、まあそんなところだ。ああ、この話をしていると、長くなりそう。まあ、それは、所詮、借りている言語なのだ。もちろん、ハイブリット的に、自分のものにすることは可能だと思うし、そうしているがアジアのアートだ。
一方、アートも興味ない、文章も書かなければ、読まない、ほとんどしゃべることもないという人の中には、日本語すら、自分の「声」を表すためには使ってない場合もある。単に、他人との約束事を、やりくりするための「テクノロジー」としているだけで、自分の声はひたすら隠している人もあるだろう。にこにこするとか、うるせえと言って暴れたりする。お金で表現する人もあるだろう。お金は雄弁って言うね。また、好きな趣味の時だけ、没頭するとか、ね。引きこもりや、オタクと言われる人たちは、外と「心」を通わすために、日本語を使うつもりがほとんどないし、信じてないし、うまく使えない。逃げるし、かくすし、ごまかす。これも、コミュニケーションである。
うちには、保苅実という人の「ラディカル・オーラル・ヒストリー」という本がある。これは、保苅さんという若い日本学者が、オーストラリアのアボリジニの人たちを調査したものだ。彼はできるだけ、彼らの言葉で、書き記そうとしている。それは、日本語だとか英語だとかそういう問題ではない。しばしば、西洋人だったり、西洋的な民族研究のノウハウを学んだ学者が、彼らを「解釈」する際に、優越的な立場で持って「そんなことあるわけないじゃないか」という勝手な解釈を加えることがあり、その方法に抗ってみようとしているのだ。事実の受け取り方は、ひとつではない。それが、学問的に、問題があったりすることもあるらしいが、この保苅さんは、ベストをつくしていて、著作は結果、温かいし、すがすがしいものになっている(と思う)。
人は、口にしていることが、言いたいこととは限らない。どうしてもうまく言えないと感じている人もいれば、ぺらぺらそれらしいことを話すことに疑問がない人もある。借りた表現で満足している人もいて、それが面白ければ、他人は信じる。人は、「腑に落ちる」話を信じたいだけであり、真実を見極める力のある人は、ないと言いきってもいいかもしれない。だいたいにおいて、言語化されない声を、身体性なんて言っちゃうのよね。まあ、そうだ。
それで、いいじゃん。
結局のところ、人は「この人は信じられそう」とか「仲良くなれそう」とか「使えそう」とか「都合が良さそう」とか、そういうのを、言葉ではなくて、気配や経験則なんかで受け取ってる。
たとえば、フロイトの影響で、シュールレアリズムの人たちは、無意識を見つけるためにいろいろなことをしてみた。それが成功していたかどうかは別として、「あ、これって本当かも」というようなことは、論理立てて考えて出て来ることより、なんかの間違った組み合わせの中から出て来ちゃったりする、という経験は誰にもあるだろう。それらしいことの組み合わせで出て来ることって、それらしいだけなんだ。
てなわけで、現在の企画の「モバイル・ティーパーティ」では、「こんなことって思っているのかも」とか「それってありなの」とか、ばかばかしいことかもしれない、棚からボタ餅ではなくて、ひょうたんからコマみたいな、言葉のフラグメント集を作ってみたい。こりゃ、正攻法では出てこないと思うよ。
「わたしたちは、市民として声を持ちました。それは民主主義を語っているでしょうか」とはいいながら、そうでもないし、うぬぬ、どうなんでしょうか?
今、その「ひょうたんからコマ」が出てくるような、方法を考え中。
ワークショップなので、「こんなのどうでしょう?」ってアイデアがあったら、是非、お知らせくださいねっ。コラージュもいい方法かも。