東大の赤門入ってすぐの所にある「福武ホール」に驚く。すげい。大学院「情報学環」という研究のビル。これが大学の施設か?と言う程、美しいビル。おしゃれなカフェなんかもあるし。東大って、建物博物館みたいなところだ。新旧。なんだか、富が集中しているという印象。こういうところで勉強した人は(しかもあたりまえだが、私立より学費は安いわけだ)、是非、日本の国民のために尽して欲しいなあと心の底から思う。
フジハタ先生によると、この分野に「批評」が必要な最大の理由は、「テクノロジー」への楽天的な期待に対する問い。それには、クリティクがなければ危険だということ。メディアアートの、というより、IT技術(この言葉はもう古い?)と情報学への問いでもあるが、やはり、メディアアートなるものへの問いでもある。おもちゃ作って喜ぶな、みたいな感じかな。インターネット万能主義みたいな恥ずかしい「スローガン」も多いと。
フジハタ先生は、最近、機械に笑われているような気がするそうだ。最近は、メディアアートの展覧会って、はずかしくて行きたくない、とも言っておられた。なるほど〜。
そうだ、その過大な期待のおかげで、あのような豪華な場所があるのだよな。複雑だ。ヨコハマ映像祭があるのも「メディアアートは未来志向型」だと信じられているからだ。
フジハタ先生は、ついに「良い作品がないことが何より問題だ」と言ってしまう。
メディアアートが期待されていない分野だったら、先生もわたしと、同じようなところで、やっていたかもしれない。それはどうなの?
まあ、ともかく、矛盾をそのまま、出すのは、良いことだとは思う。「澱」みたいなところ、「亀裂」みたいなところに何かがある。
きのうの「問題提起」になっていた立命館大学の北野先生のテキストは、ほぼ全文インターネットにありました。『映像論序説』。出版もされています。
吉田先生のプレゼンテキスト。「メディアにとってクリティークとは何か」。これらがインターネットにすでに出ているところが今風だね。
別件だけど、言葉にたいする感覚なんてことも考えた。わたしは、言葉の「音」と、言葉を字に書いた時の「図」をすぐ考えてしまう。きのう取ったメモも、だんだん、紙の上のドュローイングみたいになってきた。イシカワライタさんの作品みたい。
わたしは、言葉を「建設」することをしようとして来なかった。これからもしないと思うけど。学者や物書きは「建設」するのだね。