台湾でのパフォーマンス3つを考える。
2つのデユレーションは、新しい作品で行く。だから、テストがいるし、ものの準備もいる。ちょっとわくわくしている。コンセプトが、明確すぎるけど、身体的でもある。
一方、台東大学でのソロパフォーマンスはただひとりなので、プレッシャーだけど、ありがたくそのプレッシャーを受け取って、Wind from Skyの銀座バージョンをもっと発展させたい。もっと、気違いじみても良いと思っている。
オーガナイザーのイエン・ツーチーは、かなりポリティカルなパフォーマンスをするタイプだけど、呼ばれたアーティストは、それほどポリティカルよりではなくて、アート寄りだ。彼女もここ数年で、勉強したらしい。
きのう、ビデオで録ってあった古代エジプトとインカのドキュメンタリーを、父と一緒に見た。その時思ったこと。たとえば、ラムセス2世は「富を欲しいままにした」と言われるが、その言葉を20世紀に持ってくると「悪人」のイメージがつきまとうのに、古代エジプトなら、「偉人」となる。冷静に考えて20世紀的倫理観が、普遍ではないことが、よくわかる。
大先輩のフルクサスは「民衆のための」ということを言っていたけど、それは20世紀の夢だと思う。そのように考えることで、インスピレーションがわく時代は、60〜80年代くらいまでだったかも。(1920年代にも、そういった動きがあったが、実際に貧しかったと思う。)
たしかに、1970年代くらいから最近までの日本は、知的芸術的センスのレベルと階級はあまり関係がなかった。それは、多くの人が、余暇を持つことができたからだ。だけど、だれでもが、そこそこに、余暇を持つことのできた時代が通り過ぎはじめている現代では、貧しい場所で知的レベルを上げるのが、むずかしくなっていく。あるいは、徹底的に働かずに、芸術レベルを上げる選択肢もあるね。さてどうする。
なんてことを思った。